辿るは女神の足跡 – 隠し事

 異変を知ったのは、夕飯での事だった。
「……んぐっ」
 待ちに待った食事の時間。
 ほかほかと湯気をあげるシチューを一口含んだ途端、シャーリィンは違和感に喉を詰まらせてしまった。せき込みそうになって慌てる彼女を見て、向かい側に座ったゼブランが、
「大丈夫かい? 水を持ってこようか」
 床から腰を上げようとする。シャーリィンは手を振ってそれを止め、スープをごくりと飲んだ。ため息をついて、胸をなで下ろす。
「あぁ……もう大丈夫だ、問題ない」
「喉に詰まらせるほど、大きな具を入れた覚えはないんだけどな。それとも、よっぽどおかしい味だった?」
 今日の食事当番たるゼブランが首を傾げる。シャーリィンは咳払いをして、
「味がおかしいというか……ゼブラン、これ味見したのか? 何の味もしないぞ」
 鶏肉と野菜がごろごろ入ったシチューは見た目こそ美味そうなのだが、まるっきり調味料が使われていないらしく、素材の薄い味しか感じられなかったのだ。
 いつものように美味しいに違いないと思いこんでいたから、予想外の味に面食らってしまった。
「え? ……あぁ、本当だ。ごめん、ちょっとぼーっとしてたみたいだ」
 自身も一口飲んで、ばつが悪そうに顔をしかめるゼブラン。
「いや、塩をかければ何とかなるだろう。ちょっと取ってくれ」
 珍しい事もあるものだ、とシャーリィンは首を傾げながら頼む。ゼブランは手元近くに置いていた塩の箱をすぐさま差し出したが、
「ありがと……、?」
 それを受け取る時に触れた手が、思いがけないほど熱い。そのまま引っ込もうとするのをとっさに掴み、
「シャーリィン?」
 突然の事に目を丸くするゼブランをよくよく観察すると、その瞳が赤く充血して潤んでいる。
「ゼブラン、お前……」
 シャーリィンは身を乗り出して、彼の額へ手を押し当てた。案の定、尋常ではない熱が伝わってきたので、
「……熱があるんじゃないか! 風邪引いたのか!?」
 思わず声を高ぶらせてしまう。額を押さえられたゼブランはあぁ、と少し困ったような顔をして身を引き、
「大した事はないよ、こんなのはすぐ治るから」
 軽い口調で言うが、手を振るその動作もやや頼りない。馬鹿、と呻いたシャーリィンは、すぐさま彼の腕を掴んで立ち上がらせ、
「何で早く言わないんだ! 食事なんて作ってる場合じゃないだろう、寝てろ!」
 叱りつけて、アラベルを衝立で区切った寝床へ引っ張っていった。大丈夫だから、と言い張るのを無視してそこに押し込み、
「ちょっと待て、一枚だけじゃ寒いだろう」
 衣装箱を開いて何枚も掛け布を取り出してかぶせていく。次々と積みあがっていく毛布に、ゼブランはうめき声をもらした。
「シャ、シャーリィン、ちょっと、苦しい……」
「我慢しろ、体を冷やしては駄目だ。乾燥も良くないから、水を沸かしたいが……鍋はシチューで使ってるか。ちょっと借りてくる、あと薬もな」
「いや、だからそんなに気にしなくても……」
 制止の声も弱々しい。これは早くしなければと、シャーリィンはすぐさまアラベルを飛び出し、集落へと駆けだしたのだった。

 一人残されたゼブランは力なく手を下ろして、ため息をついた。
(このくらい、慣れているんだけど)
 昨日からどうも体調がおかしいと感じてはいたが、大した事はなかろうとゼブランは何も対処しないでいた。
 放っておけばいずれ熱も下がるだろうし、シャーリィンに心配させるのもどうかと思って、気取られないように注意していたのだが……まさかシチューでばれるとは。
 味見した時はすでに、味覚が麻痺していたのか、味付けし損ねていた事に気づかなかった。
(こういう時は、いつも落ち着かないな……)
 頭が火照るせいか、ぼんやりしながら、ゼブランは思う。
 幼い頃からずっと、病気や怪我をした時、彼は一人でそれに耐えた。
 黒カラスでは弱みを見せれば、それはただちに命取りとなる。野生の獣同様、弱っている獲物を見れば、ここぞとばかりに襲いかかってくる輩がそこかしこにいて、誰も信用出来なかったのである。
 だからゼブランはいつも一人で床につき、傷ついた体に悩まされながらも、刺客が襲っては来ないかと気を張りつめていなければならなかった。
(今はそんな事はないはずなんだが)
 ブライトを乗り越え、黒カラスの追跡もない、デイルズの地での安息。ここには誰もゼブランの命を脅かす者などいない。頭ではそれがわかっているのに、周囲の気配に神経をとがらせて体を緊張させてしまう。
(だるいな……)
 しかし改めて横になると、それまで押さえ込んでいた疲労がどっと押し寄せてきた。これでもかと重ねられた毛布のおかげで、体は汗をかくほどに熱くなっている。ゼブランは鈍重な眠気に捕らわれ、とろとろと瞼を下ろした。程なく、すとんと意識が消え去り、何もかもわからなくなった。

 闇に沈んだ意識が浮上したのは、熱を放つ額に程良い冷たさを感じたからだ。
「ん……」
 その心地よさに軽く呻いたら、
「ゼブラン、目が覚めたか?」
 鈴のような柔らかい声が彼の耳をくすぐる。重い瞼を持ち上げると、心配そうな顔のシャーリィンが上からのぞき込んでいた。
「気分はどうだ?」
「……あぁ……眠ったから、少し、いいよ」
 体は変わらず重かったが、心配をかけるのが忍びなくてそう言う。シャーリィンは彼の額に濡らした布を置いたその手で、首筋に触れ、顔をしかめた。
「熱は高いままだな。メリルから煎じ薬をもらってきたが、飲めそうか?」
「君が、口移しで飲ませてくれるならね」
 お願いだ、僕の為にそんな顔しないで。そう頼むかわりに軽口を叩くと、白いエルフはぱっと頬を赤らめた。それを誤魔化すようにきっと視線を鋭くし、ゼブランの鼻をつまむ。
「んぁっ」
「こんな時にふざけた事を言うんじゃない、馬鹿。いいから黙って飲め」
 開いた口に、鉢から匙ですくい取った薬が流し込まれる。どろりとした、あまり気持ちの良くない食感のそれは、味覚の鈍った舌でもわかるほど苦く、辛い。
「ぐ……う……」
 思わず顔を歪めてしまったが、シャーリィンは手を止めず、鉢の中身が空になるまで、それをゼブランの口に注ぎ続けた。最後のひとすくいを飲み干したのを見届け、よし、と頷く。
「これを飲んでもう一眠りすれば、ぐっと楽になるはずだ。何か欲しいものはあるか? ゼブラン」
 そういって再びのぞき込んでくるシャーリィンは、いつものように完璧に美しい。潤んでぼんやりにじむ視界に映る彼女に見とれ、
「君が欲しいよ、シャーリィン……今日はどうにも……僕が、役立ちそうにないけど……」
 思わずそんな事を囁く。シャーリィンはまたも赤面したが、
「……いいから眠れ。私はずっとそばにいる、どこにもいかないから」
 今度は叱り飛ばす事無く、ゼブランの側に横たわって、ぎゅっと手を握りしめてきた。
「あぁ……うん、それはいいな……」
 寄り添った彼女から漂ってくるかぐわしい香りと温もりに、張りつめた神経がするすると和らいでいく。ゼブランは唇を綻ばせて手を握り返し、言いつけに従って目を閉じた。そしてゆっくり忍び寄ってくる眠りの中、
 ――お休み、ゼブラン。早く良くなりますように。
 優しく語りかけ、額に口づける女神を見たような気がして、こわばった体が柔らかく溶けていくような、心地よい幸福感に満たされたのだった。