花のように可愛らしい

 ふと目が覚めたのは、常ならぬ気配を察知したからだ。
「……マスター?」
 明かりの落ちた部屋の中。カーテンのない窓から注ぐ青い電子の光に染められた教室で一人、彼のマスターが起きていた。緩やかにカールを描く茶色の髪を背に流し、少女は窓の外を眺めている。
「マスター」
 時刻はすでに夜中を過ぎた。普段ならとっくに寝入っているはずのマスターが珍しい。アーチャーは椅子から腰を上げ、少女のもとへ歩み寄った。
(まさかここで寝ているわけじゃあるまいな)
 そう思ってそばに膝をついてのぞきこんだが、マスターはぱっちり目を開いている。
「マスター、どうした。寝ないのか」
「うん」
 マスターはようやく応えたが、その眼差しはコバルトブルーの空を見上げたままだ。これは小言の一つも告げねばなるまい。何しろ明日は、
「最後の戦いが控えているのだ。ここにきて寝不足で実力を発揮できないときたら、笑い話にもならんぞ、マスター」
 この電脳世界における戦争は、明日をもって終わりを告げる。敵はこれまで戦ってきた中でも最強。
 それを相手にして、最弱のマスターは必ず勝つと宣言した。
 記憶をなくし、戦う意味も知らぬまま、生きるために他人を殺す。その歪んだ戦争の中で迷い、傷ついてきたマスターが初めて、何の気負いもなく勝つと言い切ったのだ。
 その言葉は何よりも力強く、尊い。
『いいだろう、マスター。その願い、必ず叶えてみせる』
 アーチャーは彼女の強さを認め、寄せられた全幅の信頼に己の全てを持って応えようと決めていた。故に、全ての準備を終えた今、十分な休息をとって明日に備えようと、早めに寝に入ったのである。
 だというのに、マスターはぼんやりと外を眺めている。こちらの声が耳に入っているのかどうか、その眼差しはどこか夢見がちだ。
「マスター……私の話を聞いているのかね」
 あまりの無反応ぶりに少々心配になってきたアーチャーは、マスターの肩に手を置いた。すると少女はゆるりと彼を振り返り、
「うん。ごめんね。ちょっと、考え事してた」
 ふわふわと、どこか頼りない口調でいって、微笑した。
「考え、事?」
 その微笑みはどこか浮き世離れして見える。ついどきり、としながら、アーチャーは言葉を繰り返した。うん、とマスターはうなずき、
「生きてた頃の私って、どんなだったんだろうなぁって、考えてたの」
 窓辺に置いた腕の中に顔を埋めた。ぴくっ、とアーチャーの手が動く。
「外見は、たぶんこのまま。名前も同じだよね、データをそのまま再現してるはずだから。やっぱり、学校に行ってたのかな。勉強は……あんまり好きじゃなかった気がする」
「…………」
「予選の時みたいに、クラスの友達がいて……あぁ、もしかしたら慎二みたいな子と、仲良しだったのかもしれないね。部活は、何か入ってたかな。運動部でそこそこやってそうかな」
 アーチャーは手を離し、黙ってマスターの話に耳を傾けた。
「家に帰ったら、お母さんとお父さんがいて……兄弟がいたら、嬉しいな。凛みたいなお姉さんがいたら、楽しそうだよね」
 綴られる言葉は、全て夢物語のようだ。どこにでもありそうな、平凡で、退屈で、きっとかけがえのない日々。
「お休みになったら、街に遊びにいくの。凛と一緒に、遊びに……」
 そこで不意に話がとぎれた。何かと思ったら、マスターがこちらをじっと見つめ、アーチャー、とおぼつかない声で名を呼ぶ。
「アーチャー。街で遊ぶって、どんな事するの。私、街にどんなものがあるか、知らない。……アーチャーだったら、何して遊ぶ?」
「マスター……」
 そう、彼女は知らないだろう。滅び行く街の光景以外、何一つ覚えていないこの少女は。
(怯えているのか)
 まるで幼い子供のように語る少女に、アーチャーは危惧を覚える。
 マスターは明日の勝負を恐れているのかもしれない。ありもしない日常を思い描くのは、現実逃避ではないか。そのように及び腰で決戦を迎えては、勝てるものも勝てなくなってしまう。
(ここは一つ、話につき合って気を紛らわせるか)
 話す事で少しでもマスターが落ち着けるのなら、是非もない。アーチャーは自身も窓辺に寄りかかり、そうだな、と口火を切った。
「オレなら……スーパーだな」
「スーパー?」
「あぁ。食材を山ほど買って、家に帰って料理をする」
「……それ、単に買い出しって言わない?」
「む。そうか。だが、オレも遊びというものはあまり知らないのでな」
「えー、アーチャーもそうなの? うーん、じゃあ、……友達とは、何してたの?」
 ほんの少しためらいの間があったのは、話して聞かせた彼の過去に触れてもいいか、迷った為だろうか。気を遣わずとも良いのに、と思いながら、アーチャーは頬が緩ませて語る。
「あぁ、あいつはオレと違って、色々楽しんでいたな。オレは良いというのに、あちこち引っ張り回されたよ」
「どんな事、してた?」
「あまりろくな事はしていなかったが……」
 当たり障りのない回答を探して、目をさまよわせる。(自分が率先していた訳ではないが)道行く女の子に声をかけていた、というのは省こう。
「……適当に店を冷やかしたり、美味いものを食い歩いたり、何時間も馬鹿話をしたり。車で何日も走り回ったりもしたな。途中で金がなくなって、通りすがりの人に頼み込んで、家に泊めてもらったりと、無茶をしたものだよ」
「へぇ。今のアーチャーからは、想像できないね」
「まぁオレも若かったからな。バカな事も、たくさんしたさ」
「あはは、まるでおじさんみたいな言い方ね、アーチャー」
 くすくす笑うマスターは、年相応に無邪気だ。不安と緊張に苛まれ、顔に暗い影を落とす事の多い少女には珍しい表情で、見ているとこちらの心も和むようだ。
「少なくとも、今のオレは、君よりは年上だからな。じじむさい物言いにもなる」
「そうだね。でも……そっか」
 ふとマスターが体を起こし、こちらに向き直った。良いことを思いついた、というようにぽんと手を打ち、
「アーチャーも生きてた時は、そんな風に普通に過ごしてたんだよね。それならもしかしたら、昔私とアーチャーがどこかで会った事もあるかもしれない」
「……マスター、それは」
 無い。と言い切ろうとして、言葉が詰まる。
 彼とて生前の記憶はすでに遠く、英霊の座に戻った時に見る記録でしか、思い出すことはできない。
 だが、常に戦いのただ中にいた彼と、おそらくは平凡な幸せの中を生きていた少女との間に、接点は無いだろう。
(もしあったとしたら、それは)
 それはきっと、少女が命を落とした惨事の時くらいしか、無いのではないか。
 そう思い至った時、アーチャーは背中がひやりと冷えるのを感じた。
(あり得ない。オレが死んだのは、マスターが生きていた時代じゃない)
 それは明白で、けれども寒気がおさまらない。
 生前の出会いはない。だが、死後の出会いが無かったと、言い切れるだろうか。
 叶わぬ奇跡を叶える為、死後の魂を売り渡した男。
 肉体が滅びた後、彼に与えられたのは、人類が引き起こした大災害の後始末ばかりだった。
 魂がすり切れるほどに何度も、何度も、何度も見せつけられる、醜い現実。
 理想に殉じ、その理想にさえ裏切られ、かつての己をも憎んだ男にとって、数多の惨劇はもはやどれも同じ光景に映った。
 彼のすべき事は、後始末だけだ。それ以上被害が拡大しないよう、まだ息のある人々の体を切り裂き、命を奪う事。そうであるのなら、
(もしかしたら、オレは。オレが、マスターの命を奪ってしまったんじゃないか)
 ぞわ、と全身総毛立つ。
 ――ただの妄想にすぎない。
 そう思いながら、そんな無慈悲な現実もあり得ると、否定も出来ず、凍り付いたアーチャーの前で、
「……もし、そうなら。だから、アーチャーが私のところに来てくれたのかな」
 ふと、マスターが呟いた。
 はっと目を上げると、少女はにこっと笑い、
「そうだったら、いいな。もし生きてる頃にアーチャーと出会ってたら、私はきっと、この人ともっとたくさん話したいって思ったんじゃないかな。ずっとそばに居たいって、願ったと思う」
 そして、アーチャーの手を取った。自分の小さな両手で包み込み、
「だから私、あなたに出会えて良かった、アーチャー。――ずっと一緒に居てくれて、ありがとう」
 まるで祈るように、誓うように、そうささやいた。
 その声は小さく、儚く、それでいて決して折れる事のない心の強さを感じさせる。
「……マスター」
 血の気が引いて冷たくなった手に、じんわりと温もりが伝わってくる。
 アーチャーは体の強ばりをゆるりゆるりとほどき、深く息を吐いた。
(緊張しているのは、オレのほうか)
 マスターには明日の決戦への憂いなど一つもなく、ただ真っ直ぐ、自身のサーヴァントがもたらす勝利を、信じて疑わない。
 それなのに今更彼女を心配し、励ましてやろうなんて、見当違いにも程がある。しかも、あったかどうかも分からない事を妄想して、一人で右往左往しているとは、まるで道化ではないか。
(過去など、どうでもいいんだ。オレは、ただ)
「……あぁ、マスター。オレも、君に出会えた事を、感謝している」
(ただ、今この時を、大切にしたい)
 微笑んで手を握り返すと、マスターはとても幸せそうに顔をほころばせて、もう一度ありがとう、と言った。
 そのしみ入るような笑顔を、決戦を明日に控え、ただ二人だけとなった教室の片隅で、アーチャーは深く心に刻みつけた。
 例え戦いの果てにこの身が消え去ろうと、それだけは絶対に忘れまいと、深く、深く――。