アーチャーは不機嫌だった。
衛宮家の屋根の上に座り、暮れなずむ空を眺め続けて一時間。
いつこの場を去ろうかと何度も考えたのだが、もし約束をすっぽかしたとあっては、凛が怒り心頭になるだろう。そうなっては後のフォローが面倒過ぎる。その苦労を思えば、今少しばかり我慢したほうが、まだ割に合う気がする。
(全く……凛のおせっかいは治らんな)
彼の不機嫌の理由はひとえに、凛にある。
この異常事態の手がかりかもしれない少女、しかも聖杯戦争についての知識がある魔術師とくれば、用心してしかるべきだろう。
かといって相手にむやみな警戒をさせてはと思い、アーチャーは凛に後を任せた、のだが。あにはからんや、元マスターは少女を引き取り、名前までつけ、衛宮家に引き込んでしまった。
(外敵になりうるかもしれんというのに、わざわざ自分から懐に入れてどうする)
凛は神父のもとより手元に置いた方が監視しやすい、と尤もらしい事を言っていたが、あれは絶対そんな理由で引き受けたのではない。
かつて衛宮士郎を敵と見なしながら、結局はずるずると仲良しごっこを続けてしまった前例を見ても、遠坂凛は魔術師然としながら、骨の髄までお人好しなのだ。
(私が対処すべきだったか。判断を誤ったな)
記憶喪失のか弱い少女とくれば、凛の保護欲を刺激するのも当然だ。あそこで身を引かず、己が接触すればよかった――と思ったが、アーチャーはあの少女に何となく近寄りがたいものを感じている。
(……やはり、帰るか)
夕食の後に七海と会え、となかば命令じみた伝言を受け取って来てはみたが、気が進まない。
凛も今はマスターではないのだし、本来は指示に従う必要はないのだ。後が面倒極まりないが、帰ってしまおうか。
そう考えて、腰を上げかけた時。屋敷の中から、庭に人影がててっと出てきた。
ふわふわした髪の見慣れないシルエットは、間違いなくあの少女のものだ。
(やれやれ。出てきてしまったか)
きょろきょろ辺りを見回しているのは、こちらを探している為だろう。凛越しの伝言には外で待っているとしか言わなかったので、まさか屋根の上で待機しているとは考えもすまい。
姿を見てしまうと、見て見ぬ振りも何となくやりづらい。アーチャーはひとつため息を漏らすと、
「ふっ」
立ち上がって屋根を蹴り、庭へと降りたった。
「わ!?」
ザッと少女の前に着地すると、驚きの声と共に相手が飛び上がる。まさか上から振ってくるとは思わなかったのだろう、目を丸くして硬直している。
アーチャーは背筋を伸ばして彼女に対すると、腕を組んだ。
「君が私に話があるというので来てみたが――用件は何かね。手早く済ませたまえ」
こうなったら長居せずにとっとと帰ろう。そう決めていきなり切り出すアーチャーを見上げた少女、七海は、制服から凛の服に着替えていた。
フリルブラウスに深紅のワンピース、黒のニーソックス。以前凛がそれらを着ているところを見た事があるが、印象がだいぶ異なって見える。凛はシックで大人びた雰囲気を醸し出していたが、七海の場合はなぜか人形を思い起こさせた。
それは生気のない飾り物のようというわけではない。触れたら壊れてしまいそうな繊細さ、少女らしい瑞々しさが顕わになり、何となく丁重に扱わねば、という気分にさせられるのだ。制服の時より更にか弱い感じがするのは、凛よりも華奢な体つきをしているせいだろうか。
いや、やせてはいるが、襟刳りの深いワンピースの胸元は意外と――
(……なぜ私は見とれているんだ)
あらぬところまで鷹の目で観察している自分に気づき、アーチャーはぱっと視線を上向かせた。おかしい、どうもこの少女を前にすると、自分では意図せぬ行動をとってしまう。どうしてこんなに、調子が狂うのか。
「あ、あの、用件ってほどじゃないんだけど」
幸い彼の動揺に気づいていない七海は、まだ驚きの余波を表情に残したまま口を開く。
「この間助けてもらったお礼、ちゃんとしてなかったから」
「それはあの時聞いたと思うが」
「そ、うだっけ?」
確かに礼を言っていたのだが、覚えていないらしい。でも、と頭を振り、
「その後も、アーチャーが凛に声かけてくれたんだよね? おかげで私、ここに置いてもらえるようになって……すごく助かったから、ありがとうって言いたかったの」
「……君をここにつれてきたのは凛だし、受け入れたのは家主だろう。礼を言うなら私より彼らに告げた方が適切ではないかな」
この少女は一体何が言いたいのだろう。意図を計りかねて眉根を寄せるアーチャー。とりつく島のない彼の物言いに、七海も言葉に詰まり、沈黙が落ちる。
「…………用件がそれだけなら、私は失礼する」
何だか知らないが、これ以上語ることもなさそうだ。居心地の悪さにかこつけて、アーチャーはくるりと背を向けた。そのまま跳び去ろうとしたが、
「あっ……ま、待って!」
すかっ。
「……?」
視界の隅で少女の手が宙をつかんだのを見て、動きを止めた。
彼を引き留めるにしては、遠い位置での捕捉。腕にも背中にも届かないそれは、しかし、
(……私の礼装の裾を、つかもうとした?)
そう考えるのにはちょうどいい距離だった。
「…………」
考えすぎかもしれない。だが見過ごしも出来ず、アーチャーはもう一度少女に向き直った。ひどく厳しい顔をしているだろう彼を見上げて、言葉を探す少女に問いかける。
「君は、私を知っているのか」
「え……っと、アーチャー、だよね? 凛のサーヴァントだった」
改まっての問いに七海は目を瞬かせるが、そうではない、とアーチャーは首を振る。
「君は今、私の礼装をつかもうとしなかったか? 君の前では一度も見せた事がないはずだが」
今のアーチャーは礼装をはずし、黒の上下をまとっているだけだ。つかむ裾など、どこにもない。
「……あ、え? そ、うなのかな」
どうやら無意識の行動だったらしい。これが演技なら大した女優だと思いながら、腕を組むアーチャー。
「もしそうなら、君は礼装を身につけた私を知っている事になる。
君が聖杯を求めて冬木に来たのなら、あるいは前回の聖杯戦争の折りにはもう冬木に在住していたのか。それで私をどこかで見かけたのかもしれないな」
思いついた推測を口にすると、七海はしばらく考え込んだ。だが、やがて顔を曇らせて首を振る。
「ごめん、思い出せない……」
「……まぁ、そう簡単に記憶を取り戻せれば苦労はないが、」
手がかりの一つにはなったのでは、と言い掛けたアーチャーを、出し抜けに七海が真っ直ぐ見上げた。夜空を思わせる深い、深い黒の瞳がアーチャーを映しだし、
「でも私、あなたに会いたかった」
涼やかな、迷いのない言葉が小さな唇から紡ぎ出される。
「……なに?」
細く、柔らかく、それでいて胸を射抜くような強さを持った声を突然投げかけられ、アーチャーは意表を突かれた。それまでの頼りない少女という印象を脱ぎ捨て、アーチャーを見つめながら、七海は明朗に言葉を綴る。
「もう一度、アーチャーに会いたかった。どうしても、話がしたかった。あなたの声を、姿を、この目で確かめたかった」
「…………なぜ、だ」
気圧される。まともな魔術も使えないだろうか弱い少女に、英霊たるこの自分が。
乾いた喉を鳴らし、かすれた声をかろうじて押し出すと、少女は瞬きをした。まるで、不意に夢から揺り起こされたように。
「あっ……」
いつの間にかアーチャーのすぐ目の前まで近づいて、その腕に捕まろうとしていた手を、今初めてその動きに気づいたというようにぱっと後ろへ回す。そして、
「あ、あの、ごめんなさい、変な事言って! ただ、その、何となくそう思っただけで……」
普段の調子に戻り、顔を赤らめて俯く。
その様子は先ほどのきりっとした少女とは別人のようで、アーチャーは面食らうしかなかった。いや、気にすることはないと小さく答えながら目をそらし、
「……私に話があるのなら、今日のように凛に言伝(ことづて)すればいい。時間があれば顔を出そう」
自分でもなぜこんな事を言うのか分からないまま、再会の約束を口にしてしまう。それを聞いてぱっと顔を上げた七海は目を瞠り、ついで、
「本当? ……良かった。私、もっとアーチャーといっぱい話したい。もっとたくさん、あなたを知りたいの」
ぱぁっと花が綻ぶようにニッコリ笑った。それはあまりにも嬉しそうで、あまりにも輝いてみえたものだから、
「~~っ、で、では失礼する!!」
アーチャーはどうにもたまらなくなって、その場から勢いよく跳び逃げた。
大きな声で別れの挨拶をする七海から、逃げるように遠ざかる。びゅうびゅうと風を切って走りながら顔に手を当てると、いつの間にか火照っている。
(な、何なのだ一体、私はどうしてこんなに動揺している!?)
行きずりの、敵かもしれない、記憶喪失の未熟な魔術師。警戒こそすれ、好く理由などこれっぽっちも無いはずなのに、心と体の反応が過敏に過ぎる。
(なぜ私は彼女を放っておけないんだ)
わざわざナンパから助けてやったり、必要もないのに呼び出しに応じてみたり。彼女が絡むと、どうも理性とは裏腹な行動を取りたくなるのは、どうした事か。
(――落ち着け。落ち着け。落ち着け)
とっ、と軽い音を立てて、衛宮家から遠く離れた建物の屋根に着地したアーチャーは、深呼吸をして気持ちを沈めようとする。
(つまらない事で感情を乱されては、大事を見逃す)
戦において一番の敵は自分だ。弓兵はいつも心を凍り付かせ、常に最善の手段、最小の犠牲を選んできた。その中で一縷でも迷いがあれば、彼は英霊になる前に死んでいただろう。
体の代わりに心を殺す。彼はそれに慣れていたから、今もまた速やかに冷静を取り戻しつつあった。
だが。冷えていく心の中。真っ直ぐに彼を見つめる夜空の瞳が、いつまでも消えてくれない。
駄目だ、こんな風に心を乱されるから、どうにもあの少女は苦手だというのだ。
「あぁ、くそっ。どうしてこうなるんだ、全く」
鋭く舌打ちして、アーチャーはがしがしと頭をかいた。自分もまた、凛に対してどうこう言える立場にはなさそうだ。