やがて散り消える

「アーチャー。凛をお願いね」
 そういって君が、柔らかく微笑むから。
「……あぁ、分かった。マスター」
 他の返答を選ぶなんて、オレには出来なかったんだ。

 地平線を遠く臨む、一面の海。
 音もなく、静かに凪いだ碧い海の上は、まるで地面のようにしっかりしていて、歩くのに支障はない。
 わずかに水を跳ねながら私達が歩んだその場所は、静謐で美しい『墓場』だった。
 底も知れない水面下から顔を出す、棺の数々。斜めに傾ぎながら、天を突き刺すように延びる白い、墓石じみた石柱。
 生きるもの一つないそこは、聖杯が安置されるに相応しい、生け贄の祭壇なのだろう。
 その場所で、今。
 戦争の最後の勝者となった私のマスターが、光の階段に足をかけた。
終端に在るのは、巨大な四角いゆりかごの中で幾重にも束ねられ、膨大な量の情報を内包した光の帯。
 セブンスヘブン・アートグラフ……七天の聖杯は今、マスターの目の前にある。
 それは彼女が願えば、どんな奇跡も起こす万能の願望器であり――同時に、彼女の棺でもあった。
「……ねぇ、これでいいの?」
 階段の足下で私と共にマスターを見送る遠坂凛が、不意に口を開いた。何をと視線を向ければ、彼女は眉根を寄せる。
「あの子は聖杯に飲まれたら、不正データ扱いで消えちゃうのよ。あなた、それでいいのかって聞いてるの」
「良いも悪いもない」
 私は感情を交えず答えた。
「マスターの願いを叶えるのが私の役目だ。彼女がこの結論をよしとするなら、私に出来るのは、そのサポートくらいなものだよ」
 それに対して、すう、と遠坂凛の目が細くなった。既視感を呼び起こすそれは、魔術師の表情そのものだ。
「……セラフから出られるのはマスターひとりだけ。それならわたしを聖杯の中に放り込めば、あの子を外に出せるんじゃない?」
 だがその言葉は、実に感情的な提案。
 私はほう、と口の端をあげた。腕を組み、
「たかが再現データの為に、君は自らを犠牲にするというのか? 希代の魔術師たる君にそんなことを言わせしめるとは、我がマスターは大したものだな」
 尊大に言い放つ。すると遠坂凛は、む、と不機嫌になった。
 反論しようと口を開きかけるのを無視して、私は先を続ける。
「今から消えようという相手を思いやるよりも、君にはさしあたって対処すべき問題があるだろう。
 マスターが聖杯に入った次の瞬間、この世界が破裂して無くなるかもしれない」
 言いながら目を向けると、マスターは階段の半ばに至るところだった。長い道のりとはいえその歩みが遅いのは、友人を案じて、かもしれない。
「マスターの身代わりになってもいいなんて出来もしない事を口にしている暇があるなら、逃げる算段をつけてはどうかね。君を抱えて逃げろと言うのなら、そうするが」
「あなたこそ、心にもない事をぺらぺら口走るもんじゃないわ、アーチャー」
 ばしり、とたたき落とすような強さで、遠坂凛が私の話を遮った。
「心にもない事? 驚いたな、君には読心術まで備わっているというのか」
 その鋭さは、真実をえぐり出すものだ。反射的に身構えて揶揄する私に、しかし相手は誤魔化されてくれない。
「無駄口はやめて。えぇそうね、わたしはあの子の身代わりになるつもりはないわよ」
 仁王立ちになり、腰に手を当てて、遠坂凛は言い放つ。
「だってわたしは、生きろと言われたから。あの子に救われた命を、おいそれと投げ捨てる訳にはいかないじゃない。
 例え何が起ころうと、わたしはここから生きて出る。そしてあの子が守ってくれた世界を、精一杯生きるわ。
 それが唯一、あの子に報いる道だと思うから」
「ならば――」
 なおさら、問答している暇はない。マスターはもう聖杯に至ろうとしている。これから何が起こるにせよ、今すぐ待避行動を取るのが最善というものだろう。
 だけど、と遠坂凛は苛立った様子で足を踏みならした。高いヒールの足下で、ばしゃんと水が跳ねる。
「だからってあの子を一人で逝かせる事に、納得してるわけじゃないわ。何であなた、ここにいるのよ。サーヴァントだっていうなら、最後までマスターと一緒にいるべきじゃないの」
「――」
 一瞬息を飲んだ事に、気づかれはしなかっただろう。私は内心の動揺をひた隠し、淡々と答える。
「理由は君が言った通りだ、トオサカリン。私はマスターに、君を守れと命じられたのだ。サーヴァントたるもの、マスターの命令に従うのは当然だろう。ましてや、それが――」
 最期の願いであるのなら。
 言葉に苦痛を覚え、声が止まる。
 ――駄目だ、抑えろ。
 まだ、私は彼女のサーヴァントだ。
 主の命を果たす為ならば、己を殺す事くらい出来なくてどうする。
 戦場で培った鉄の精神力を総動員して、私は遠坂凛を見下ろした。
「君がマスターとの約束を重んじているのは分かった。ならばぐずぐずしている道理はあるまい。それとも、彼女が消えていくのを見届けるつもりかね?」
「……出来るものなら、そうしたいわよ」
「だが、その時君が逃げきれなかったらどうする。君が必ず守ると決めたのなら、それを果たす為に、全力を尽くすべきだとは思わないか」
 それからもう一つの可能性に気づき、
「あるいは何が起ころうと私が何とかしてくれると考えているのか。
 確かに私は君より霊格が上だが、あいにく万能とは言い難くてね。仮に聖杯が壊れてしまえば、この身も消えるだろう。もっとも」
 皮肉に口を歪ませる。
「その前にマスターが消えれば、私は自由の身だ。
 君が私と再契約して、その令呪でこの場からの離脱を命じれば、例えそれがどんな無理難題だろうと叶うだろう――」
 瞬間、手が動いた。腹に向かって繰り出された赤い影を掌で受け止める。バシン、と鈍い音が鳴り、少女のそれとは思えない、重たい打撃が骨に響いた。
「ぐっ」
 常ならば問題なく受け止められるそれも、先ほどまでの激闘で傷んだ体には少々堪えた。つい顔をしかめると、遠坂凛はふんっと鼻を鳴らし、
「ランサーの言ってたとおり、あんたってほんっとにひねくれ者ね。あの子もよく、こんなのとやってこれたもんだわ」
 もう一度地面を蹴り、水を跳ね飛ばした。
「何が、たかが再現データ、よ。何が、マスターが消えれば自由の身、よ。戯言たわごとはいい加減、聞き飽きたっつーの」
「戯言などではない」
 ますますヒートアップしていく遠坂凛には、あくまでも冷静に対応するのが正しい。そうと知っていたから、私は無表情を作ろうとして、
「かっこつけないでよね。あの子が別れを告げた時、あなた、置いてきぼりにされた子供みたいな顔してたくせに」
「――っ!」
 思いもかけなかった事を指摘され、虚を突かれた。
(そんなはずは)
 ない。……と、言い切れないのが情けない。遠坂凛の指摘は正鵠を射抜きすぎて、誤魔化しようもなかった。
(――あぁ、その通りだ。確かにあのとき私は、途方に暮れた)
 最後まで一緒に戦うと決めたが故に私は、聖杯に至るこの道程を、マスターと共に登るのだと頭から信じていたから。
 だから一瞬、返事に迷った。
『待ってくれ、マスター。私も一緒にいく』
『君はおっちょこちょいだからな。最後にしくじりをやらかすかもしれない』
『私は君のサーヴァントだ。付き従うのは、当然だろう?』
 喉まで出掛かった台詞はいくつもある。
 聖杯が求めるのは、ただ一人のマスター。サーヴァントに余録は与えられない。聖杯の中へ身を沈めれば、やはり不正データとして処分されるのが落ちだろう。
 それでも、構わないと思った。
 どうせマスターが消えれば、この身も消えてしまう。
 ともに儚い存在であるのなら、せめて最後の時まで共にありたいと、私は願っていた。
(だが、君はそれを拒んだ)
 友人を思いやる故か。あるいは、私を思いやる故か。
『凛をお願いね、アーチャー』
 マスターはその命令と笑顔で、私を退けたのだ。
(あれは、生きろ、という事なのだろうか)
 消えゆく自分よりも、これから先を生きる凛を救えと。
 たとえば先ほど私が言ったように、彼女のサーヴァントとして少しでも永らえよと、そういう事なのだろうか。
(……マスターがそこまで深く考えていたとは、思えないがな)
 そう思い、つい苦笑が漏れる。
 私にはマスターの真意が分からない。
 だがもし、あの命令が彼女なりに考えた、サーヴァントへの特別報償なのだとしたら――そこに込められたマスターの思いを、
「……全くもって、見当違いだぞ。マスター」
 私は力を込めて、否定する。
 さっと向き直った階段の先に見いだした少女の姿は、今まさに聖杯の中へと消えた。
 もう時間がない。マスターが願いを打ち込むのと、分解されるのと、どちらが早いだろうか。
「アーチャー。答えは出た?」
 そんな状況でありながら、遠坂凛は落ち着き払ったものだった。私を見上げる黒い瞳を見返し、つい、頬が緩む。
「あぁ。……トオサカリン。君は一人で、ここを出られるか」
「あったりまえでしょ、アーチャー。このわたしを誰だと思ってるの?」
 当然といわんばかりに胸を張る少女は、まばゆいほどに鮮やかで輝かしく映った。
 ――なるほど。遠坂凛は、どこにいても遠坂凛に違いない。
「では……さっさといけ、このたわけが」
 懐かしい親しみと共に激励を残して、オレは階段のきざはしに足をかけた。
 出口へ走っていく足音を後ろに、一気に駆け上る。オレは瞬く間に聖杯のまばゆい光の渦へ至り、迷いなくその中へ飛び込んだ。

 聖杯の中は、まるで海のようだった。
 膨大な量のゼロとイチのデータは圧縮され、水そのもののように重く、しかし浮力がないせいで、どんどん体が沈んでいく。
(マスター、どこだ)
 彼女が入ってから、そう時間は経っていない。
 とはいえ、他に類のない、天文学的な処理スピードを誇るセブンスヘブン・アートグラフであれば、コンマ何秒の間にデータを分析し、ばらばらに消し去ってしまっていてもおかしくはない。
「くっ……」
 実際、オレにも、こちらのデータを解析しようと、水圧にも似た圧力がかかる。
(まだだ、聖杯め。そう易々と食わせてたまるか)
 残存魔力をガードに全放出してそのちょっかいをはねのけ、オレは奥へ、奥へと潜っていく。
 鮮やかな青から闇夜の黒へと周囲が少しずつ色が変わっていく中、一点。広大な海の中では微少に過ぎる、それでいてどんな色にも染まらず漂うその存在を、鷹の目が捕らえた。
(マスター!)
 姿を認めたとたん、安堵と喜びがあふれ出す。
 まだ彼女はいた。生きていた。それを見つけられた幸運に心底感謝して、オレはマスターのそばまで近づいていった。
「……アーチャー?」
 目を閉じ、海に身を任せていたマスターが、驚きの声を発して瞼をあげる。それはいつもと変わらない平凡さで、まるで眠りから覚めたら枕元にオレが居てびっくりした、みたいな反応だ。
(なんだ、それは。色々葛藤していたのはオレだけか)
 今の反応に加え、マスターに置いていかれた事に今更腹が立ってきて、
「――どうも話が違うぞ。やれやれ。こんな事なら別に来なくてもよかったな」
 オレもまたいつもの調子で憎まれ口を叩いてしまった。我ながら、なんてひねくれた性格だ。こんな時にまで嫌味を言ってしまうとは。
「アーチャー……来て、くれたんだ」
 対してマスターは、それでも嬉しそうに笑った。弛緩した体を起こし、ふわりと泳いで、こちらに抱きついてくる。
「っ……、マスター」
「嬉しい。本当はちょっと、寂しかったんだ。――凛は、どうしたの?」
 ……ちょっと、か。そこはとても、と言って欲しかったが、まぁ贅沢は言うまい。
 もとより、この体にしっかり回された手が雄弁に、彼女の気持ちを語っているのだから。
 オレもマスターの背に手を回し、優しく頭を撫でた。
「……あぁ、問題ない。彼女なら何があろうと、君との約束を果たすさ。
それに、ここまで時間があったんだ。君の事だ。どうせ聖杯に、トオサカリンの脱出も願ったのだろう?」
 うん、全部伝わったと思う。そうマスターは頷き、しかし首を傾げた。
「それにしても、分解まで時間かかりすぎな気がする。何かおかしいのかな。ちょっと調べてみる」
 そういって彼女は目を閉じる。
 ムーンセル・オートマトンと接続された状態にあるマスターであれば、今不可解なほどに遅延している原因を、たやすく読みとれる。
 そしてそのデータは、彼女と契約でつながったオレにも流れ込んできた。怒濤のような量と計算速度に、気を抜けばすぐさま意識を持っていかれそうだ。
(なるほど。これはまさに万能、だな)
 ともすればこの電子世界の聖杯は、原型となった地球の聖杯戦争で顕れたそれよりも、大元の大聖杯に近しいのかもしれない。ここまでくると、星一つの運命を書き換える事が出来るというのも頷ける。
「……見つけた」
 腕の中でマスターが身じろぎ、そして息を飲む。彼女を通じてオレの脳裏に浮かぶのは、
「これは君か? カルテ……冷凍睡眠だと?」
 目の前のマスターと全く同じ顔をした少女の写真が添えられた電子カルテだった。
 十年以上も前の日付が記されたそれは、不治の病に侵され、未来の医療技術に期待してコールドスリープされた、患者の記録。
「――君のオリジナルということか、これは」
 ならば、マスターはただの再現データなどではない。ユリウスが呪詛した過去の死んだ人間ではなく、今、この時を生きている人間ではないか。
「そう……みたいだね。とはいっても『彼女』が月に来た訳じゃないから、照合が終わったら、私は消えてしまうだろうけど」
 マスターは静かに答える。そこには穏やかで、確かな安堵があった。
 『自分』は生きている。
 では目を覚ました時、きっと、生きていける。家族も友人も、記憶さえ無くても――その胸に願いを抱いて、頑固なまでに生き抜くに違いない、と。
 そう確信しているが故の、満たされた微笑がゆっくりとマスターの顔に広がっていく。
(あぁ、そうか。……これは、奇跡だ)
 最後にと凛へメールを送るマスターを見つめて、オレは確信した。
 聖杯はどんな願いも叶える奇跡の願望器だという。
 それならば、きっと。
 オレが彼女と出会った事。
 そして地上の彼女が、おそらくは凛の手助けを得ながら、これから未来を生きていける事。
 ――それ自体、聖杯によって奇跡が成ったと言えるのではないか。
(それならば、この別れが、永劫とはいえないだろう)
 二度起きた奇跡ならば、三度、四度あってもいい。
 何しろオレはいくらでもやり直しがきくのだし、彼女は――今、間違いなく生きているのだから。
「……始まるよ、アーチャー」
 ゆっくりと閉じていた目を開き、マスターが言う。冷凍睡眠の少女とは異なるデータと判断したのだろう。マスターの言葉と同時に、ムーンセルが容赦なく、不正データたるオレたちを分解し始めた。
 足先から少しずつ、砂になっていくようにほどけていく感覚がのぼってくるのを感じながら、思う。
(オレは彼女に出会えて、愛する事が出来て、本当に幸せだった)
「オレは、君に会えて良かった」
 こみ上げる思いに突き動かされるように優しく口づけると、
「……ありがとう……アーチャー……」
 重ねた唇を微かに動かしてマスターが囁いた。その瞳に涙が浮かび、すぐ水の中へと消えていく。
「あぁ――こちらこそ、ありがとう。マスター」
 泣き笑いの少女に、オレも微笑んだ。
 そして彼女を両腕にしっかり抱きしめ、降るようなキスを繰り返し――それもやがて、全て消えていき――

 ムーンセル・オートマトンの異常。ルールに則った戦いは今や、全く形を変えてしまった。
 ねじれ歪んだ聖杯戦争が繰り広げられる月の裏側にて。
 今再び、英霊の座より招かれた弓兵は、
「やれやれ……またオレの出番か。そろそろ、休みが欲しいんだがな」
 そう嘯きながら、自身を召喚した魔術師を見下ろした。
 華奢そうな体を包み込む、濃紺のセーラー服。
 ふわふわと広がる茶色の長い髪。
 不安そうに揺れる黒いつぶらな瞳が、彼を見上げて驚きに見開かれる。
 見るからに頼りなげな少女は、流れ込む魔力の量から推し量っても、未熟な魔術師に他ならなかった。
 けれど彼女は、彼の心に忘れがたい絆を残した、掛け替えのない存在。
 例えあの時の彼女とは異なる存在だとしても、再度巡り会えたこの奇跡を、喜ばずにいられようか。
(全く、たまには聖杯も、粋な真似をするじゃないか)
 そうして、最後の別れ際と同じように柔らかく微笑み、アーチャーは少女へ問いかける。

「――問おう。君が私のマスターか?」

 そしてまた――運命は、回り始める。