少女、怪物と巡り会いす

 その時何が起きたのか、幼い少女には理解出来なかった。ただ父の力強い手、母の優しい温もりが突然奪われ、この身が何もない道ばたに放り出された。そしてそれは、自分だけではなかった。
 人々が日々の生活を営んでいた村は戦場と化し、多くのものが泣き叫び、逃げまどっては、少女の両親と同じように地に倒れ伏した。飛び交う悲鳴、襲いかかる恐ろしい黒い影、甲高い金属の音――何が起きたのか理解出来ないまま、少女はただ、嵐に怯え木の虚の中で過ぎ去るを待つ小動物のように、自分の姿を誰にも見とがめられぬよう、目をつむり身を縮めて息を止めていた。
 どのくらいの間、そうしていたのか。
 子供の時の感覚は大人のそれよりも長く、そして濃密に引き延ばされるものだ。天高く昇っていた太陽がすでに山の向こうへ落ち、また昇ってくるほどの時間――実際はそれほど長い時ではなかったのであろうが、途方もない時が過ぎたかと思う頃。
 少女は自分が闇に覆われている事に気づき、そろりと顔を上げた。そしてひくっ、と喉を引きつらせて硬直する。
 彼女の前に巨大な何かが立ちふさがり、視界を闇と見まごうごとき影で覆い尽くしている。
 小さな小さな少女に比して、それはあまりにも巨大であり、あまりにも異様な代物だった。
(こわい)
 正体も何も分からぬまま、恐怖が先んじる。少女は怯え、目を見開いた。幼き故に死を知らず、ただここで命を終えるのだと言う事を直観して恐れた。
 轟、と風がその身体を打った。開いた目が乾くほどの強風に瞬きをし、その端から涙をぽろりとこぼした時、影が動き、近づいた。
「おーい、生きておるか、小僧」
 烈風が、言葉となって耳に届く。近づいた影の輪郭が判然とし、真っ赤な髪と髭を帯びた顔と見分けがつくようになる。少女は身を強ばらせたまま、それがなんであるかを、ようやく理解した。これは怪物だ、途方もないほどに大きな体つきをした怪物なのだ。
「ほれ、何とかいわんか、ん? よもや、正気を失っておるのか?」
 空気をびりびりと震わせる声は、それだけで少女の神経をずたずたに引き裂きかねないほどに力強い。更なる恐慌に襲われ、少女はヒッと悲鳴を漏らして背後の壁にすがりついた。
(こわいこわいこわいこわい)
 心が凍り付き、か細い手足が蟻の如く蠢いて、その場から逃げだそうと無様に足掻く。だが、これほどの怪物を前に、逃げ切る事など出来ようものか。
 じたばたと動き出した少女を、相手は苦もなくひょいと拾い上げた。ぐん、と上に持ち上げられ、足が地面から離れる。自身では叶わぬ高さまで吊り下げられた少女の視界には、まじまじと彼女を見つめる、赤い双眸。
「親とはぐれたか、小僧。ここに隠れて、蹂躙の難を逃れたのだな」
 その巨大さ故に少女を怯えさせる怪物の言葉は、理解出来ない。だがしかし、その声音は最初に耳にした時よりも少し和らぎ、労る色を帯びた。
(こわい)
 恐れは変わらない。けれども少女は暴れるのを止め、大人しくした。無闇に抵抗しなければ、この怪物は少女を放っておいてくれるかもしれない、幼心にそう判断した故であったが、しかし怪物の行動は予想に反していた。
「よし、ちょっと余と共に来い。安心しろ、取って喰ったりはせんからな」
 そう言うや否や、少女を腕に抱え、人々が横たわる村の中を、ずしんずしんと歩き始めたのである。
 訳の分からないまま、少女は怪物に攫われた。

 元の場所に戻りたい、父と母の元へ行きたいと半ば恐慌状態で願ったが、自分を支える怪物は恐ろしいほどに鍛え抜かれた身体をしていて、腕など少女の頭よりなお太く、動くたびに筋肉が脈動するのがそれと知れるほどである。
 その気になれば分厚い手だけで少女を粉砕出来るであろう、と薄ぼんやり察知し、少女は震えながら大人しくした。それに気を良くしたらしい怪物は、より一層歩を早め、村を通り抜けてその入り口へと至る。
 そこには天幕を張り、気ぜわしく走り回る男達が大勢居た。皆が皆、少女は見た事も無い、きらきらと光るもので身体を覆い、屈強な体つきをしている。その内の一人が怪物に気づき、駆け寄ってきた。
「殿下、山中に逃げ込んだ賊は狩り出しました。程なくねぐらも明らかになりましょう」
「うむ、良くやった。首領を捕らえたならば、余の前に連れてこよ。余の領土で狼藉を働いたツケ、その身をもって償わせてやるわ」
「はっ。……ところで殿下、それは……生存者でございましょうか」
 男が少女を、うろんげな目つきで見る。怯えて縮こまる少女を、しかし怪物はまたもやちょいと摘んで、男に渡した。
「物陰に隠れて、夜盗共をやり過ごしたようだ。この有様であるからな、湯を使い食事を与え、眠らせてやれ」
「畏まりました、殿下」
 少女を受け取った男は、人間だ――少女の父と似た姿形をしている、紛れもない人間である。男は少女を腕に抱え直し、痛ましげな表情で、
「……怯える事はない、もう大丈夫だぞ。お前の親の仇は捕らえ、しかるべき罰を与よう。今は安んじるがいい」
「……っ、……っ」
 人の言葉に、恐怖の殻で堅くよろわれた少女の心が解れる。少女は声の出ない喉を引きつらせて脱力し、後はなすがままとなった。

 汚れた身体を洗い流され、生まれて初めて腹一杯に物を食べた少女は、夢も見ずにぐっすり寝入った。
 目が覚めた時、見慣れぬ天幕の中にいたので一瞬混乱へ陥りかけたが、恐る恐る外へ出てみると、彼女の世話をした男が、ちょうど食事の煮炊きを行っているところだった。
「おお、目が覚めたか。気分はどうだ? どこか痛むところはないか」
 男は少女に目を留め、にっこりと気安く微笑む。優しい笑顔にほだされ、少女は首を振り、ててて、と歩み寄った。
 あれほどたんまり食事をしたにもかかわらず、腹がすっかり空っぽになっていて、男の前にある鍋から立ち上る湯気にぐぐぅと音が鳴る。
「はは、食う元気があるのなら良かった。待ってろ、今よそってやるから……」
 そう言って男が脇に積んだ椀を手に取った時、ずしん、と地鳴りがした。びくっとする少女の前で男はハッと息を飲み、勢いよく立ち上がった。ずしんずしんと地響きは続き、しかもどんどん近づいてくる。
 何事かと怯えて男の足にすがりついた少女は、朝靄の中からぬっと現れた怪物の姿に、危うく悲鳴を上げかけた。また来た、恐ろしい怪物が来た。しかし恐れる彼女とは正反対に、
「これは殿下、このような場所においでになられるとは! ご用命あらば、いつでも馳せ参じましょうものを」
 男が声に畏怖を乗せて言う。怪物は呵々と笑い、
「何、気にするな。昨夜の小僧の事が気にかかってな。どうしておるか、様子を見に来たのだ。あ奴はまだ寝ておるか?」
 天幕の方を窺った。それに応えていえ、こちらに、と男が少女を前に押し出したので、少女は恐怖に凍り付いた。
 何て事だ、怪物がまたもや現れた。今度こそおしまいだ。わざわざ探しに来たらしいこの怪物はきっと、自分を頭からバリバリ食べてしまうつもりなのだ。
 ぶおっ、と風を立てて、怪物が少女の前に身を沈めた。
 視界いっぱいに映るのは、どう猛な獣を思わせる、荒く猛々しい顔。その眼光だけで少女を射抜き殺すかのような鋭い目は、しかし少女を頭から足先までまじまじと見やって、不意に丸くなった。
「お、お、何と。もしや小僧、いやこ奴、娘であったか?」
「はっ、その通りで。私も湯浴みをさせるまで気づきませんでした。てっきり、男かと思っておりましたが」
「汚れを落として、随分見違えたな。……うむ、痩せてはいるが、可愛らしい顔をしておる。それに」
 不意に頭が大きなもので覆われ、少女はびくっと肩をすくめた。それが怪物の手だと気づいた時には、このまま頭をもぎ取られるのでは、と戦慄したが、
「これは見事な赤の髪。まるで余のようではないか」
 手は少女の頭を撫で、髪を梳いた。予想外に優しい手つきは、少女の父のそれと同じだ。しかも怪物は目を細め、労りの表情で少女を見つめている。
(怪物……じゃ、ない?)
 人のそれと同じ愛撫の仕方に、少女は驚きと共に認識を少し改めた。
 これはもしかして、怪物ではないのではないか。もしかして――並はずれて大きな体をしている、人なのではないか。
「余の他に、これほど赤く染まる髪を持つ者は、見た事がないぞ」
「よもや殿下、この地にたねを落とされてはおりませんでしょうな」
 男が笑いながら軽口を叩くと、怪物――いや、少女と同じ赤毛の男は、天を裂くような豪笑を飛ばした。
「さもありなん。縁とはどこでどう結びついているか分からんからなぁ。何かの縁が巡り巡って、この娘が余の娘という事もあるやも知れぬ」
「ハハッ、まさかこのような辺境に、殿下の血を引く御子があろうとは、さすがに思われませぬが」
「だがしかし、たった一人生き残った赤毛の子を、余が見つけた事には何か、因果があるのだろう。……よし、決めた」
 またもやぐん、と引っ張られ、目線の高さがめまぐるしく変わる。気づけば少女は、巨人の肩に乗せられ、分厚い手に支えられていた。
「ここに残しておっても、ただ座して死を待つだけであろう。これは宮廷に連れ帰り、余の娘としよう」
「えっ!?」
 そこで笑っていた男が目を剥き、慌てた。何が起きているのか分からず困惑する少女の下で、声を高ぶらせる。
「ま、まさか殿下、本気でございますか!? そのような、どこの筋とも分からぬ者を……」
「本気も本気だ。当然であろう」
 対して巨漢はまたもや笑い、少女の頭を掴んで、くしゃくしゃと撫でた。それは先ほどよりも力が強かったが、この男は恐ろしい怪物ではなく、むしろ頼りになる大人なのだと少女は理解し始めていたため、恐怖感を減じつつあった。
 少女の身体から強ばりが消えていくのを感じたのか、男は精悍な顔にニィ、と子供じみた笑みを浮かべ、
「余はこの娘の赤毛が気に入った。気に入ったからには略奪するのが、余の流儀であるぞ」
 断固とした力強い言葉で、少女の命運を、いかにも無造作に奪い去ってみせたのであった。

 ふ、と眠りが途切れ、ウェイバーは暗闇の中でぱちぱちと目を瞬かせた。残滓、というのはあまりにも鮮やかな夢に意識が引きずられ、一瞬、自分が何処にいるのかも分からなくなるほどに混乱した。
 何度か瞬きをしてようやく、自分がベッドで横になっている事を自覚したウェイバーは、目の前の壁をぼんやり見つめながら考えた。
(今のって……夢……?)
 夢ではない。これは記憶だ。サーヴァントの記憶……いや正しくは、
(……シャムスの昔の記憶なのか?)
 マスターは時折、サーヴァントの記憶を夢に見る事がある。しかし夢の視点は常に少女のものだった。ウェイバーと経路パスが繋がっていて、ライダー以外の存在が見せた記憶であるのなら、それは当然シャムスのものであろう。
 ウェイバーが今かいま見たものは、シャムスの過去そのものに違いない。
「…………」
 ごそり、と寝返りを打って、ウェイバーは闇に目を眇めた。しばらくして少し慣れてきた視界に映るのは、マットレス二枚の上で大の字になって大鼾をかくライダーと、その腕に抱かれて健やかな寝息を漏らすシャムスの姿だ。
 赤い髪以外は何一つ似通ったところのない、しかも肉体関係すら持つ親子。その不可解が今、ようやく理解出来た。
「娘って……義理の親子なんじゃないか」
 古代にあっては近親相姦すら是なのかと恐れおののいたが、蓋を開けてみれば、血のつながりなどない、赤の他人ではないか。
 あの時、腰が抜けんばかりに驚いた自分に謝れ。
 いや、夢の中でライダーは「もしかしたら自分の子供かもしれない」なんて嘯いていたので、万が一ということもあるかもしれないが。
(……変な奴ら)
 自分と同じ髪の色だからと、拾って自分の子供にしてしまうライダーも放胆だが、躊躇も何も無く王を愛していると言い切るシャムスの心情も、ウェイバーには良く分からない。義理とはいえ父親になった男を、女として愛する事に抵抗はなかったのだろうか。
(いや、そんな事ボクには関係ないじゃないか)
 学問のように理路整然とした答えがあるわけでもない恋の事など、いくら考えたって、経験のないウェイバーには分かりようもない。
 ふん、と鼻を鳴らし、ウェイバーはもう一度サーヴァント達に背中を向けて、目を閉じた。今度は妙な夢など見ないように――しかし、ちょっとくらいなら続きを見てみたい、と心の奥で願いながら。