うちのアーチャーがこんなに優しい訳がない

 よく晴れた、ある春の日曜日。
 透き通るような青い青い空から降り注ぐ暖かい日差しを浴びながら、私は一生懸命、石畳の道を駆けていた。
(どうしよう、間に合わないかも!)
 息を切らして走りながら腕時計を見れば、約束の時間まであと五分を切っている。
 こんな事なら、もう少し早く起きれば良かった。せっかくセットした髪も、入念に選んだ服も、これじゃ全部台無しだ。何でこんな日に限って、電車が遅れるのーっ!
(あと、少しっ……)
 おろしたての靴は、いつもよりヒールが高くて走りにくい。
 それでも出来るだけ急いで走り続けていたら、ようやく、待ち合わせ場所が見えてきた。
 休日で賑わう大通り。その中でも一際大きな建物は映画館で、カラフルなポスターが所狭しと貼られた入り口には、たくさんの人たちが行き交い、楽しそうに笑い合ってる。
(どこにいるんだろう)
 駆け足をゆるめながら素早く見回すと、人混みの中でも一際目立つ男の人が目に入る。
 その人は、黒いシャツにジーンズというシンプルな格好をしていた。すらっと背が高くて、おまけに褐色の肌、逆立てた白い髪、ちょっと見た限りでは怒っているようにも見える真面目な顔とくれば、もう見間違えるはずがない。
「アーチャー! 遅れてごめん!」
 見つけた途端ほっとして、私は急いで駆け寄った。けど、駅からここまで走ってきたせいか、足がふらっとして、
(転ぶ!)
 そのまま盛大にダイビング――すると思った次の瞬間、がしっと力強い腕に受け止められた。
「注意力散漫だぞ、マスター」
 まだ数メートル距離があったのに、アーチャーはすっ飛んできて私を助けてくれたらしい。
「う……あ、ありがとう、アーチャー」
「さっき電話で、焦ってくる必要は無いと言っただろう。出会い頭に怪我をされては敵わんよ」
 すとん、と私を真っ直ぐ立たせて、アーチャーはやれやれ、とため息をついた。その表情はいつも通りだけど、――なんだか、全然違う人みたいだ。
「……ん? 何だ、マスター。私の顔に何かついているか」
 ついまじまじ見つめていたら、アーチャーが問いかけてくる。え、あ、いや、と私は慌てて手を振った。
「な、何でもない。ただ、アーチャーの私服姿見るの、初めてだなと思って」
 さっき見つけた時も思ったけど、私服のアーチャーは、ちょっと、……いや、だいぶかっこいい。
 鍛えてるせいもあってか、ぴんと伸びた背筋や腕が、服の上からでも逞しいのが見て取れるし、元々顔立ちも整ってるから、芸能人か何かみたいだ。
(なんか、隣にいるのが恥ずかしいかも)
 対して私は特に可愛いわけでもない、とても普通だ。
 凛やラニにいろいろ相談して、自分なりにおしゃれをしてきたつもりだけど……それも、ここまでの疾走で全部台無しになってしまった。
(やだな。早く映画館にはいっちゃえ)
 暗い劇場内なら、変なところも見えなくなるだろう。そう思って、アーチャー早く行こうと声をかけようとしたら、
「あぁ。そういえば、制服以外のマスターを見るのも、これが初めてだな。よく似合っている」
「っ!?」
 いきなりさらっと爆弾を落とされ、びき、と硬直した。な、な、今この人何て言いました!?
「……鳩が豆鉄砲、とはそういう顔の事を言うのだろうな。マスター、何をそんなに驚いている」
「だっ……だ、だって、アーチャーがそんな、似合ってるとか、誉め言葉言うなんて! てっきりあれこれ駄目だしされるかと……」
 普段は、これでもかこれでもか! とばかりに駄目だししてくるのがアーチャーという人だ。これだけぼろぼろの私を見たら、絶対あれこれ叱ってくるに違いない、と覚悟していたのに。
 そう言ったら、アーチャーはまたもやため息をついた。
「君は私を何だと思っているんだ。ここが例えば戦場ならば、マスターに苦言も忠告も与えはするが」
 だが、とアーチャーは手を伸ばし、走ってきたせいでもつれた私の髪を指でするりと梳いた。そして私の目をのぞき込み、
「今日の君は、私のために身支度を整えてきたのだろう? それを嬉しいと思いこそすれ、駄目だしなどせんよ。
 ……安心したまえ、マスター。今日の君は、花のように可愛らしい」
 いきなり卑怯なくらい優しく、にっこり笑った。
「――!!」
 私は息が出来なくなって、思わずよろよろ後ずさった。
 な、何!? この人アーチャー? ほんとにアーチャーなの!? 普段と違いすぎませんか!!
「映画のチケットは、君が来る前に引き替えておいた。さぁ行こう、マスター」
 ぱくぱく、と金魚のように口を開け閉めする私に構わず、アーチャーは映画館へと入っていく。
 その後についていきながら、私は走っていた時よりもさらに心臓がどきどきして、めまいと動悸で目が回りそうだった。
 しょ、初っぱなからこれじゃ、身が保たないです……

 こうなったもとはといえば、凛が原因だ。
『映画の割引券が手に入ったんだけど、わたしこういうの苦手でさ。あなた、興味ある?』
 そういって見せてくれたのは、今人気の恋愛小説を実写化した映画のチケットだった。元の原作が好きで、映画も見たいと思っていた私がそれをありがたく貰ったら、
『せっかくだから、アーチャーとデートでもしてくれば? あんた達、二人で出かける機会ないみたいだし、ちょうどいいでしょ』
 なんて提案をされたのだ。
 私は、アーチャーがこういうの興味あるとは思えない、というかそもそも遊びに行くこと自体渋るんじゃないかと後込みしたのだけど、凛に引きずられるようにして誘いにいったら、
『マスターが行きたいというのなら、私は構わんよ』
 なんて、あっさりOKされてしまった。
 それで、わざわざ外で待ち合わせて、いわゆる、で、デート、というものを、初めてする事になってしまったのだけど。
(き……緊張する……)
 大好きな小説の映画なのに、私はちっとも集中出来なかった。
 だって隣にアーチャーがいて、時々肩や手がぶつかったりするし、アーチャーはこんなこてこてのラブストーリーなんて好きじゃないかもとか、ほら今ため息ついた! 退屈そう! とか、とにかく一挙手一投足が気になって仕方がなかったのだ。
 ――なので、
「……ご、ごめんね? アーチャー。無理言って、つきあってもらっちゃって」
 映画を見終えた後、近くのカフェに腰を落ち着けた時、私は恐縮して、ぺこりと頭を下げた。
「? 何を謝っているんだ、マスター」
 対してアーチャーは不思議そうに言う。
「いや……だってアーチャー、ああいう映画、好きじゃないでしょう」
 ため息ついて、不機嫌そうに眉をしかめてたし。そう指摘すると、アーチャーはあぁいや、と苦笑した。
「そういうわけではない。確かに女性向けの内容ではあったが、そこそこ楽しんだ」
「……無理しなくていいよ?」
「していないよ、マスター。私がため息をついたのは、ヒロインの相手の男に苛立ちを覚えたからだ」
 苛立ちって、何でまた。首を傾げて問い返すと、アーチャーはコーヒーを口に含みながら、
「あの男が、自分の未熟さを棚に上げて、ヒロインに八つ当たりをするシーンがあっただろう。例えフィクションであろうと、ああいう傲慢さは見苦しくて好かん」
 ばっさり、切り捨ててしまう。いや、まぁ確かにあそこはひどいと思ったけど、
「でも、最後にちゃんと助けにきてくれたじゃない。自分は傷だらけなのに、ヒロインの為に一生懸命頑張って、やっと二人が再会出来たシーンは、やっぱり良かったなぁ……原作でも同じところで泣いちゃったもの、私」
「ふむ。確かに最後は名誉挽回といったところだったな。
終わりよければ全てよしというが、見事なハッピーエンドだった。少々、都合の良すぎるきらいもあったがね」
 映画評論家のような口調でしめた後、アーチャーはふと真顔になり、私と目を合わせる。
「私の事より、マスター。君は映画を楽しめたのか」
「え?」
「鑑賞の最中、どうも落ち着きがなかったように思えたのでな。元々、君が見たがっていたはずだが、終始そわそわしていたような……」
「そっ! そ、そんな事、ないよ? げ、原作のイメージ通りだったし、全然、すっごく、おもしろかったよ!」
 見透かされて顔がかーっと熱くなり、私は慌ててうつむいて、パスタにスプーンを突っ込んだ。
 映画の間中アーチャーが気になってたなんてバレたら、どんな事言われるか分かったもんじゃない!

 ご飯を食べた後どうしようか話し合ったら、アーチャーは「私には特に希望はない。マスターが行きたいところへ行けばいい」と丸投げしてきた。
 たまの休日なのに、私につき合うだけでいいの? と重ねて聞いてみたけど、本当にそれで構わないらしい。
「それなら、勝手に好きなところ行っちゃうからね」
 そう前置きして、私はアーチャーと一緒に街へ繰り出した。とはいっても、明確にあてがあるわけじゃない。通りを歩いて、気になったお店があったら、覗いていくだけ。
 数年前に新規開拓されたこのエリアには、若者向けのショップがたくさんある。
 春物の色鮮やかな服がディスプレイされたファッション通りをのんびり歩いて、アーチャーにあれ似合いそう、私よりマスターがあの服を試してみたらどうだ、なんて言い合ったり。
 雑貨屋さんを覗いて、普段身につけた事もないアクセサリーを試してみたり(アーチャーが気に入ったのなら私が買おうか、なんて言い出したから、慌てて戻したけど)。
 ゲームセンターでUFOキャッチャーにチャレンジしてみたら、アーチャーが鷹の目で本気になって、山のようにぬいぐるみをゲットしちゃったり。
(遊びに来て良かった)
 誇らしげに、ぬいぐるみが詰まった袋を差し出すアーチャーに笑って、私は心からそう思う。
 いつも一緒にいるけど、アーチャーとこんな風に遊ぶのは初めてだ。
 最初はアーチャーがあんまりにも大人っぽく見えて気後れしたけど……普段は皮肉っぽい言い回しばかりで、難しい顔をしているアーチャーも、今日は楽しそうだ。
 表情を緩めて微笑んでくれるたびに、私は胸がぽっと暖かくなるような気がして、何だか嬉しくなる。
(これならまた、来てもいいかもしれない。そういえば水族館の改装工事、来週で終わるんだっけ)
 アーチャーの機嫌がよければ、また誘ってみようか――そう思ったとき、ふと。
『あれ? 水族館が改装してるなんて、私知ってたっけ?』
 小さな違和感が、針のように心を刺した。極小の穴にも等しいそれは、少しだけ、けれど無視出来ないほど確実に、広がる。私は目を見開き、しげしげと違和感を凝視する。
『そもそも、私、どうしてここに居るんだろう』
 それは、凛からチケットを貰って、アーチャーと映画を見にきたから。
 ほんの少し前まで何の疑問も持たずにいたその現実が、今はどこかねじ曲がっているものに思える。
『私、普段、アーチャーと、何を、していたんだっけ』
 いつも二人で居た。それは確かで、けれど、私みたいなどこにでもいる普通の子と、アーチャーみたいな人が、なぜ、行動を共にしていたのかが思い出せない。
『――っ』
 思い出せない。気持ち悪い。ずきん、と頭に痛みが走り、思わず手を当てて呻く。
「……マスター? どうした、気分が悪いのか」
 道ばたで突然足を止めた私を、アーチャーが身をかがめて心配そうに声をかけてくる。大丈夫、と答えはしたけど、
「ひどい顔色だ。少し休もう、マスター。あちらまで歩けるか」
 アーチャーはてきぱきと私を連れていき、ベンチに座らせた。
 いったん腰を下ろすと、確かに歩き疲れていたのだろう、ほうとため息が自然に出てしまう。
 じわじわと足下から上ってくる疲労を自覚しながら、私はアーチャーに笑いかけた。
「アーチャー、ありがとう。私は大丈夫だから」
「そうか? ……いや、ここで少し休もう。思えば朝から動きっぱなしだったからな。少々休息をとらねばなるまい」
 そういって、アーチャーも私の隣に座る。
 腕が触れるくらい近くに来られて、一瞬どきっとしたけど……アーチャーがそばにいると、さっきまでの気持ち悪さもいつの間にか和らいで、何だかほっとする。
「大丈夫か、マスター。何か飲み物が欲しいなら買ってくるが」
「いいよ、もう平気。それよりアーチャーも疲れたでしょう? 一日、私が引っ張り回しちゃったし」
 そう言ったら、アーチャーはふっと笑った。
「いや。こういった時間は普段なかなか取れないからな。実に貴重な一日だった。君と街を回れてとても楽しかったよ、マスター」
「……っ」
 う。かっこいい。台詞も笑顔も、かっこよすぎて正視出来ない。
「そ、そう、な、なら良かった、うん、アーチャーが楽しめたのなら、良かった!」
 頭が沸騰する勢いで血が上るのを感じて、私はばっと顔を背けた。
 前から思ってたけど、アーチャーは時々恥ずかしい台詞をさらっと言うのが、かっこよくてずるい!
 何の心構えもしてない時に、そういうの言わないで欲しい!
「マスター、本当に大丈夫か? 顔色が青いのは治ったが、今度は真っ赤になっている。熱でもあるんじゃないのか」
「!!」
 言いながらアーチャーがさっと私の額に手を当ててきたので、今度こそ硬直してしまった。な、ちょ、何をするんですかこの人は!
「だ、だ、大丈夫! だから、あの、良いから! は、離れてくださいアーチャー!!」
 思わず敬語まで使ってババッ! とベンチの端まで退いてしまう。心臓がばっくんばっくんして息が止まりそう、さっきより断然具合が悪くなってる気がする。
「……マスター」
 手を空中に泳がせたまま目を丸くしたアーチャーは、ぜぃぜぃ息を切らす私をまじまじ見つめた後、
「ふむ――なるほど。そういう事か」
 しみじみと一つ頷いた。その何か悟ったような表情に嫌な予感を覚えて、「あ、アーチャー?」おそるおそる名前を呼んだら、
「マスター。そろそろ、締めくくりをしても良い頃ではなかろうか」
「ひぃっ!?」
 いきなりずいっと距離を詰められ、私はつい悲鳴を上げてしまった。ち、近い! 近いっていうかもうこれは密着してるとしかいいようがないんですけど!
「ちょ、ちょっとアーチャー、何、だから近いってば!」
「近づかねば、キスの一つも出来ないだろう。少しは大人しくしたまえ、マスター」
「きっ……」
 耳慣れない単語に思考が停止する。凍り付いた私の顔にアーチャーの手が添えられ、そっと正面に向けられてしまう。
 早鐘のようになる心臓の音をバックに、真顔のアーチャーが視界めいっぱいに映って、それがまたかっこいいものだから、火がついたみたいに体が熱くなる。
「な、アーチャー、ま……」
「……静かに」
 あわくって叫び出しそうになる私の唇に、人差し指が当てられる。アーチャーは口の端をあげて微笑み、
「こういう時は目を閉じるものだよ、マスター」
 くらくらするような甘い声でそう囁き、ゆっくりと顔を近づけてきた。
(や……うそ、ほんとに、キスされる……っ)
 接近してくるアーチャーを見ていられなくてぎゅっと目をつぶってしまい、これじゃ待ちかまえてるみたいだと焦り、もうどうしていいのか分からなくなる。
 逃げようにも腰に手を回されてて動けない、あぁもう、こうなったらどうにでもなれ! くらいのやけっぱちな気持ちになりかけた、その時。

『……ター……マスター!』

 不意に、突き刺すような声が混乱を引き裂いた。
「!」
 全身を打つようなその激しい声に、びくっと大きく体が揺れる。
「っ、マスター? どうした」
 その唐突な動作にアーチャーも驚いたのか、動きを止めて問いかけてくる。
「え……あ、え? 何?」
 問われて、でも何が起きたのか分からなくて、私も目を瞬かせる。周囲を見渡しても、目に映るのは公園と柵越しに滔々と流れる川、その上にかかる大橋だけで、ひとっこ一人いない。
(幻聴……?)
 何かの聞き間違いだろうか。そう思った矢先、
『マスター! しっかりしろ、目を覚ませ!!』
「!!」
 声とともにばぢっ!! と音を立てて、目の前に火花が飛ぶ。
「痛っ……!」
「マスター!!」
 手足が千切れるかと思うような衝撃に体がのけぞる。アーチャーが血相を変えて私を抱きしめ、
「何かの呪いか? マスター、気をしっかりもて!」
 そう叫んだけれど、その声が、何か奇妙に歪んで聞こえる。
「マスター!」
『マスター!』
 呼ぶ声も言葉も、全く同じ。
 私を抱きしめ、離すまいというように力を込めてくるのは、アーチャー。
 私を打ち据え、怒声にも似た叫びを発するのも、アーチャー。
 けれどそれは決定的に、
『――違う!!』

 自覚したその時、崩壊は一瞬だった。
 暮れなずむ穏やかな空、夕陽に赤く染まった町並み、巨大な存在感を示す大橋、静かに流れゆく川、そして私を抱きすくめるアーチャー……それら全てが、まるでガラスのようにひび割れ、跡形もなく砕け散った。
 投げ出された場所は、周囲すべてを闇に閉ざされている。自分の指先も見えないような真の闇の中、私はもがいた。
『このままじゃ、消えてしまう』
 何が起きたのか分からない。けれど消失の恐怖だけが、確かな予感としてある。
 このままここにいては、いずれ自分は無くなってしまうだろう。
『それだけは、駄目だ』
 体がじわじわと闇に食われていく。浸食の感触を味わいながら、すがりつくように思う。
『諦めないと、――は決めた』
 ノイズが走る。自身の名前が出てこない。
『――は、――と約束をした』
 指を、足先を、髪を食われていく。暗闇を押しのけ、あがき、それでも諦めない。
『生きて答えを見いだすと……確かに、――は、』

 アーチャーと契約を交わしたのだから!!

「マスター!!」

 全身全霊をかけて声を限りに絶叫した瞬間、暗闇を裂いて赤い光がきらりと光った。何かにぐん、と勢いよく引かれ、視界が一転、白い光で全て塗りつぶされ――

「――やった! 成功よ、アーチャー!」
 ふっと目を開いた時、アーチャーと凛が真上から私をのぞき込んでいた。どちらも心配そうで、それがあまり見ない表情だったから、
「どう……したの、二人とも。なにか、あった……?」
 ぼんやりしたまま尋ねる。と、いきなりばしんと額を叩かれた。
「痛っ!? ちょ、凛、何?」
「なにかあった? じゃないわよ、ばか! あんた何にも覚えてないわけ!?」
「え、え、えっと……?」
 そう言われても、頭の中はさっきまで居た街や、暗闇での恐怖の事で占められていて、何も分からない。
 妙に重たい体を何とか起こしてみると、どうやらここは保健室のようだ。
 見渡すと、私はベッドで横になっていて、その両脇に凛とアーチャーが居る。
「あれ……私……どう、したんだっけ」
 本気で思い出せなくて呟くと、アーチャーが苦虫をつぶしたような顔で、じろりと私を睨みつけてくる。
「覚えていないのなら教えよう、マスター。君は校内で勝手に一人歩きをしたあげく、よそのマスターの攻撃を受けて、瀕死の重傷を負ったんだ」
「え……えぇっ!?」
 そ、そうだっけ? まだ混乱する私に、凛も怒りを含んだ冷たい眼差しを注ぐ。
「そうよ。幸いアーチャーがすぐ見つけてわたしのところに連れてきたから、何とかなったものの……あなたね、もう少し自分がマスターだって自覚を持ちなさい。危うく死ぬところだったんだから!」
「う……ご、ごめんなさい……」
 よく思い出せないけど、確かに自分にはマスターとしての自覚が足りないのだろう。そのせいでアーチャーや凛に迷惑をかけてしまったのだとしたら、申し訳ない。
肩をすぼめて謝ると、アーチャーが大きくため息をついた。
「全く……肝が冷えたぞ、マスター。これに懲りたら、単独行動は控えてもらいたい。
剣による戦いなら私がいくらでもこなしてみせるが、マスター自身に影響を及ぼす攻撃には、手も足も出ないのだからな」
「うん……本当にごめんなさい」
 言いながら自分の体を見下ろしてみる。制服の上着を脱がされているくらいで、他は特に、目立った外傷は見あたらない。
 瀕死の重傷というからには、よほどのダメージを被ったはずだけど……私は一体どういう攻撃を受けたのか、と凛に尋ねてみると、赤い魔術師は腰に手を当て、
「あなたが受けたのは、精神汚染のウィルスよ」
 人差し指を立てて講義のような口調で説明してくれる。
「霊子体のわたし達は、NPCと同様、この体はデータによって形作られている。データ同士のぶつかり合い、いわゆる物理攻撃はもちろん、データそのものを破壊するウィルスによっても傷つくわ。
 今回の攻撃は後者の方。校内での闘争は禁じられてるけど、少しでも敵を減らせりゃいいって感じで、手当たり次第、マスターに攻撃を仕掛けてた奴がいたのよ」
 ぎし、とベッドに腰掛け、凛は話を続ける。
「犯人はあなたを襲ってから少し後、他のマスターに返り討ちにされたらしいから、それはいいんだけど。マスターが居なくなってもウィルスの効果が消えるわけじゃないから、ちょっと危なかったわね」
「そんなに……危険なウィルスだったの?」
 そういえば誰かに呼ばれて振り返ったら、いきなり視界が暗転して――後は何が起きたか覚えていない。薄ぼんやりした記憶を呼び起こしながらの問いに、凛はまぁね、と肩をすくめる。
「そうね。あのウィルスに汚染されると、データの全てを書き換えられて自我崩壊して、しまいには消えてなくなるわ」
「そ、そんなおおごとだったんだ……」
 予想以上に凶悪な攻撃だったのだと背筋が寒くなり、さーっと青ざめる私。アーチャーが眉間のしわを深くした。
「だからそうだと言っているだろう、マスター。彼女の手助けがなければ、君は今頃、電子の海をさまよう羽目になっていたのだぞ。
 全く……こちらが君を助けようと必死になっていたというのに、君はニヤニヤ笑いながら呑気に眠っていたのだから、何度たたき起こしてやろうと思ったことか」
「に、ニヤニヤ!?」
「あぁ、それなら仕方ないわよ、アーチャー」
 よく考えたら二人に寝顔を見られていたのか、一体どんな変顔をしていたのかと戦慄する私と、不機嫌そうなアーチャーに、凛は手を振る。
「あのウィルスは言ってしまえば、麻薬を大量にぶちこむようなものでね。汚染の過程で、本人の精神が一番心地良い状態を幻視させながら浸食していくのよ」
「一番、心地良い状態……?」
「そ。要するに、あなたに気持ちいい夢を見せて、気づかない内に全てを食らいつくしていくの。
 ウィルスの名前がスマイリーイーターっていうのも、そういう性質だからついたものよ。冒された霊子体は皆残らず、笑いながら死んでいったらしいわ」
「ほう。という事は、マスター。君もよほど、良い夢を見ていたと……ん、マスター?」
 水を向けられる前に、私はベッドに潜り込んで顔を隠していた。アーチャーが覗き込んでくる気配がするけど、ますます深く潜り込む。
「マスター、どうした。まだどこか具合が悪いのか」
「だ、大丈夫! もう何ともない! 大丈夫だから気にしないで!!」
 アーチャーをまともに見る勇気がなくて、私は毛布を引っ張って必死に叫ぶ。
 い、今はやだ、絶対顔見られたくない、だって、だって、
(あんな優しいアーチャーとデートしてる夢を見たなんて、言えないー!!)
「……大丈夫だというのなら、せめて顔を出したらどうだね。散々人に面倒をかけておいて、その態度は無いだろう、マスター」
「ご、ごめんなさい、謝ります、だから、ちょっと勘弁して!!」
「ちなみに――」
 毛布をひっぺがそうとするアーチャーと私がどたばた騒ぐのを脇で眺めながら、凛がぼそっと呟いた。
「今回あなたを助ける為に、マスターとサーヴァントをつなぐ経路を、一時的に増幅してリンクを強化したから。
 もしかしたら互いの心象風景が混線したかもしれないわ」
「!」
 ぴた、とアーチャーが動きを止めた。凛はなにやら笑いを含んだ声で続ける。
「つまりその子が見た夢に、あなたのイメージが反映されてるかもしれないって事だけど――ねぇアーチャー、それでもマスターの夢の内容、知りたいの?」
「っ……い、いや、それは、その」
 途端にアーチャーは怯み、布団から手を離した。わざとらしく咳払いをし、
「ともあれ、だ。マスターが無事生還したのだから、それでよしとする。
 今日のところはゆっくり体を休めて、明日からの探索に備える事にしよう。
 ――それでいいな? マスター」
 アーチャーの呼びかけに、私は布団の中でこくこくこく、と何度も頷く。
 とりあえず、とりあえず一晩休めば、もうちょっと落ち着けるはずだもの。この場さえ乗り切れれば、後はどうにでもなる……そう思ったのだけど。
 その時、私達を眺めていた凛が、如何にも嬉しそうな顔でにんまり笑っていたのに気づかなかったのは、かえすがえすも不覚だった。
 何しろ二人揃ってあの赤い悪魔に――しっかり、これ以上ないというほど、痛恨の弱みを握られてしまったのだから。