明鏡止水

 人間とは尽きぬ欲の塊、と鳩老キュウ爺は思う。
 精霊は存在するためのいわゆる本能のようなものは有しているが、それはあくまで個々、または同種族を範疇としている。
 それは妖精も同じようなもの、精霊よりは具体的に、あるいは暴力的に発現する事はあるにしても、自然界で営まれる弱肉強食の中で収まるものだ。
 翻って人間は――いやはや、その欲深さ故にここまで進化をし続けられるのだろう、と屋根から屋根へ跳びながら、鳩老は口中で呟く。
 龍游ロンユウ。一千万の人間と、五百の妖精が同居する、人間の都市の中でも有数の大都市。
 最初に訪れた時、あまりの異様さにぽかんと口を開けてしまったのを思い出す。
 何しろ自分が住んでいたのは山奥、田舎も田舎で人もまれな場所だった。
 そこを追われ、流れ流れて、いささかの好奇心を抱えて来てみれば……天を衝くような建物が数え切れないほど並び、通りは耳をつんざく騒音と人、人、人、車、車、車。
 ありとあらゆるものが猥雑に絡み合ったこの場所を、鳩老は好んではいない。
 若水シュイのようにまだ若ければ柔軟に受け入れる事も出来たかもしれないが、さすがに何百年も人里離れた僻地で暮らしていた老妖精に、ここは刺激が強すぎる。
 もしここに妖精館があると聞いていなければ、一刻も早く立ち去って、二度と訪れなかったかもしれない。
 音もなく、ビルの屋上に着地する。
 街はすでに夜だ。闇のとばりは空のなかばまで下ろしたところで、地上の明かりに押されてうすぼんやりとしている。
 パッパーッと軽快な音を立てて走っていく車の列が上手い具合に切れたのを見計らって、鳩老は屋上の縁から乗り出し、そのままひゅっと落ちる。
 地面への着地も支障なく、人目もない。
 堂々と歩いて、その場所……以前は巨大な穴が穿たれ、ありとあらゆる残骸が積み上がっていた工事現場へと足を踏み入れる。
 日々の業務を終え、ここで働く者たちはすでに帰宅している。
 ゆえに誰に咎められる事もなく歩を進めるが、それもほどなく難儀になる。
 何しろ、地面のあちこちから野放図に灌木や蔓や草花が頭を出し、ここは自分たちの場所とでもいうように立ち入りを拒んでいるのだから。
(全く、人間というのは本当に欲深い)
 しかしそれも、ここしばらくでずいぶん歩きやすくなった。
 元はビルを建築中だったのだが、一夜にして巨大な木々に隅々まで浸食されたここを、人間たちは本当に公園へするつもりのようだった。
 計画を立て、道を切り開き、あるいは移植し、景観を整え、大地震の影響で家や仕事を失った人々が憩える空間にするのだと、テレビで市長が声高に宣伝していた。
 それはきっと妖精館が手を回したのもあるのだろうが、自身の住みかが有料の観光地になった経験のある鳩老からすれば、やはりなと苦笑いする結論だ。
 しかし半ば苦々しい思いで、半ば安堵したのも事実。
(ここから離れたくないと根を張った後まで取り除かれては、风息フーシーも報われなかろうて)
 ぴたりと立ち止まったのは、公園の一番奥――ひときわ大きな樹木の前に立ったからだ。すなわち风息が姿を転じたその前に。
「风息」
 呼んでも答えがない事は分かっているのに、つい名を口にする。
 空を覆うように幾重にも枝を張り巡らせる威容を見上げ、太い幹に手を当てる。手のひらから伝わってくるその生気と水の音に、少しだけほっして、少しだけがっかりする。
「……言葉の通じる内に、話をしたかったのう」
 人間を激しく憎悪するあまりに暴走してしまった风息。
 手段を肯定できなくとも、その気持ちは痛いほど分かる。
 だから一度話をしてみたいとずっと思っていたが……思っているだけで手をこまぬいていた怠惰を、今は悔いに思う。
(誰かが、こうなる前に止められたかもしれない)
 たらればを弄んだところで、起きた事を変えられはしない。
 そうと分かっていても、ここに来るたび、胸に去来する思いを無視できない。
 あの事件にかかわった者たちはきっと、多かれ少なかれ、思うところがあるだろう。
(悔いのないように生きたという意味で、风息は満足なのかもしれんがな)
 幹から手を離し、苦笑する。
 老人の繰り言を何度重ねれば、気が済むのか。いい加減やめねばな、と少し後ずさった時、
「……?」
 ふと、音がした。聞き間違いかと思ったが、その場でじっとしていたら、また聞こえる。
(木の後ろに、何かいる?)
 気配は小さい。敵意もなさそうなので、鳩老はそっと身を乗り出し、影を覗き込んだ。
 果たして目に飛び込んできたのは――節くれだった根の隙間に滑り込み、落ち葉を寝床にしようとかき集めている猫が一匹。いや、その奥に子猫が数匹。
「シャーッ!!」
「おっと、すまんすまん。邪魔をするつもりはない」
 母猫か、外敵を警戒してこちらに牙をむいてきたので、言葉でなだめながら大きく後ろに退く。
 充分離れてもう大丈夫かというところで息をつき、それからふ、と笑った。
「……一人でないのはいい事だな、风息」
 見上げて呼びかけても、葉擦れの音を返すだけの木は、何も答えない。だが少し救われたような気持ちになって、鳩老は目を細めてため息を漏らした。
 人間の欲は果てしない。
 妖精はいつか駆逐されるかもしれない。
 だから、この場所で、妖精も、精霊も、人間も動物も、植物も、共に暮らすことが出来ればと考えるのは、楽天的に過ぎるかもしれないが――全てを悲観して未来を黒く塗りつぶすこともなかろうよ。