従者、憧憬を抱きて沈みゆく

※マッケンジー夫妻のなれそめねつ造ありです。

 その日のマッケンジー宅の夕餉は、いつになく賑やかな笑いに包まれていた。
「ほうほう、エジプトからインドまでご旅行されたのですか。それはまた、ずいぶん色んなものをごらんになったのでしょうなぁ」
「然り。どの地もそれぞれに心躍るものがありましたな。例えばアポロ神殿、あれは正しく神の宿る美しき佇まいであった」
「ほほーギリシャですか、素晴らしい。しかしそれほど多くの地を見てきたというのは、なんですな、まるでアレキサンダー大王のようですなぁ。名前もアレクセイさんと似ておりますし」
「ははは、かの王の偉業なれば、この目で見てきたのと同じように語れましょうぞ。なんとなれば、名高きダレイオス王との戦など一つお聞かせしようか……」
 気持ちよく酔いながら、グレン老とイスカンダル王は先ほどから話尽きぬ様子である。
 ぎりぎりな話題になるたび、そばで王を見張るウェイバーの眦がつり上がり、グレン老に気づかれないよう王を小突いていた。が、イスカンダル王は蚊に刺されたほども感じないのか、全く意に介していない。
(そこまで心配せずともよかろうに。我が君が己の正体を晒すような疎漏をなされるわけがないのだから)
 王に無礼を働くウェイバーをじろりと見やり、シャムスは卓上の皿を持ってその場を離れた。炊事場へもっていくと、マーサ夫人がまぁまぁありがとうございます、と人の良い笑顔で出迎えてくれる。
「お客様にこんな事をさせてしまうなんて、申し訳ないわ」
「いえ、今宵は結構なおもてなしの上、当面の宿までご提供いただくのですから。せめてものお礼をさせてください」
 夫妻と意気投合した王はとうとう、実体化したままマッケンジー宅を自由に出歩ける権利を勝ち取ったのである。
 これでこそこそ二階に隠れたり、夫妻の外出時を狙う必要もなくなると思えば、皿洗いなどでは足りないほどだ。
「まぁまぁ、じゃあ申し訳ないけど、洗ったお皿を拭いて下さるかしら」
「えぇ、喜んで」
 故にシャムスは迷い無く、マーサが渡す皿を布巾で拭き始める。
 イスカンダル王の旺盛な食欲に感動したマーサは次々と料理を作っては出し、作っては出しと忙しく立ち働いていた。その結果、供された夕餉は、おそらく普段の三倍はあったのではなかろうか。山と詰みあがった皿の数は、どう考えても老婦人一人の手に負えるものではなかった。
「マーサさん、今宵は本当に、大層なおもてなしを有り難うございます。我が……アレクセイさま……さんも、感謝していることでしょう」
 夫妻には、シャムスもまた、少年のロンドンでの友人と称してる為、従者としての言葉遣いは封じなければならない。
 あまりにも気安い王の呼称に甚だ抵抗を感じながらも、シャムスは心からの謝意を示す。マーサはカチャカチャ食器を洗いながら、コロコロ笑った。
「こんなに楽しいお夕飯は久しぶりですもの。お爺さんもお酒を楽しめる相手が出来て、とっても喜んでいますよ。あの飲みっぷりには、さすがについていけないだろうけど」
 そういうマーサが視線を向けた先には、空いたビール瓶が何本も林立している。あの老人の酒量ではおそらく二、三ヶ月ほどの蓄えであったろうその量を、王はほとんど一人で飲み干しているのである。
「……申し訳ありません、突然お邪魔して、斯様なほど飲食しまして……」
 大量の食事に加えてこれでは、さすがに老夫婦の負担にすぎるのではないか。困惑してシャムスは謝ったが、マーサは気にしないでくださいな、とまた笑う。
「あれだけ気持ちよく食べたり飲んだりしてくださるんだもの、私も作り甲斐がありますよ。ウェイバーちゃんもねぇ、食が細くて心配だから、あんな風にいっぱい食べてくれればいいのに」
「彼とアレクセイさんでは、体の大きさが全く違いますから。必要とする量も変わってくるのでしょう」
「でもねぇ、イギリスで寮暮らしなんていったら、美味しい食事をたくさん食べるなんて、出来ないんじゃないかしら? ウェイバーちゃんは勉強に夢中になると部屋に閉じこもって出てこないし、ちゃんと三食バランス良く食べていたのかしら」
 マッケンジー宅で部屋にこもっているのは、サーヴァントとともに聖杯戦争に関するあれこれを行っている為だ。が、あの少年が勉学を好み、本を読み出すと集中して周囲の音が何も耳に入らなくなるのは間違いないので、シャムスは無難にそうですね、と答えた。
「ご家族と遠くに離れていては、何かとご心配な事でしょう」
「そりゃあねぇ……シャムスさんは、ロンドンにお住まい? ご両親とはご一緒なのかしら」
「えっ」
 思いがけず自分の事を尋ねられ、シャムスは一瞬言葉に詰まった。嘘をつくのは苦手だし、王のように多少の齟齬も相手に気に掛けさせないほどの話し上手でもない。かといってここで素性を洗いざらいするわけにもいかず、シャムスは一転汗をかきかき、言葉を選ぶ。
「いえ……私の両親は、既に亡くなっておりますので……」
 老婦人はまあ、と顔を曇らせる。
「あらやだごめんなさい、悪いことを聞いてしまったわね」
「いえ、気になさらないで下さい。当時はまだ子供でしたから、ほとんど覚えておりませんよ」
「まあ……そんな小さな頃にご両親を亡くしたなら、さぞ寂しかったでしょうに」
 そういってマーサがさらに悲しそうな顔をしたので、シャムスは慌てた。自分の些細な話で、この優しい夫人を悲しませるのは心苦しい。
「いえ、両親を亡くした折り、我……アレクセイさんに保護していただいたのです。それからずっとあの方には、この身に余るほど多くのものを与えていただきましたから。寂しく思う事など、少しもありませんでしたよ」
 そこで、あら? と夫人が首を傾げた。
「それなら、アレクセイさんはあなたの義理のお父さん、なのかしら?」
「えぇ」
「まぁ、そうなの。私てっきり、お二人はおつきあいしているものかと思っていたわ」
 途端、シャムスは顔に血の気が上るのを感じた。
 己を指して王の恋人とは分がすぎるのではないだろうかと思うが、今日の「デート」でイスカンダル王自らそう仰ったのだ。ここで肯定しても問題ないだろう。
「あ……それは、その……そう……です……」
 しかしどうにも面はゆくて、シャムスは手にした大皿で赤面した顔半分を隠し、おずおず頷く。と、
「あらっ。まぁ、まぁまぁまぁ!」
 不意にマーサ夫人が顔を輝かせ、泡だらけの手のままずずい、とシャムスに体を寄せてきた。
「それはつまりシャムスさんは、お父さん代わりのアレクセイさんと恋に落ちたって事なのかしら?」
「え、あ、はい……」
「まー、それはロマンチックねぇ! そうよね、あんなに素敵な人がずっとそばにいたなら、好きになってしまってもおかしくないわよね。あぁ、それで納得したわ」
「な、何がでしょう」
「いえね、さっきお食事をしてる間、シャムスさんはアレクセイさんと、とっても親密そうだったから、おつきあいしているのかしらと思ったのだけれど。
 その割には、シャムスさんの言葉遣いや態度がちょっと丁寧すぎる気がして、どういう事なのかしらと気になっていたのよ。元々お父さんだったのなら、ふつうと違っても当然ね」
「…………」
 思いがけないツッコミに、シャムスは言葉を失うしかなかった。恐るべし、主婦の慧眼。
 そういえば、マケドニア時代。召使いの女性たちはシャムスの些細な変化から王との関係を見抜き、根ほり葉ほり聞きだそうとした。いつの時代も、女性は色恋沙汰に目が無いらしい。
「それで、お二人はどういうきっかけでおつきあいする事になったの? 告白はどちらから?」
 わくわく、と字で書いてあるのが見えそうなほど好奇心に満ちた表情で、マーサが詰め寄ってくる。
 召使い相手の時は適当にごまかして逃げ出したが、この状況で退路は無い。シャムスは先よりも更に追いつめられた気持ちになりながら、答えた。
「それは、あの、わ、私から、です……」
「まぁ、そうなの? でもそうよね、アレクセイさんからすれば、娘さんですものねぇ。なかなか男の人から告白っていうのは難しいでしょうね」
「は、はぁ」
「それで、きっかけは?」
「えっと……それは……」
 恋いこがれていた王がある時妻を娶ろうとしていたので、思いあまって――そう素直に答えるのは、あまりにも恥ずかしい。真っ赤になって答えに窮したシャムスは必死で頭を巡らせ、
「いえ、あの、ま、マーサさんこそ、グレンさんといつ出会われたんですか。ご結婚されて、長いのですか!」
 しどろもどろながら何とか切り返してみた。と、マーサはまぁうふふ、と少女のように微笑む。
「私とお爺さんはね、同じ高校だったのよ。私は当時他の人とおつきあいしていたのだけれど、そのころからあの人、私が好きだったのね」
 流しに手を戻し、再び皿洗いを開始したマーサは昔を懐かしんでしみじみ語る。
「その時は何も無かったのだけど、何年も後になって偶然再会した時に、『僕が愛してるのは君だけだ。結婚して下さい』っていきなり言われたの」
「それはまた……グレンさんは情熱的な方だったんですね」
 今の好々爺然とした姿からは、あまり想像出来ない。
「そうねぇ、昔からのんびり落ち着いた感じだったけど、だからかしらねぇ。突然そんな事言われて私、びっくりしたけれど、とっても嬉しかったの。本気で私を愛してるんだって気持ちが伝わってきて」
「…………」
「だからね、おつきあいして三ヶ月後には、結婚したのよ。今年でもう五十年になるかしらねぇ」
 マーサの話に、シャムスは言葉もなく聞き入った。
 自分が生きた時間よりも更に長く、この夫妻は深い愛情を持って寄り添って生きている。
 ウェイバーから聞いた話では、日本に馴染めなかった息子夫婦とはほとんど断絶状態で寂しい暮らしをしていたそうだから、その人生全てが順風満帆であったわけではなかろう。
 だが、それでも。五十年という長い時間を共に生き、今こうして穏やかな老後を過ごしているというのは――何とも、羨ましい限りだ。
「……素敵ですね。そんなに長く一緒にいられて、今も仲睦まじくなさっていて」
 その有りように憧れを抱き、ついため息混じりに言うと、マーサはまた嬉しそうに笑ってうなずき、
「シャムスさんはアレクセイさんと、ご結婚の予定はおありなの?」
 そんな事を聞いてくる。シャムスは一瞬息を飲み、とんでもない、と叫びかけた。
 今のイスカンダル王はサーヴァントであり、自分は従者だ。確かな肉体を持っていたとしてもこれは仮のものでしかない。
 しかしそれ以前に、王が従者と正式な婚姻を結ぶなど、あり得ぬ事だという意識が働く。
(マケドニアの過去にあっても、私は我が君の従者でしかありえなかった)
 イスカンダル王の正妻は、星の光の如くと称えられた美女ロクサナであったし、あと幾人かの側室もいたが、シャムスはその数には含まれない。王からの申し出もあったのだが、彼女自身がそれを辞退したのだ。
(私のような卑賤の者が、お后様と我が君の寵を競うなど、あまりにも恐れ多い)
 そういった気後れもあったし、シャムスはそもそも自分は王の従者であるべしという意識が強かった。イスカンダル王を守り、イスカンダル王の覇道を叶えるべく剣を振るい、たまさか差し伸べられる御手を取って、つかの間の夢を見られれば、それでシャムスは満足していた。
(……けれど……)
 あの頃と今では、状況が違う。
 あの時代を共に生きた人間は今、王と自分だけ。政治やしがらみなど煩わしい周囲の事情は何もなく、手を伸ばせば届くほど、王の存在が間近にある。
『余はこれからそなたとデートをしようというのだぞ。恋人に向かって、そう堅苦しく振る舞うものでもあるまい?』
 今日とて、王は笑いながらそういって、シャムスの手を握ってくれた。まるでただの男のように気安く、しっかりと。
(我が君……)
 大きな手の温もりを思い出すと、胸が締め付けられるほどに愛しくなる。
「……そう……ですね。もしご夫妻のようになれたら、きっと、幸せでしょうね」
 躊躇いがちにそう囁くと、マーサは朗らかに笑って、
「そうなれますとも。だってシャムスさん、アレクセイさんの事を話す時、とっても綺麗ですもの。
 こんな可愛いお嬢さんとなら、アレクセイさんもずぅっと一緒に居たいと思っているんじゃないかしらね、きっと」
 そういって食卓の方へ視線を向ける。男性陣はますます話が盛り上がっているらしく、グレン老と王の笑い声が軽やかに響きわたり、間にいる少年はますます不機嫌顔がひどくなっている。それを見たマーサは、ため息をもらした。
「ウェイバーちゃんも、シャムスさんみたいな素敵なお嬢さんを見つけられると良いのだけれどねぇ。ちょっと奥手なところもあるから、心配だわ」
「……確かに。彼はもう少し、素直になった方がいいですね」
 そう言った途端、甲高い怒声がテーブルの方から聞こえてきた。
「……しつっこいな! だからボクはそんな下らない話、興味ないんだよ!」
「おいおい、つまらん事を言うな。余は言うたであろう、食事にセックス、眠りに戦、何事にも全力で取り組むのが人生を楽しむ秘訣だと。
 恋を下らんなどと、そりゃまだ何もしらんから言える戯れ言だわい」
「ウェイバー、わしがお前ぐらいの年の頃には、生涯の恋に落ちていたぞ。お前もロンドンに好きな娘の一人くらい、おらんかったのか?」
「そ、そんな事言ったって、ボクは勉強で忙しくて、そんな時間なんで無いよっ」
「いかんなぁ、それじゃ。いくら教養を深めようが、本は寝床を暖めてはくれんぞ?」
「なっ!!!!」
「はは、そういう話はまだウェイバーには早いかもしれませんなぁ。だがまぁ、教科書に載っている事だけが、人生の全てではありませんからな」
「然り。坊主、恋は良いぞ。愛し愛される事の幸福を知れば、人生が変わる。なんなら余が、街で気のよさそうな娘を見繕ってやろうか」
「そっ、そんな事しなくていい! オマエはよけいな気を回すな!」
 悲鳴じみたウェイバーの声と、王の豪笑が響きわたり、グレン老がニコニコと実に楽しそうな表情で二人の掛け合いを眺めている。
 それらに聞き入っていたマーサとシャムスは、お互い顔を見合わせ、
「……ぷっ」
「ふ、ふふっ」
 思わず吹き出してしまった。まさか向こうも同じ話題で盛り上がっていようとは。くすくす笑いながら、シャムスは暖かい思いに胸がくすぐったくなった。
 ――なんと長閑な夕餉であろうか。生前にあって王の宴に身をおく事があっても、これほど穏やかな空気に包まれた食卓につく機会はなかった。
(これが……マッケンジー夫妻が築いてきた人生の総算なのだろうな)
 お互いを愛し、大切にしてきた二人だからこそ、このように心和む家庭を築けたのだろう。
 無論、シャムスは王の従者として、剣を手に戦う生き方を、決して悔やみはしない。だが、グレン老や少年と楽しげに語らう王を見つめていると、何かこみ上げてくるものがある。
(……結婚、か)
 自分には叶わぬ夢と、はなから考えの埒外に置いていた言葉が今、なぜか重たく響く。シャムスは浅く息を吐き、王からそっと目をそらした。