砕ける。弾け飛ぶ。ぶつかり合うごとに衝撃が互いの体を傷つけ、刻一刻と破滅へと向かっていく。
鳴動する地面も、息も出来なくなるほど大気に満ちる魔も、何も目に入らない。見据えるは、己が敵。我が願望を打ち砕こうとする、鏡像がごとく近しい、若き魔術師のなれの果て。
「衛宮、士郎っ!!」
「こ、と、みねぇぇぇ!!」
叫び、ほえながら拳を打ち合う。常の綺礼であれば、少しばかり鍛えただけの素人に遅れをとるはずがない。実際彼は、もはや死に体の衛宮士郎をサンドバックよろしく一方的に殴り蹴り、追いつめていた。
だが、最後まで詰めきれない。彼もまた満身創痍だった。もはや無事な部分など、この体にはどこにもない。血を吐き、裂けた骨が皮膚を突き抜ける激痛、そして――今にも機能を止めようとしている、鼓動せぬ心臓。
(勝敗に関わらず、私はここで死ぬ)
死への恐れはなかった。もとよりこの身は十年前、衛宮切嗣の手によって心臓を撃ち抜かれている。それを、聖杯によって生きながらえたのは、単なる余録に過ぎない。
(この外道たる身が、ここまで長らえたのは奇跡であろう)
人の不幸を蜜とする事を覚えて後の年月を、彼は愉しんだ。
少しずつ命を吸われ、助けを請うことも出来ず干からびていく子供たちの醜い姿を慈しんだ。
父の命を奪ったアゾット剣を大切にし、せっせと魔力をこめる遠坂凛をあざ笑い、いつか真実を知った時にどんな顔をするだろうと悦に入った。
彼は苦しみ煩悶する人々の姿を見たいがために手をさしのべ、逆に絶望の淵へと追いやった。
愉しかった。そして、それは間違いなく悪の所行だった。故に綺礼は裁かれなければならない。
(裁き手がまたも衛宮の名を冠するものとは、思わなかったが)
わき腹にたたき込んだ足が裂ける。衛宮士郎の体は今や鋼そのもの。皮膚の下から幾千もの牙が突き出し、綺礼を、そして本人の体を容赦なく切り刻んでいく。
(よかろう。貴様を断罪者と認めよう)
「あああああ!!!」
「ぐっ!!」
動きが止まったところにすかさず頭突きで胸を強打された綺礼は、組んだ手を鉄槌のごとく、男の背に振り下ろす。
「がぁっ……!!」
獣じみた悲鳴を上げて、衛宮士郎が地面に叩きつけられる。はいつくばったその体を踏み抜こうと踵を落としたが、すんでのところで転がり避けられ、足が岩の地面にめり込んで割り砕いた。
(だが、貴様に裁きを下させはしない)
地面を勢いよく転がって逃げる男を追いながら、綺礼は愉悦に唇を歪ませた。
(私の望みが今、生まれいでようとしている)
アンリマユ。この世すべての悪。悪として定義づけられ、黒い泥の羊水で育ったそれは、生を成し、悪を悪と知らぬまま、全てを殺し尽くすのか。あるいは、己の性を呪い、善にならんともがき苦しむのか。
アンリマユの有り様は、生まれつき善性の欠け落ちた己が求める答えに他ならなかった。故に知りたかった。その生に固執し、何を置いても誕生を祝福したかった。
だが。狂おしいほどの歓喜は、不意に息の根を止める。
「――ここまでか」
はいつくばる敵の頭を叩きつぶそうとしていた腕が、体が、びしりと音を立てて裂け、もう動けない。心臓は消え去り、砂は全てこぼれ落ち、綺礼の命は今、燃え尽きた。
「おまえの勝ちだ、衛宮士郎」
目的があるのなら急げ。促す言葉に発破をかけられ、
「……ああ。散々いためつけてくれたお礼だ。容赦なく、あんたの願いを壊してくる」
血まみれでふらふらと立ち上がった衛宮士郎は、もはや体のほとんどが刃で覆われ、さながら針鼠のようだ。全てを拒むようなその姿は、しかし己が愛する者を守りたいが為の武装だ。
(なぜ、おまえ達は幸福を知っている)
それを遠くかすむ瞳で見つめながら、声もなく問いかける。
衛宮士郎は大火災の時、一度死んだ。体は衛宮切嗣によって救われたのかもしれないが、心は死んだはずだ。その時彼は、何か不完全な状態で息を吹き返した。
後天的であろうと、それは綺礼と同じだ――衛宮士郎の心には、取り返しようのない欠損があると思っていた。
それなのに、彼は、一人の女を愛した。もはや人ならざる身、己の命を無くしても構わないと言うほど、粉骨砕身に愛した。
(それが、羨ましい)
足が体を支えきれず、ぐらりと視界が揺れる。剣をきしませて門へ向かう衛宮士郎が脇を通り過ぎていくのを聞きながら、綺礼は地面に倒れた。
(私もそうなりたかった)
倒れた衝撃で腕が千切れ、あばらが砕ける。魂を縛り付けていた泥が消えた今、死は速やかだった。闇に覆われ音が遠くなっていく中、言峰綺礼は思う。
(私は、ただ――)
『いいえ、あなたは私を愛しているわ』
『だってあなた、泣いているもの』
微笑み、目の前で命を断ったあの女に、
『ああ、私はお前を愛している』
『だからお前の死が、こんなにも悲しい』
そう答えたかった。
衛宮切嗣が美しい人形を愛したように。衛宮士郎が聖杯の女を愛したように。
普通の人間のように、夫として妻を愛し、その死を嘆きたかったのだ。
(なんて……無様な……)
今際の際に、笑みが口の端に上り、それで全てが終わる。
そうして。誰よりも不幸だったその男は、孤独のまま、静かに息を引き取ったのだった。