礼拝堂。訪れる者のない、かつて聖なる場所だったそこは、すっかり荒れ果て、朽ちるに任されている。
だが、言峰綺礼はずらりと並ぶ長椅子の一番後ろで、在りし日の教会を眺めていた。
彼の父から引き継いだ礼拝堂は塵一つ無く、清浄な空気に満たされている。それは神の家に相応しい整然とした光景に由来しているだけではなく、パイプオルガンの重厚な音色がこの場に響きわたっているからだ。
天窓から祝福のように光が降り注ぎ、小さな教会は神の光臨がなされたかのように輝いている。白い細い指が鍵盤を叩くと、妙なる音色が金のパイプからあふれ出し、汚(けが)れの全てを洗い流していく。
ありふれた賛美歌。ありふれた弾き手。だがこの場、教会において奏でられるそれは、この世の善を歌い、人々の罪を問う、美しい曲だった。
言峰綺礼は沈んだ目のまま、その曲に耳を傾けた。
曲は長くはない。いずれ終わる。凡庸な弾き手はそばに誰がいようといまいと、己の務めを果たす事のみに集中し、決して振り返る事はない。彼の目に映るのは、その青みがかった白い髪と、細い背中だけ。
――……なた……――
それはかつて彼に微笑みかけ、やがて勝手に居なくなってしまった、あの女の忘れ形見だ。
「……」
彼は何を思うでもなく、口を開いた。この場で彼に許されるのは沈黙のみだと知っていて、それでも言葉を発しようとした。紡ぐべき言葉も知らず、ただ喉を震わせ声を出そうとした、その時。
きぃ、と教会の扉がきしみ、開いた。
「!」
途端、パイプオルガンも、荘厳な賛美歌も、天窓から降り注ぐ光も、何もかも消え失せる。
とっさに振り返った彼の目に映ったのは、一人の少女。先ほどまで教会の奥にいた、幻の少女とは似ても似つかない、栗色の髪の異邦人。
「あ……こんにちは、神父様。今、よろしいですか?」
少女は彼の姿を認め、おずおずと尋ねてくる。綺礼はゆっくりと向き直り、
「もちろん構わないとも。……今は七海君、と呼んだ方がいいのかな?」
穏やかな、腹の底に響くような低音の声で、彼女を迎え入れたのだった。
手がかりが無いのなら、はじめの場所に戻ってはどうか。
魔術教会への問い合わせも不発に終わった後に出たのは、そんな苦し紛れの結論だった。
『あなた、最初は教会で倒れてたのよね? それを保護したのが綺礼だっていうなら、あいつ何か知ってるかもしれない』
凛の提案に、そういえばそうだと七海は深くうなずいた。衛宮家に引き取られてからというもの、七海は教会にいっさい近づいていなかった。詳細は知らないが、どうやら神父と士郎達は先の聖杯戦争で一悶着あったとかで、あの男には絶対近づくなと彼らに強く言い聞かせられていたのである。
しかし調査が行き詰まった今、少しでも手がかりを得られるのなら、禁じ手も選ばざるを得ない。士郎、そして提案した凛自身も、あの神父を頼る事には強く抵抗を覚えたが、結局それ以外の手が今のところ無いのだから仕方ないという結論に落ち着き……
そして今、七海は言峰神父の元へ来た。
『あいつのところに一人でいく!? 何言ってるのよ、そんな事させないわよ!』
『俺も反対だ。あの神父と一対一で話をしたら、精神が汚染される。俺も一緒にいくよ、七海』
士郎と凛に勢いよく詰め寄られたのだが、大丈夫だから、と何とか落ち着かせてきた。
『あの神父さん、そんな悪い人じゃないよ。それに二人には散々迷惑かけちゃったから、これくらいしないと』
安心させる為の台詞にも散々反論を浴びたのだが、折りよくというか、士郎はイリヤに、凛は美綴綾子に連れ出され、そのまま散会となった。残った桜が心配そうに大丈夫ですか? と言われたが、
『うん、平気だよ。何かまずかったらすぐ逃げるから、心配しないで』
さすがにこれほど反対されると自身も不安を覚えたので、そう約束して、衛宮家を出てきた。そうして今、七海は最前列の長椅子に座り、神の像が掲げられた台座の脇に立つ神父を見上げている。
「体の調子はどうだね、七海君。何か不都合は?」
後ろ手に組んだ言峰神父は、以前と変わりなく落ち着いた調子で語りかけてくる。その重厚な声音は厳粛な場に相応しく、安堵と緊張を同時に呼び起こして、何となくそわそわした気分にさせられた。
(士郎君達は、この雰囲気が苦手なのかな……それはわかる気がする)
そう思いながら、七海は小さく首を振った。
「大丈夫です。凛……遠坂さんも、衛宮君も、とてもよくしてくれてますから」
「そうかね、それはよかった。彼らは実に面倒見が良いから、きっとそうなるだろうと思っていたよ」
こつり、こつりと固い靴音を立てて、神父はゆっくりと前を行き来する。背が高く、肩幅の広い彼が目の前にいると、大きな影に視界を遮られているようだ。左右に揺れる黒い長衣を目で追いながら、七海は続けた。
「でも、記憶の方は相変わらずで……何か手がかりがないかと、今日は伺ったんです」
「ほう」
神父はぴたりと立ち止まり、機械じみた動きでくるりと体を回した。かつかつと歩み寄り、七海の前に立って、ほのかに笑みを浮かべてみせる。
「君は全く思い出せていないのかね? かつての自分を」
「……全く、ではないです。時々、自分でも知らないはずの事を知っていて」
聖杯戦争について熟知していたり。凛に不思議な懐かしさを感じたり。アーチャーの過去が士郎だと見破ったり。アーチャーに会いたくて、アーチャーの側に居たくてたまらなくて、どうしようもなくなったり――
「……でもそれがどうしてなのか、思い出せない」
胸が締め付けられるような思いに襲われ、心臓の上に手を当てながら、七海は呻いた。
自分には確かに過去がある。こんなに切実な思いが、勘違いや何かのはずがない。かつての自分はきっと、アーチャーと共にいて、何かをしようとしていたはずだ。
(なのに、思い出せない)
それが歯がゆくてならなかった。
時折、気まぐれのように顔を見せる記憶の断片は、必死に手を伸ばす彼女をあざ笑うように、捕らえても指の間から滑り落ちていってしまう。それを懸命に守ろうとしても、かけらは消えゆくのみだ。
「私……思い出したいんです、神父様」
七海は黒々とした神父の瞳を見返し、訴えた。神を信じているのかどうか、それも知らないまま、手を組み、祈るように懇願する。
「お願いです、神父様。私を見つけた時、何か身元がわかるものはありませんでしたか? どんな些細な事でもいいんです、思い当たる事を何でも教えてください……!」
「……」
神父は淡雪のような笑みを消し、彼女をじっと見下ろした。
一度瞬きし、そして音のない所作で腕を動かす。その固く冷たい指先が、ほんの微かに七海の手に触れ、
「……あいにく、そういったものは何も無かった。もしあれば、はじめの時、君に全て渡していたよ」
いたわりの声を漏らした次の瞬間には、離れていた。何て冷え切った手だろう。僅かな感触の冷たさに驚きながら、七海はそうですよね、と肩を落とした。
神父が七海をはじめに見つけた時、もし彼女の身元を示すものがあったとして、彼がそれを隠す理由などないだろう。
「そうだろうとは思ったんですけど……でも、もしかしたら何かあるかもしれないって、思いこんじゃって。すみません、急に押し掛けてきてしまって」
結果として神父を疑うような言動になってしまった事に申し訳なさを感じ、慌てて頭を下げる。しかし彼は構わないとも、とこちらの気持ちをほぐすような、優しい声音で応えた。
「記憶をなくすというのは、自身のより所を失ってしまうという事だ。さぞ心細い事だろう。教会は困っている人々を受け入れこそすれ、拒みはしない。君の力になれない事は残念だが、私は君の言葉を聞く事は出来る」
その声に促されるように上体を起こして見上げると、神父は再び微笑み、彼女を見下ろしていた。黒い影のようなその姿が、天窓からの光に縁取られ、淡くかすむ。
「困った事があれば、いつでも来るといい、七海君。神はありのままの君を受け入れ、その存在を許すだろう」
「神父様……」
その暖かい言葉にほっとして、体の力が抜ける。何だ、士郎と凛が散々脅すからどんな事になるかと思ったが、やはりこの人は良い人だ。信徒でも何でもない自分にも優しく、救いの手をのべてくれる清く正しい聖職者なのだ。
「……ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて……」
また今度、来ても良いですか。そう言おうとした時、不意に目の前が暗くなった。ぎくりと硬直したのは、顔の上半分が固く冷たいものに覆われ、こめかみ辺りをきつく締め付ける感触を感じたからだ。
(な……なに!?)
驚いてそれを掴むが、ぐいと引っ張っても、微動だにしない。まるで万力で固定されたかのように頭が動かず、さぁぁと血の気が引いていく。
「しかし、七海君。これほど時をかけても、思い出せないというのなら」
いったい何が起きたのか。暗闇に閉ざされた中でパニックに陥る七海の耳元で、不意に重低音が流し込まれる。びくっとする七海の側で、神父はまるで甘い毒をそそぎ込むように、
「一度強いショックを与えてみてはどうだろう――たとえば君が死にかけるほどの、強い、強いショックを、だ」
深く、えぐるように、そう囁きかけた――ぎしり、と七海の頭を握る手に、力を込めて。