かくして、第五次ブライトはここに終息した。
内乱のため統率を欠いたフェレルデンにおいては、ブライトによる損害は大きく、多くのものが失われた。
だが、戦の終わりがアーチデーモンの死によって締めくくられた事で、絶望に瀕した人々は僅かな希望を取り戻し、また新しく立った王にも期待を寄せたものだった。
その新王、マリクの息子アリスターへの評価は当初、まっぷたつに割れた。
平民出で王家の血を引かぬロゲインの統率を嫌ったもの達は諸手をあげて歓迎したが、衰退した国を一刻も早く立ち直らせる為には、政務を何も知らない青年よりも、引き続きアレーナを王に冠するべきだと激するものも少なくなかった。
摂政となったイーモン伯爵の利害関係もこれに絡み、王宮はしばし混乱に陥ったが、それを徐々に落ち着かせていったのは、誰であろうアリスターの努力によるものだった。
確かに彼は王の仕事など一つも知らず、王族としての自覚もあまりない状態で即位する羽目になった。しかし、アリスターはあらゆる出来事に真摯に向き合い、一つ一つ精力的に解決していった。
また、王自ら頻繁に城下に姿を現し、民と同じ食事をとり、同じ酒を飲み、その話によく耳を傾けた。
貧苦に喘ぐ人間だけでなく、虐げられ続けたシティエルフにも分け隔て無く手を差し伸べ、能力あるものは積極的に登用する……そんな王の寛容さを慕い、やがて多くの者が彼の元に集い、国の窮地を救う為、各々が全力を尽くした。
その甲斐もあって、一時は目を覆うほど荒れ果てたフェレルデンは、僅かな期間で急速に復興が進み――そして、ブライトの終結より、二年後。
最後に残ったオスタガー前哨基地の復帰をもって復興が完了した頃、アリスター王は懐かしい友の訪問を受けたのだった。
息をつく間もないほど忙しく国務をこなし、夜も暮れた時分。
ようやく休息の時を得たアリスター王は、自室の隣にあるサロンで部屋着に着替えてくつろいでいた。ゆったりとソファに腰掛けて、不意に訪れた客人に笑いかける。
「相変わらずお前はいきなりやってくるんだな、ゼブラン。たまには正面玄関から入ってこようとは思わないのか?」
そういってワインを差し出すと、大理石の丸テーブルの向こうに座した旧友――ゼブランが、こちらもくつろいで足を組み、グラスで瓶の口を受け止めた。とくとくと注がれるぶどう酒に目を細め、
「僕は仰々しい事が苦手でね。召使いにうやうやしく付いてこられるくらいなら、壁をよじ登って窓から入るほうが好みに合ってるよ」
いつものように嘯いてみせる。「しょうがない奴だな」と苦笑したアリスターは返杯を受けつつ、
「それで? 最近はどんな話を仕入れてきたんだ?」
さりげなく促す。ゼブランは椅子に肘をつき、そうだな、首を傾げた。
「ブライトの後かたづけは大方、落ち着いてきてはいるみたいだね。レッドクリフ伯が兵を巡回させて盗賊連中を厳しく取り締まっているから、街道もだいぶ安全になったし。
サークルはようやく最後の悪鬼を退治して、フェイドの入り口を塞いだらしいから、本格的に復旧するのはこれからだろう。
オーズマーは例によってお家騒動でゴタゴタしてるけど、まぁあれはいつも通りだな。今のところ王の首をすげ替えるような大事にはなっていないよ……」
すらすらと語られる出来事を、アリスターは一つ一つ頷いて胸に刻み込む。
王になってからというもの、アリスターは情報の重要性をひしひしと感じていた。正確な情報を素早く手に入れる事で、危険な状況にも素早く対応出来るし、アリスター自身はあまり好みではないが、情報を操作して有利な立場に立てるようになる。
なまじ解決しなければならない問題が山積している分、慎重に行動しなくてはならないアリスターは、人々からもたらされる情報にいつも耳を傾けていた。
その中でも最も信を置いている情報源が、ゼブランその人だ。
アンティヴァの元黒カラスだったこの男は、ブライトの後も様々な場所に潜り込み、そこで得た情報をアリスターへともたらしている。
元仲間であっても、その報酬は目玉が飛び出るような金額ではあったが、彼ほど確かな情報屋は他にいないため、アリスターは支払を渋るような事はしなかった。
「……なるほど、よく分かった。今の話は今後の参考にさせてもらう。摂政ともよく相談しておかないとな」
事細かな説明を全て聞き終えた後、アリスターはいつものようにずっしりと重たい金袋をテーブルの上に置いた。それを自然な動作でするりと懐にしまい、ゼブランは毎度あり、と微笑んでみせた。
「国王陛下のお力になれたのなら身に余る光栄でございますよ」
「心にも思ってないことをよく言うもんだ。……ところで、シャーリィンはどうしてるんだ?」
ビジネスが一段落したところで、気楽な気分で尋ねてみると、ゼブランはふっと表情を和らげ、優しい笑みを浮かべた。
「あぁ、特に問題なく元気だ。君のおかげで、デイルズの部族でゆっくり体を休められるから、とても感謝してると言っていたよ」
ブライトを終結させた功績に応える形で、アリスターはシャーリィンの要望を聞き入れ、オスタガー南の土地をデイルズエルフに与えた。
各地を放浪していた孤高の種族は、長年の夢だった自分たちの土地を手に入れ、今ではそこにちょっとした街にも匹敵する大規模な集落を形成するようになっていた。
その中でも特に重要な人物として、部族をあげて受け入れられたのは、グレイ・ウォーデンのシャーリィンだ。
言うまでもなく、デイルズエルフの土地を勝ち取ったのは彼女の功績によるものであったし、アーチデーモンを倒し、生きる伝説となったシャーリィンの存在は、時に神にも例えられるほど大きなものとなっている。
とはいえ、シャーリィン自身はそういった大仰な扱いを嫌った。
もとより目立つ事を厭う質であったから、しつこいまでに繰り返される部族長への推薦を振り切り、集落の外れにアラベルを建て、今はゼブランと共に静かな暮らしを営んでいるという。
「近頃は狩りにも行けなくなったから、体がなまって仕方ないとため息をついているよ。目を離すとすぐ何でも自分でやろうとするから、困ったものだ」
やれやれ、とため息をつくゼブランだが、その雰囲気は柔らかく穏やかだ。
二年前、共に旅をしていた頃のゼブランは、お喋りと皮肉な笑みで煙に巻き、気安いようでいてかえって本心が見えないところがあったが、その頃と比べるとずいぶん落ち着いたように見える。
(シャーリィンと一緒にいる事で、ゼブランも変わっていったんだな)
この目で見ていなくとも、二人が仲むつまじく暮らしてきたのが、ゼブランの雰囲気でよく分かる。幸せそうで何よりだと心和む思いで、
「シャーリィンにもいずれ、会いに行きたいな。王宮は思ってたより過ごしやすいが、時々あの旅の日々が懐かしくてたまらなくなる。こんな風に顔を見て、思い出話をしたいものだ」
アリスターはしみじみ言う。すると、ゼブランはニヤリと人の悪い笑みを浮かべ、
「それならたっぷりお土産を持ってきてくれよ、アリスター。お祝いの品はいくらあっても嬉しいものだからね」
その言葉に、アリスターは思わず笑い出してしまった。
「もちろん手ぶらで行くつもりは無いが、相変わらず抜け目ない奴だな、お前は!」
傾いた日が地平線へ沈み、最後の炎で空を真っ赤に染め上げる頃。
「――ただいま、シャーリィン」
デネリムからまっすぐ我が家へ向かったゼブランは、アラベルから少し離れた場所、木陰に置かれた椅子のところで、彼女を見つけて声をかけた。
シャーリィンはうとうと眠りかけていたらしい。ふっと長いまつげをあげてゼブランをぼうっと見上げ、
「あぁ……お帰りなさい、ゼブラン」
ふわりとつぼみが綻ぶような笑みを浮かべる。その柔らかい笑顔は何度見ても、胸をときめかせてやまないものだ。ゼブランは自身も微笑しながら、脇の地面に腰を下ろし、シャーリィンの頬に口づける。
「僕がいない間、何かあったかい? 力仕事をしたり、無理に体を動かしたりはしてないだろうね?」
問われたシャーリィンは軽く頷いて、
「メリルやゲイナが色々と手伝ってくれたから、大丈夫。さすがに私もそろそろ、自分で何とか出来なくなってきたしね」
「当然、君は無理せず、ゆっくり休むべきなんだ。もう君一人の体じゃないんだからね」
そういってゼブランは愛しげにシャーリィンに触れた――ゆったりと身を覆う衣服の上から、ふっくらとした腹を、優しく、慈しむように。
「ただいま、父様が帰ってきたよ。元気にしていたかい、我が子よ」
そう言いながら撫でると、手にドンッ、と衝撃が伝わってきた。途端胸がいっぱいになって、ゼブランはシャーリィンの手を握り、熱っぽく語る。
「すごい、今返事してくれたぞ! ちゃんと僕の声を聞き分けるなんて、この子は間違いなく賢いな、それに元気もいい。きっと将来は君のように、強く美しいエルフになるに違いないよ」
「ゼブラン、少し気が早すぎない? 男か女かも分からないのに」
手を握り返し、シャーリィンは鈴の鳴るようなくすくす笑いを漏らす。その額に自分の額を当てて、ゼブランは甘く囁いた。
「ちっとも早いもんか。こんなに美しい母と、僕のような立派な父を持つ子供なんだから、ただのエルフなわけがない。他に類を見ない、素晴らしい青年なり女性なりに育つはずさ」
「生まれる前からすっかり子煩悩だな、ゼブランは。その調子で、アリスターにあれこれ話してきたわけじゃないだろうな?」
呆れた様子で言われ、もちろん、と頷いてみせる。
「子供が生まれるっていうのがどんなに素晴らしい事か、嫌と言うほど語ってあげたよ。アリスターもそろそろ結婚するらしいから、自分も早く跡継ぎを作らなければと言ってたな」
「結婚? アリスターが?」
その新情報に驚いて、シャーリィンが頭を上げた。
「本当に? 相手は誰なんだ」
「クーズランド家のお嬢様らしい。あの家はブライトのどさくさで途絶えかけたが、家名の重さは変わらないからね。
いわゆる政略結婚だが、あの口振りだと本人も気に入ってるみたいだ。噂では結構なじゃじゃ馬らしいから、尻に敷かれるのが好きなアリスターには合ってるんだろう」
どれほど偉くなろうと、そういうところは変わりないらしい。恐妻家になりそうだと思わず忍び笑いをもらすゼブラン。それに対して、
「そう。……アリスターが」
それまで穏やかに笑っていたシャーリィンが、ふと真顔になった。顔を正面に戻し、遠くを見通す眼差しになったので、ゼブランは眉を上げる。最近、こういう表情をする事が多くなった気がする。
「シャーリィン、どうかしたかい?」
心配になって問いかけると、彼女はすっと目を閉じ、何か考え込む様子を見せた後、
「ゼブラン。あなたに言っておかなければならない話がある」
再び瞳を開き、静かな口調で切り出した。改まった様子にゼブランは何故かひやりとする。その寒気を和らげる為に、握った手の甲を指でさすりながら応える。
「何だい、マイディア」
その愛撫にふと笑みを誘われたシャーリィンは、和やかな眼差しをこちらに向け、
「ゼブラン。私はいずれ、グレイ・ウォーデンに戻り、あなたの元から去ることになるだろう」
きっぱりと、決別の未来を口にした。
「!」
その言葉はまるで大鎚のようにゼブランを横殴りにする。
シャーリィンが居なくなってしまう? 自分を置いて? 恐ろしい、そんな事、考えただけで全身から血の気が引いていく。鋭く息を飲んだ彼は華奢な手を強く握り、
「……どうしてだ、シャーリィン。僕はどこまでも一緒だと言ったじゃないか。君がグレイ・ウォーデンとして戦うというのなら、僕も共に行く。漆黒の都に至るまで、決して離れはしないよ」
切々と訴えたが、シャーリィンの眼差しは揺るがない。彼女は静かにかぶりを振った。
「ゼブラン、それは駄目だ。私たちが危険な旅に出て、もし二人とも死んでしまったら、この子はどうなると思う? 親のいない子として、一人で生きていかなければならなくなってしまう。私たちがそうだったように」
そっと腹部に手を当てるその仕草に、ゼブランはぐっと詰まってしまう。
「もちろん部族の皆や、助けてくれる者もいるだろうから、全くの孤独に陥る事はないだろうけれど……家族の居ない寂しさを埋め合わせするのは、難しい。私はそんな思いをこの子にさせたくない」
「それならっ……」
ゼブランは前に回り込み、肘掛けに両手をついてシャーリィンにかがみ込んだ。
「それなら君もここで一緒に暮らせばいい。僕はこの子に母親を失った悲しみも、経験させたくない。どうしてわざわざ君がグレイ・ウォーデンに戻って、家族を捨てる必要があるんだ?」
「…………」
ゼブランを見上げるエメラルドの瞳はきらきら輝いて、まさしく宝石のようだ。いついかなる時もたぐいまれなる美しさを体現するシャーリィンは、淡く微笑みながらゼブランの頬に触れる。
「――ゼブラン、知ってるはずだ。グレイ・ウォーデンはいずれ、血の穢れに心身を冒され、しまいにはグールと化してしまう」
「っ……」
シャーリィンの手に頬を覆われ、暖かい温もりに包まれているのに、氷を抱いたような寒気が駆け抜ける。
「そうなる前にグレイ・ウォーデンは地底回廊に下り、最後の戦いに赴く。それは誰かを伴っていくものではない……誰であろうと。例え、大切な家族であっても」
「シャーリィン……」
嫌だ。聞きたくない。頑是無い子供のように胸中で叫び、熱いものが喉にこみ上げてくる。ゼブランは顔を歪め、シャーリィンの肩に力なく頭を垂れた。
「……だから、僕を、子供ごと置いていくと……君はそういうのか、シャーリィン」
「あぁ。……そうだ、ゼブラン」
シャーリィンはゼブランの頭を撫でて、肯定する。
その迷いのない言葉には、どんな説得も拒む強さがあった。ゼブランが焦がれ、尊敬し続けてきた、揺るぎない強さであり――今はそれが、どうしようもなく厭わしい。
「……君は残酷な女だ、シャーリィン。そんな事を告げられて、僕が平気でいられると思うのか?」
声を震わせて言うと、シャーリィンは一瞬手の動きを止め、それから苦く笑った。
「思わない。だけどあらかじめ言っておかなければ、後先考えずについてきてしまいそうだから。
……ゼブラン。私はあの旅の始まりの時点で、すでに一度命を落としかけていた。そしてアーチデーモンとの戦いでも、死にかけた。
私が今ここに生きながらえているのは、奇跡のようなものだ。そして、その奇跡の代償が人より短い天命だと言うのなら、それを受け入れるしかない」
シャーリィンはゼブランの耳元に唇を寄せ、優しく囁きかける。
「でも、私は悔いはしない。あの旅は忘れがたい大切な思い出だし、そのおかげであなたに出会えた。心を通わせて、共に寄り添っていられる上に、こうして新しい命まで授かった」
「……シャーリィン……」
身を起こして顔をのぞき込むと、シャーリィンはその瞳を潤ませて彼を見つめていた。
「こんなに素晴らしい人生を送る事が出来て、私は幸せだ。あなたを置いていくのは心苦しいけれど……でも、ゼブラン。あなたはこの子と一緒に、これから先も生きていって欲しい」
命が息づく暖かな場所に、どちらともなく繋いだ手を重ねて当てる。その温もりに涙が出そうになって堪えるゼブランに、シャーリィンは泣き笑いを見せた。すっと顔を近づけて、彼の唇に柔らかく口づけ、
「――愛している、ゼブ。あなたも、この子も、いつまでも、何よりも愛している」
甘く、切なく、思いのこもった愛の言葉を紡ぐ。
(……あぁ……)
一片の迷いもなく、惜しみなく注がれる愛情。それをひしひしと感じながら、ゼブランは涙を一筋頬に流し、
「……僕もだよ、シャール。君も、君と僕の子も、何にも代え難いほど愛しい。愛しくて辛くなるほどに、愛しているよ……」
シャーリィンに応え、口づけの雨を降らせる。
いずれ訪れる別れを思って、身が裂かれるような思いで――そして、自身でも持て余すほどに溢れ出す想いに目眩を覚えながら――
――やがて、月日は流れる。
人々の記憶に生々しく傷跡を刻んだブライトは、やがて少しずつ、その影を薄くしていった。
戦の跡が消え去るほどにその恐ろしい過去は時の彼方へ押し込められ、遠い昔の英雄譚として子供への寝物語に語られるようになっていく。
そうして、戦いの日々が忘れ去られていった頃。
あるグレイ・ウォーデンが、オーズマーを訪れた。
それは肌も髪も純白の、目がくらむほどに美しいデイルズエルフの女だった。
ほっそりと華奢な肢体はおよそ戦いとは縁遠いようでいて、しかし背に負った二刀と弓は、相当に使い込まれていて、このエルフが歴戦の勇者である事を物語っていた。
「あんた、一人でダークスポーンの巣に飛び込むつもりか? 仲間はいないのか」
その神々しさに気圧されながら、地下への入り口を守るドワーフが尋ねる。と、女はほんの僅かに笑って、
「あぁ。大切なものは心と一緒に置いてきた」
それだけ言って、マントを翻しながら地底回廊へと下りていき……そして、二度と戻っては来なかった。
女神の降臨を思わせるその訪問はしばし、ドワーフ達の間で語りぐさになった。その美しさを褒め称える者達の中には、オーズマーの門前で彼女を見送ったエルフの親子を見かけた者もいたが――
――いずれもやがて、歴史の中に埋もれ消えていく、ささやかな出来事の一つである。