彼女が街にやってきた 17

 月の聖杯戦争の全容といっても、七海は何もかも語った訳ではない。その全てを事細かに説明しようと思えば、時間がいくらあったところで足りないだろう。という訳で、色々かいつまんで話をしてくれた。
 記憶を失ったまま、いつの間にか聖杯戦争に参加する羽目になった事。
 学校生活を装った予選で危うく死にかけたところ、召喚されたサーヴァントに救われた事。
 不確かな自身の有り様と、命懸けで戦う事に戸惑いながら、トーナメント形式の試合を辛うじて勝ち上がっていった事。
 その中で自身の正体――あちらの世界の地上で命を落とした少女の記録を、忠実に再現したNPCが自由意志を得たという事……。
「えぬぴーしー……って何?」
 聞き慣れない単語に、難しい表情をする凛へ、七海が補足する。
「NPCはある決まった行動をプログラミングされたもの、っていったらいいかな。
 ムーンセル……さっき言った月のスパコンの名前だけど……ムーンセル・オートマトンは聖杯戦争の運営を行うスタッフとして、実在の人間のデータから姿形、更にその中身までコピーして、ノンプレイヤーキャラクターNPCを作り出して、それぞれの役割に応じて配置しているの」
「……じゃあ、七海、あなたは元々、そのムーンセルに作られたNPCで……」
 人間じゃないの。おそらくそう言い掛けて、凛は口ごもった。七海はふわりと笑い、頷く。その表情に屈託はないが、
「……とても、そんな事は信じられん」
 アーチャーは動揺のあまり呻いてしまう。
 今ここにいる彼女は、確かに生きた人間そのものだ。何度かその体に(やむなく)触れた事があるけれど、その感触は、温もりは、決して作り物のそれではなかった。
「それは当然だ。彼女はこちらへ来る際、霊子変換を経て、その存在を固定化されている。霊子データのままでは、世界線を越えたところで、そのまま消滅していただろう」
 後ろで手を組んだ神父が訳知り顔で述べる。よく分かんないけど、とコンピューターアレルギーの凛が苦虫を噛み潰したような顔をしつつ、念を押す。
「要するに、今の七海は私たちと変わらないってことでいいのね?」
「そうだ」
「……なぜそう断言できる? 言峰綺礼、貴様はどうやらムーンセルとやらのシステムについて一見識あるようだが、どうしてそれほど詳しく知っている」
 断定的な物言いが気になって問いを投げると、神父は軽く肩をすくめ、
「なぜなら私もまた、それに関わっていたからだ。もっとも挑戦者ではなく、監督NPCとしてだが」
「え? じゃあ、七海だけじゃなくて、綺礼まで月から来たっていうの?」
 話が進むにつれ、ますますこんがらがってくる。頭を抱えた凛に代わってアーチャーが話を続けた。
「貴様が彼女と同じく、我々の世界に紛れ込んだのだとしたら、ここにいた言峰綺礼はどうなったのだ? 成り代わっているのか、同一存在として認められているのか……」
「それもまた、事が面倒になってる要因だな。――よっと」
 背もたれに乗っていたランサーは身を翻し、神父の前へと移動した。そして突然、
「ふっ!」
 鋭い呼気と共に掌中の槍を目にも留まらぬ速さで、男に向かって突き出す。躊躇のない本気の一撃は、神父の胸元へ引き寄せられるように打ち込まれ――だが、その一瞬。
 微動だにせず槍の突進を見つめていた神父の姿が、宙に溶け消えた。いや、それだけではない。
 それまで清浄な空気に満たされた教会が一転、荒れ果てた建物となって目の前に現れた。主を失い、役目を無くした神の家は、窓ガラスが割れ、扉も半分無くなってほこりが降り積もり、もはや見る影もない。
「何っ……」
「え、どうして……!」
 アーチャーと凛の驚嘆が重なり、しかし瞬きの刹那に、
「……とまぁ、こういう正体ことだ」
 槍を収めたランサーの声で、再び彼らは元の教会を目にしていた。声を失うアーチャー達にニヤッと笑って、ランサーは再び長椅子の背に上った。正面の腰掛けに足を乗せて言う。
「こっちじゃとっくの昔に、神父も教会も無くなってる。さっき言ったろ? あんたらが今見てるのは、夢幻みたいなもんだって」
「……っ」
 そう――そうだ。なぜ、こんな大事なことを忘れていたのだろう。
 先の聖杯戦争で、言峰綺礼は衛宮士郎に破れ、死んだ。かの男が死した後、この教会は放棄され、何の手入れもされないままになっていたはずだ。
「私の正体を語るために、わざわざ槍を向ける事はないだろう、ランサー。肝が冷えた」
 だが神父は変わらず、そこにいる。泰然自若と立ったまま、のんきにランサーへ苦情を申し述べている。そっぽを向いて舌を出す槍兵からこちらへ顔を戻し、
「ともあれ、これで分かって頂けたかな。私は言峰綺礼だが、この世界にかつて存在した言峰綺礼とは別の存在だ。
 こちらでの出来事は記録として知ってはいるが、実感にはほど遠い。私はこの街での言峰綺礼のデータを忠実に再現しているただのNPCに過ぎないのだよ」
 淡々と説明する男を前に、アーチャー達は口をつぐんでしまった。
 自身の記憶の中で、言峰綺礼は確かに死亡している。だが、目の前の神父は、データに過ぎないと言ったところで、無視できない存在感があった。
「……じゃあ、あんたもその、霊子変換? とかで、実体を持つようにされたわけ?」
 顎に手を当てて考え考え、凛が言う。そうだと首肯し、神父は続いてかぶりを振った。
「しかし私は、七海君とはいささか立場が異なる」
「というと?」
「七海君――彼女はこちらの世界では普通の人間と全く同等の存在だ。心を有し、からだを持ち、君たちと寝食を共にするような、ごく普通の生活を送れる。
 だが私は違う。私は基本的に、この教会から離れる事は出来ない」
 また不可解な話だ。アーチャーは眉根を寄せ、
「私が彼女と初めて会った時、貴様が連れだっていたと記憶しているが。あれはここから離れた町中だったぞ」
 と、神父はつかつかと通路を進み、長椅子の列に割り込んだ。七海の後ろから屈み込み、その肩にぽんと手を置く。
「あの時は彼女が同道していたからだ。私は彼女の許可なく、この場を離れられない」
「え、そうなんですか?」
 七海も初耳らしく、目を丸くしている。神父はそれを見下ろしてふっと笑った。
「当然だ。何しろ私は君によって、こちらの世界へ具現化したのだからな」
「……どういう事なの。七海には世界を越えて、しかもあんたを再現出来るほどの力があるっていうの?」
 勿体ぶった物言いに、凛がイライラと床を足で叩き始める。落ち着きたまえ、と背を伸ばした神父はゆっくりと面々を見渡し、厳かに告げた。
「その通りだ。彼女は月の聖杯戦争における最終勝利者であり――今まさに、聖杯と繋がっているのだよ」

 ――聖杯戦争の最終勝利者にして、万能の願望器を手に入れた魔術師。
 その告白に、凛とアーチャーは絶句してしまった。
 まさか、この平々凡々とした、さほどの力も持たない少女が、熾烈であろう戦いを勝ち抜き、聖杯を得たとは。
 だがそう言われて目を向けてみれば、長椅子にちょこんと腰掛けた少女の体から感じ取れる魔力は、以前のそれとは全く異なっていた。
 一般人にも等しいほど脆弱だった魔力量は今や、体内を巡る魔術回路の隅々まで満ち、ともすればあふれ出しそうなほどだ。それに先ほど影を吹き飛ばした時の魔術も、シールドが無ければアーチャーさえ無に帰すほど、絶大な威力を誇っていた。
「本当……なのね、七海」
 凛も彼女の状態を理解したのだろう、疑念ではなく確認の声音で呼びかける。対して七海はうん、とあっさり応えながら、首を傾げた。
「そうはいっても、私には聖杯の力を使いこなせないよ。さっきちょっと使ってみたけど、あやうく周囲を吹っ飛ばしそうになったし。
 いくら聖杯がすごいといっても、私程度の魔術師じゃ、いずれ暴走するか、このうつわごと消滅しちゃうんじゃないかな」
 だから、と七海は神父を見上げた。
「私が神父様をこっちの世界で再現させるなんて事、とても無理だと思うんですけど」
「うむ。もし君が独力で成そうとすれば、それは不可能だろうな」
 肯定した神父は再び靴音高く移動し、祭壇の前へ戻った。くるりと皆に向き直り、
「私がここに在るのは、君が聖杯に願った事柄に由来している。七海君、どんな願望を捧げたか、覚えているかね?」
 手を前に伸べての問いかけに、視線が少女に集中する。七海はハッと息を飲んだ。その頬にすうと赤みがさし、それは、と口ごもってしまう。
「言いたくないのならいいんだぜ、七海。何もお前の内面を暴き立てようって訳じゃねぇんだから」
 ランサーが穏やかに言う。
 ……先ほどから、いや、だいぶ前から、ランサーは少女に気安い。その慣れ親しんだかのような口振りがなぜか引っかかって、アーチャーは口角を下げた。
「貴様もずいぶん知った顔だな、ランサー。まさか自分も月から来た等とのたまうつもりか?」
「あぁ、そうだ」
 皮肉のつもりが、さらりと肯定され、アーチャーはつい目をむいた。くっ、とランサーが短く笑い、「半分な」と続けた。
「俺もあっちの聖杯戦争に喚ばれたんだよ。あいにく途中で敗退しちまったが、そのおかげで座に記録が残ってる」
 ランサーはこちらの聖杯戦争でも命を落とし、この奇妙な繰り返しの日々に呼び戻されたサーヴァントだ。一度英霊の座に戻った時、新たに追加された月の戦いについて、知識を得たのだろう。
「だから七海ともあながち、全くの他人ってわけじゃねぇ。とはいえ……」
 そこでランサーは七海へ顔を向けた。
「あんたが最後まで勝ち上がったってのは知らなかった。特に明確な願望もなく、ただ生き残るだけで必死だったあんたが、聖杯に何を願ったのか、興味はあるな」
「あー……えぇと」
 神父、ランサー、さらにアーチャー、凛からも視線の催促を受けた七海は少し口ごもる。が、しばらく考え込んだ後に顔を上げ、
「私が聖杯に願った事はいくつかあるんだけど……この状況に当てはまるものでいったら、多分」
 そして静かな声で告げた。
「――いつまでも終わらない、普通の平和な暮らしがしたい、という願いだと思う」
「…………」
「……七海」
 あまりにもささやかな、ありきたりの願い。それが、重く響く。
「……私、気が付いた時には聖杯戦争に参加していて、地上での暮らしは、インプットされた記録でしか知らない。
 ムーンセルは人間の五感も忠実に再現してくれるけど、やっぱりプログラムされたデータに過ぎないから……たとえば士郎君や桜さんが作ってくれたご飯があんなに美味しいなんて、知らなかった」
 ふ、と七海の表情がゆるむ。
「それにあんな大勢と一緒に暮らしたのも初めてだったし、女の子だけで買い物にいったのも、スーパーや学校へ行ったのも、プールで泳いだのも、皆楽しかった」
 それぞれのエピソードを思い返しているのか、七海は本当に嬉しそうな笑みを浮かべている――見ているこちらが切なくなるほどに。
 凛が何か言いたげに口をもごもごさせているのを横目に、アーチャーもまた、無意識に眉根を寄せてしまう。
 聖杯に願うには、あまりにもささやかで、下らない願望。だがそれこそ、この少女には決して手に入れられない夢、なのだろうか。
 複雑な思いにとらわれる二人をよそに、七海は続ける。
「月での日々が全て辛い出来事だったわけではないけど……でも、やっぱり、少し夢が見たかったの。だから最後の最後、叶わなくてもいいから――聖杯に願ってしまった」
「そして聖杯はそれを聞き入れた」
 七海の清涼な声に代わり、重低音の声が響く。言峰は再び手を後ろで組んで、話を引き継いだ。
「あいにくあちらの世界の地上では、紛争が多く、彼女が望んだ平穏な日常を送れるような場所はほとんど見あたらなかった。
 それに、彼女の願いは単に平和な日々を送りたい、というものに限らず――聖杯戦争の中で出会った人々と共にありたい、という希望も含んでいた」
 ランサー、凛、アーチャー。順番に三人を見つめ、神父はふっと笑う。
「君たちは……正確には、別次元に存在する君たちの同一存在は、月の聖杯戦争で彼女と関わりを持った。
 故に聖杯は君たちを元に全次元に渡って検索し、彼女の願いに適合するパターンをいくつか選び出した」
 そして、と自身の胸元に手を当てる神父。
「この私をビーコンとして、彼女をこちらの世界に顕現する事を最終決定した。
 ムーンセルの言峰綺礼と、こちらの言峰綺礼は最近似値だった。しかも実体オリジナルはすでに死亡しており、データの重複禁止にも違反しないので、都合が良かったのだな。
 よって、セブンスヘブン・アートグラフ聖杯はこの教会、そして言峰綺礼を基点として、NPCデータを並行世界へ送り出し、なおかつ霊子変換により実体化させ、その願いを叶えるという奇跡を果たしたのだ」

 ……ごくり、と唾を飲み込む音さえ響くような沈黙。
 今語られた途方もない奇跡を、アーチャーは十分に咀嚼した後、ようやく受け入れた。思わず知らず、ため息がでる。
(確かに……万能の願望器によれば、それも実現可能なのだろう)
 神父の説明は一貫しており、七海の説明を補って矛盾しない。
 この言峰綺礼がムーンセルが作り出した監督NPCだとしたら、少なくともその機構部分の説明に嘘はない、と思っていいのではなかろうか。しかし、
「……それならばなぜ、彼女は月での事を覚えていなかった?」
 続いて浮かんだ疑問が、独り言のようにこぼれ落ちる。
「異なる世界への進入、実体化という難事を可能としたのであれば、彼女は月にいた時と寸分違わぬ姿形や記憶を持っているはずだ。なぜ、記憶喪失になった」
「それはオーバーフロー対策だな」
 言峰は淀みなく答える。
「先ほど七海君が告げた通り、聖杯の力は彼女という器に反して、強大に過ぎる。しかし七海君がその力を使いたいと思えば、無尽蔵に、術者の力量などお構いなしに押し寄せてくるだろう。
 そうなれば彼女のみならず、こちらの世界にも悪影響を与える可能性がある」
「つまり聖杯は力が暴走しないように、七海の記憶を封じたって事?」
 凛の言葉に神父は首を縦に振る。そして、と講義を行う教師のように一同を見渡し、
「彼女が記憶を取り戻した時、それは夢の終わりだ。七海君は何としても自身の世界へ戻ろうと、ここへやってくる。この教会こそが、月へ至る道だからな」
「だが、平和な生活がしたいってのは、そもそも七海の願いだったんだろ? なのに何で帰りたがるんだ。元の世界じゃ叶わないからこそ、聖杯はここを選んだんだろうに」
 ランサーの言葉に、再び視線が七海に集まる。七海はぴくっと肩をすくめ、それからアーチャーをちらっと見やり、
「……それは、ここが私の願い通りの場所だとしても……月には、私を待ってる人がいる、から」
 なぜか恥ずかしそうに俯いた。「?」その仕草に引っかかりを覚え、七海の視線を辿ったアーチャーは、膝の上で重ねた小さな手に目を留めた。
 そして気づく。その白い甲に刻まれた、赤い痣の存在に。
(あれは令呪か?)
 重ねた下に左手があるのでしかとは見えない。しかもすでに一部欠けているようだが、それは紛れもなく令呪だった。これまでそんなものは無かったはずだが、記憶を取り戻す事で、マスターとしての資格も復帰したのだろうか。
 上に乗せたほっそりした指が残った赤い印を、優しげに、どこか愛おしむようになぞり、撫でている。
「――ねぇ、七海。もしかしてあなたを待ってる人って、アーチャーなの?」
 不意に。凛がとんでもない事を言い放ったので、アーチャーはぶっと吹き出してしまった。
「な、何を言う凛、君は私まで月にいたと思ってるのか!?」
 ずっとこの街にいた事は、凛が一番よく知っている。何の冗談かと思いきや、凛もまた七海の手、令呪を見つめ、この上なく真剣な表情だ。
「だってさっき綺礼が言ってたじゃない。この三人は月で七海と関わったって。それってランサーだけじゃなく、私とアーチャーも月にいたって事でしょ?
 だったら、七海が初対面の私の名前に反応したのも分かるし、あんなにアーチャーに会いたがってたのも説明がつくわ」
 それに、と続けながら、凛が少し頬を紅潮させる。
「月で七海がアーチャーと契約して、聖杯を勝ち取るまで熾烈な戦いをくぐり抜けたのなら、その間にこう……何て言うの? 気持ちが通じ合うような事があってもおかしくないわ。それなら記憶を無くしても、体がアーチャーに反応するのも当然っていうか」
「り、凛、その言い方は誤解を招くからやめてっ!!」
 かぁっと赤くなって七海は頬を手で押さえた。凛がちらっと流し目を投げる。
「あら、違うの?」
「……アーチャーが私のサーヴァントだって事は合ってます」
 赤面したままこくりと頷く。それを聞いて、アーチャーはようやく得心した。
(なるほど。記憶を失い、戦う意義もないか弱い少女が、何かの拍子にサーヴァントを得たのなら、それに傾倒するのもおかしくはない)
 彼女のアーチャーへの態度は、彼に対する思いに満ちあふれ、すがりつかんばかりだった。
 月世界のアーチャーはおそらく、聖杯戦争中、力を尽くして彼女を守り、支え、たいそう慈しんで(言い換えれば甘やかして)いたに違いない。
 しかし――何とはなしにむっとして、アーチャーは口を曲げた。腕を組み、
「君のサーヴァントがアーチャー……だったとしても、私とは全くの別物だ。そこの神父が、ここにいた言峰綺礼とは別人だという事と同じようにな。
 それに私はランサーと違って、月の聖杯戦争に関する記録がない。自分に全く覚えのない事で好意を向けられ……ても……」
 強い反発の言葉は、語尾が薄れた。
 なぜなら、彼が見つめる先で少女がとても穏やかな笑みを浮かべたからだ――それは分かっている、というように頷きさえして。
「……本当は私のアーチャーもこっちに来られたら良かったんだけど、聖杯にそこまでお願いしてる余裕はなかった。しかも記憶まで奪われちゃうし、なかなか思った通りにはいかなかった、けど」
 七海は微笑んだまま、アーチャーを見上げる。そのつぶらな瞳は彼だけを映し、輝きを帯びた。
「あなたは私のアーチャーじゃない。だけどやっぱりあなたも、私が大好きなアーチャーだから……もう一人のアーチャーに出会えて、とても嬉しかった。本当に……『あなた』に会えてよかったよ、アーチャー」
「……っ!」
 途端、心臓が跳ねる。血が逆流する。突然かぁぁぁ、と頬が熱くなるのを感じて、アーチャーは思わず手で顔半分を隠してしまった。
(違う、彼女が求めているのは自分のサーヴァントで、俺ではないんだぞ!)
 だから落ち着け、そう念じるのに、速くなった鼓動はいっこうに治まらない。
 ――この少女が苦手だ。普段の冷静な自分がどこかへ消え失せて、どうしようもなく心が騒ぐから。だがそれは苦手、というのとは少し違う気がする。これは不得手にしているというより、むしろ……
「おーおー、赤くなってるアーチャーなんて珍しいもん見たな。七海、お前やっぱり大した女だよ、そいつにそんな顔させるたぁ」
「! ら、ランサー、貴様っ」
 揶揄の言葉にきっと視線を向けると、ランサーが膝に頬杖をついて、にやにやこちらを眺めている。完全に野次馬の顔なので、つい勢い余って剣を作りだそうとしたが、
「おっと。……七海、どうやら長話が過ぎたな。招かれてねぇ客がきちまった」
「え?」
 ランサーは不意に顔を引き締めた。そして、きょとんとする七海達の前をすたすた通り過ぎると、槍を手に、入り口の扉を片方開く。
(招かれざる客だと? 一体誰が来た?)
 一転して真剣な様子になった槍兵が気になり、アーチャーも自身の得物を握りしめて近づく。
 開いた扉からさぁ、と夜気が滑り込み、頬を撫でた。ビルの屋上で感じたのよりは冷たさが和らいだそれに、ただならぬにおいが混じっている事をかぎつけ、アーチャーは鼻の頭にしわを寄せた。
(これは……魔力のにおいに、ほんのわずかだが……死臭?)
 ランサーの肩越しに外をのぞき見る。広場はまだ何の陰もなく、穏やかな夜を保ったままだった。しかし――その闇の中、ずるり、ずるりと引きずるような音を立てて、何かが蠢いている。
「ランサー……あれは、何だ?」
 アーチャーの鷹の目が闇を透かし、その人影を見分ける。
 女……スーツ姿の女だ。俯いているので顔立ちは分からないが、闇にとけ込みそうな深いワインレッドのパンツスーツにショートカットで、飾り気のない女。怪我でもしているのだろうか、右手は左手の肘辺りをきつく掴み、その足取りは遅々として進まない。
 否――彼女は歩みを止めず、まっすぐこの教会をさして歩を進めている。
 だが、まるでその場で足踏みしているかのように、彼女は少しも前進していなかった。見えない壁にぶつかり、それでもなお進もうと、前のめりになって足を動かすが、それでも先にいかない。
 ずる、ずると気味の悪い前進を続けるそれに、ランサーはぼそりと、
「馬鹿な奴だ。どんだけ踏ん張ったって、あいつのところに行けねぇってのに」
 素っ気なく、しかし悼むようにつぶやき、一歩外へ出た。槍を肩に担いで振り返り、
「あれは俺に任せて、お前はとっとと帰るんだな、七海。こっちで会えて楽しかったぜ。縁がありゃ、またどっかで会おうや。何なら、俺のマスターになってくれてもいいぜ?」
 ニッと笑ってみせる。その無邪気な笑顔につられたのか、七海もまた顔を綻ばせた。
「それもいいかもね、ランサー。気をつけて……色々助けてくれてありがとう」
「おう」
 ひらひら、と手を振り、女につま先を向ける。ランサー、とアーチャーはその背中に呼びかけ、自身も外へ出た。
「ランサー。手助けはいるか」
「おい、誰に向かって物言ってんだ、お前」
 だが後に続こうとするこちらを手で押し返して、ランサーは顔をしかめる。
「助っ人なんざいらねぇよ、俺が始末をつける」
「何か因縁があるのか? あれと」
「まぁ……ちょっとばかりな。あの女についちゃあ、他の奴には任せられねぇんだ」
 声のトーンが一段階低くなる。さっきまで見せていた陽気な笑みがかき消え、ランサーは無表情になって女を見返していた。
 女は相変わらず不可視の壁に体当たりを繰り返し、「……て……会わせ……の人に……」何か不明瞭にぶつぶつ呟いている。
「……分かった。それなら私は手出ししない。お前の好きにしろ、ランサー」
 その有様にアーチャーもまた表情を厳しくさせながら、すっと後ろに身を引いた。
 この男がこう言うのであれば、無粋な手出しをすべきではないだろう。どんな関わりがあるにせよ、決着は本人につけさせるべきだ。
「言われるまでもねぇ。こっちは俺に任せて、お前は七海と別れを惜しんでくるんだな。多分あいつに関する俺達の記憶は、天の聖杯に消されちまうからよ」
 とんっ、とアーチャーの胸を拳で叩くランサーが、聞き捨てならない事を言う。
「――何だと?」
 記憶が消される? 彼女に関する事だけ? 驚いて目を見開くアーチャーに、槍兵は背中を向けて、
「聖杯への願いを覆して元の場所へ戻るんだ。聖杯としちゃ、それなら全部無かった事にした方が、他世界への今後の影響を考えると都合がいいのさ。だからな、アーチャー」
 かつかつ、と歩きだし、その手に槍を握りしめ、言う。
「ちゃんと見送ってやれ。後は座に戻らなきゃ、あの子の記録に触れる事ができなくなる」
「…………」
 そのまま迷いなく進むランサーから視線を外し、アーチャーは教会の中へきびすを返した。そしてまた驚く。
「これは……もしやこれが、月への道、なのか?」
 一体いつの間に現れたのか、教会の中に光の階段が現出していた。
 それは祭壇の手前から奥に向かって伸び、壁を突き抜けて更に上へ繋がっているようだ。
 建物や祭壇と完全に重なっているように見えるが、教会自体がまやかしになっている今、さほどの不思議ではなかった。七海は階段の前に立ち、凛に別れを告げていたらしい。
「ありがとう。凛が居てくれなかったら私、どうしたらいいのか分からなかったと思う。……凛はどこにいても凛だね。月でも、ここでも、私を助けてくれた。本当に感謝してもし足りないよ」
「やめてよ……私はちょっと手を貸しただけで、後は衛宮君や桜が面倒みてたじゃない」
 凛が真っ赤になっているのは照れているのか、あるいは泣くのをこらえているためか。七海の手をぎゅっと握り、
「元気でね、七海。よかったらまた遊びに来なさいよ……ううん、私から会いに行くわ。並行世界への移動は大師父の十八番だから、技を盗んでやるんだから。それに七海に来させて、また記憶喪失になっちゃまずいからね」
 少し震える声に笑いを交えながら、別れを告げる。七海は目を細めて、
「うん、じゃあ待っているよ、凛。あなたが私に会いに来てくれる日を。――楽しみにしてる」
 微笑んで手を握り返し、名残惜しげにそっと離した。
 そして。彼女はゆっくり、アーチャーへ向き直る。
「アーチャー」
 噛みしめるように彼を呼び、七海は静かに歩み寄ってきた。
 正面に立ってこちらを見上げるその外見は、初めて出会った時と同じだ。
 ふわふわとした茶色の髪に華奢な手足、ぱっちりとした目。とびきり美人というほどではないが可愛らしい少女。
 だが、本来の自分を取り戻した七海は、その表情が別人のように違う。
 喜びに生き生きと紅潮した頬、慈しみに微笑みを浮かべる唇、それから別離の悲しさを秘めて揺れる黒の瞳。その全てが輝かしく、胸を締め付けるほどに――愛らしい。
「……名前を」
 胸にこみ上げる感情を持て余し、アーチャーはかすれ声で囁いた。首を傾げる七海に、咳払いをして言い直す。
「君の名前を、教えてはくれないか。七海というのは、月にある七つの海にあやかったもので、本来の名前ではないのだろう?」
「……あぁ……そうだね。だから私、七つの海って言ったんだ」
 記憶を奪われてなお、彼女の心は月を思い続けていたのだろうか。納得したというように一つ頷き、少女は自身の名を告げた。それはありふれた、どこにでもある名前で、
「……そうか。なら私は、君の名前を忘れまい。英霊の座に戻った暁には、月での君の活躍ぶりをあますところなくチェックさせてもらうよ」
 だからこそアーチャーはその名を胸に刻み込んだ。
 ランサーの言う通りなら、彼女が月へ帰還すれば、皆全て忘れてしまうのだろう。聖杯による強制的な記憶改竄を逃れる術はなく、きっとそのことに誰も違和感を覚えないに違いない。
 だが、この街へやってきた彼女が、月での記憶を全て忘れ去っていなかったように。彼女と共に過ごした時間はきっと、各々の心にそのかけらを残し、何かの拍子に顔を出す事もあるだろう。
「君と過ごした日々は、まぁ面倒もあったが、楽しくもあった。
 元の世界に戻って、この街での出来事を覚えていたなら、向こうのアーチャーに語って聞かせるといい。どうやらそちらは、娯楽に飢えているようだからな」
「……うん」
 彼の提案で少女が笑ったが、細めた目の端に、不意に涙がたまる。それがこぼれ落ちるより早く、
「アーチャー……!」
 少女は不意に、アーチャーに勢いよく抱きついてきた。
「!?」
 ぎゅう、と背中に力一杯手を回され、アーチャーは完全に虚をつかれた。
 息が止まり、あたふたと手が泳ぎ、助けを求めてみっともなく辺りを見渡したが、凛も神父も慎ましくそっぽを向いて、自分たちは見てないからどうぞご自由に、という姿勢だ。
(う……ど、どうすればいい……)
 一瞬無理に引き離そうかと思ったが、これが最後だと思うと、それもためらわれる。顔が火照っているのを自覚しつつ、アーチャーはおそるおそる、少女を腕の中に収める。そしてその華奢な温もりに、改めて驚いてしまう。
(この娘は、こんなに小さかったのか)
 失った記憶を思って沈む事があっても、彼女は常に前向きで素直だった。それは時に強く輝きを放って、彼をたじろがせるほどだった。
 だが、思う。その輝きがあればこそ、彼女は聖杯戦争を戦い抜く事が出来たのだろう。全てを知った今となっては、彼女が聖杯を手に入れたという事実も、すんなり受け入れられる気がする。
「……君が……あちらの世界でも、幸せに暮らせるように、祈っている」
 胸が苦しい。息が上がる。頭が熱を持ってくらくらする。この温もりを感じている限り、きっとこの異常は収まらない。抱擁の腕に力を込め、アーチャーは少女の耳元に小さく囁きかけた。
「アーチャー……」
 対して、少女の体からは、すっと力が抜けた。
「……ありがとう。この街の記憶を、私は決して忘れない。忘れないから……」
 そしてほっそりした腕が優しくアーチャーの背中を一度撫で、するりと体を離す。
「あ……」
 まだ、いってはいけない。温もりが離れる事を惜しんだ手が少女へ伸び、とらえようとする。だが少女は微笑んで身を翻し、
「本当にとっても楽しかった! 皆、さようなら!」
 それだけ言い放って、階段のきざはしに足をかける。そして止める間もなく、あっと言う間に駆け上っていき、その体が壁を突き抜けて見えなくなってしまった――

「では、私もお役御免だな」
 それを見届けた神父もまた、その姿が半透明になり、今にも消え去ろうとしている。綺礼、と目元をぬぐった凛が呼びかける。
「私絶対、あの子にまた会いに行く。それまで、あっちでちゃんと面倒見てあげてよね」
「さて……私は単なる監督NPCだからな。そう大した事ができる訳ではないが」
 もはや用を終えた為だろうか、光の階段は一段目から順番に少しずつほどけていく。
 その前に立つ神父もまた足下から消えていきながら、生前と同じ、胡散臭い笑みを浮かべてみせた。
「君が決めた事なら、いずれ実現するだろう。私も彼女と共に、月の世界で待っているよ、凛。その時は手みやげも忘れないことだ――」
 そんなふざけた言葉と共に、かつてこの街に居た神父もまた、今度こそ、完全に、雲散霧消したのだった。

 水の音が聞こえる。
 緩やかな落下感に包まれて、まるでゆりかごの中にいるように心地よい。
 ぼんやりと瞳を開いてみると、辺りは一面の青だった。
 水。いや、これは……光に閉じこめられた、膨大なデータだ。
(ああ……戻って、きた)
「……マスター」
 帰還と同時に、傍らの温もりに安堵を覚える。ゆっくり頭を巡らせると、すぐ目の前に、たった今別れを告げてきたばかりの、アーチャーの顔があった。
(だけど、違う)
 同じ顔、同じ声、同じ姿。けれどあの街で出会ったアーチャーと、彼女のアーチャーは別人だ。それがサーヴァントの宿命なのだと理解していたから、寂しくはない。
「マスター? 何を笑っている」
 だが、どうした事だろう。自分があれだけ会いたい、会いたいと切望していたのは、今目の前にいるこのアーチャーのはずなのに、戻ってこられて嬉しいという気持ちに、ほんの少し残念な気持ちも混じっている。
「うん……あのね、アーチャー……私、夢を見てたの」
 くすりと笑って、アーチャーの顔を手で包み込む。まるで本物のような暖かさが愛しく、けれど心のどこかで、あの街のアーチャーの温もりが恋しいと思う自分もいる。
「それでね……私、もう一度、アーチャーが好きになったの……」
 その時、触れた手の指先が、不意に消えた。
 いや、ただ消えたのではない。指先からするすると糸がとけるように、手が消えていく。端々から少しずつほどけていく虚脱感に襲われ、彼女は落胆のため息を漏らした。
(ああ……聖杯のエラー処理が始まっちゃった……)
 聖杯はデータの精査を終え、異常データとして彼女を処理し始めたのだ。
 彼女はやがて全てデリートされ、おそらくはアーチャーも同じように処理されるだろう。そして、聖杯戦争の勝利者は居なくなる。
 正規のマスターであれば外へ出られたのだろうが――彼女にはそれが叶わない。
(ごめんね、凛……『私』は、約束、守れないや)
 もう二度と彼らには会えない。これでおしまい。悲しい。切ない。でも嬉しい。
「マスター、まだ聞こえているか」
 なおしっかりと彼女を抱きしめ、アーチャーが囁く。目の前で分解されていくこちらを、ひどく悲しげに見つめながら、
「……君と共にあったこの日々を、オレは忘れない。君に出会えて、オレは……オレは、幸福だった。言葉では言い尽くせないほどに……幸せだったよ、マスター」
 切々と告白し、崩れ消えていく彼女をつなぎ止めようとするかのように、更に強く抱擁する。
「アー……」
 体の密度が薄くなり、もはや手足どころか、喉をふるわせることもできない。中途半端に漏れ出た音に思いを込めて、せめて最期は笑って見せた。
 ――ありがとう、アーチャー。私も、本当に幸せだった。
 その思いはきっと伝わった。アーチャーもまた、こちらに応えて笑ってくれたから。だから安心して、私は目を閉じ、青い大海へと身をゆだねた。
 刹那の永遠、たまらなく幸せで、たまらなく切ない夢を見せてくれた聖杯へ、感謝を捧げて――

エピローグ

 箱に入って一時間。外の世界ではすでに一日経っているはずだが、脱出策が見つからない。
「どうしてこうなった……」
「衛宮君があのステッキを放さないからじゃない、もう」
 独り言に答えたのは、自分と並んで暗闇の中に座っている、遠坂凛だ。
 箱の中は息苦しいというほど狭くはないが、広々としている訳でもないので、必然、凛と肩を並べ、息がかかるほど近くにいる羽目になるのが、今の士郎には拷問にも近かった。
 何しろ遠坂凛は、ひそかにずっと憧れていた少女なのだ。
 その清楚な立ち居振る舞いに見とれる事三年間。
 聖杯戦争で敵マスターとして対峙してからはそのはっちゃけた中身にずっこける事も、一度や二度ではなく、猫かぶりも大概にしろ! と苦情を申し立てたくもなるが……しかし、そういう面も好ましい。好ましいから、こんな密着した状態は、非常に、困る。
「ええと……何か脱出の手がかりになるものはないかな」
 動揺を見破られる前にと、ごそごそ辺りを探る。
 ここで再度ステッキに手が当たったが、これは遠坂にポイ捨てされた。どうやらずいぶん嫌な思い出があるようだ。だがまぁ、内側から力でこじ開けるのは不可能と分かったので、ステッキでは何の役にも立つまい。
 そう割り切った士郎の手に今度当たったのは、
「携帯電話? 何だ、こんなものがあるなら、最初から使えばよかったのに」
「う……そ、それはその……え、衛宮君、とにかくそれで助けを呼んで頂戴」
「いいのか? 俺が使っても」
 女の子の携帯なんて爆弾、取り扱っていいものだろうか。迷いながら二つ折りのそれを開いて、とりあえず知ってる名前が無いか、アドレス帳を覗いてみる……が、
「……アドレス帳ゼロ件……もしかして遠坂、使い方分からないとか……」
「い、いいから! 早くそれで電話かけてよ!」
 想像以上に遠坂は機械音痴のようだ。なるほど、いらないもののように箱の中に放り込んでおくわけだ。
 とりあえず知っている番号にかけてみる……が、事は魔術が関わっているため、一般人の知り合いには声をかけられない。
 家にかけてみたが居るのは藤ねえばかり、他にも思い当たるふしにかけてはみたが、途中で妙な混線したり、話が通じなかったりで、結局誰にも助けを呼べなかった。
「うう、こんな事なら、桜に携帯電話を持たせておけばよかった」
「もう……どうするのよっ!」
 元はといえば遠坂のせいでこの箱に入り込むはめになったようなものだが、閉じこめられた時間が長すぎて、もはや苛々が頂点に達しているらしい。遠坂の尖った声にそんな事言われても、と気弱に呟いた時、
 ピリリリッ……ピリリリッ……
 突然手中の携帯電話が鳴り始めた。
(しめた、誰か電話をかけてきてくれた!)
 遠坂に電話を寄越す相手はクラスメイトの可能性が高い気がしたが、もはや藁にもすがる思いだ。士郎は通話ボタンを押し、
「もしもしっ!」
 と勢い込んで出てみた。と、
『あ、アーチャー? 今どこにいるの? ちょっと目を離したら、すぐ居なくなっちゃうんだから』
 耳に飛び込んできたのは、聞き慣れない少女の声だった。
「え? アーチャー? って……」
 見知らぬ相手が聞き慣れた名を口にしたので、士郎は虚をつかれてしまう。目を瞬いている内に向こうは何か勘違いしたらしく、
『え? じゃないってば。この後、凛の家にいかなきゃいけないんでしょ? 遅刻したら大目玉食らうの私なんだから、早く行こうよ』
「いや、行こうよって言われても……」
 遠坂の家に行く、という事は、やはり友人なのだろうか。そう思ったが、隣で通話を盗み聞きしている遠坂は、知らない知らない、と首を振ってみせる。
「ええと、今どこに居るんだ?」
『駅前の交番前。はぐれたらここに行けって言ってたよね。アーチャーまだ来てないみたいだから、電話したんだけど、本当に今どこに……』
『マスター、ここに居たか』
「!?」
 電話の向こうから更に聞こえてきた声に、思わず目を見開く。そんな馬鹿な。だが、この低い声は間違いなく、
『……あれ? アーチャー? え、何で?』
『何でもなにも、雑踏では手を離すなと言っておいただろう。全く、君は迷子の天才だな。どこにいっても必ず行方不明になる』
『か、必ずじゃない! 今回はアーチャーが包丁の実演販売に夢中になってたせいじゃないっ! って、あれ、それじゃあ……』
 沈黙。やがて照れ笑いを含んだ声で、
『ごめんなさい、間違い電話しちゃったみたいです。すみませんでした』
 ようやく誤解に気づいた少女が謝罪してくる。
「あぁ、いや、それはいいけど……」
『お騒がせしました。失礼します』
 君は誰なのか。それを聞こうとした時、向こうからぶつん、と電話を切られてしまった。
「今の……何だったんだ? アーチャーがマスターとか呼んでたような……」
「……聞き間違いじゃないの? アーチャーが誰かと契約したなんて話、耳に入ってないし」
 遠坂と顔を見合わせ、首を傾げる。
 ともあれ、ここから抜け出すのに、この携帯電話はもう役に立たないようだ。バッテリーもとっくにからになってるし。……あれ? それなら今の電話はどうやってかかってきたんだ?
「……まぁ、深く考えるのはよしましょう。それより現実的な脱出手段を考えなきゃ。そろそろ皆も私達がいない事を怪しんでるだろうし」
 遠坂は気持ちを切り替え、他に役に立つものがないか、ごそごそ探し始めている。
「そうだな。藤ねえが心配して暴れてるかもしれない」
 そうなったら組の男衆まで出てきて、大騒ぎになりかねない。早く脱出せねばと士郎も箱の探索を再開した。暗闇を探る中、手の中に握ったままの携帯を見下ろし、ふと思う。
 ――確実に知らない人だった。なのにどうして何となく、懐かしい気がするんだろう。
 もう少し色々話が出来たら良かったのに。
 士郎は胸にこみ上げてくる温かい思いに、自分でもよく分からないまま、ふと微笑を誘われたのだった。