辿るは女神の足跡20

 私は、きっと。
 グレイ・ウォーデンを一生許さないだろう。

 フェレルデンの運命を決める諸侯会議。
 それに臨む前から、アレーナは覚悟していた。その場で、父と娘、親子は完全に断絶状態になるだろうと。
 そもそも、互いの信頼関係はとうに断たれていたのだと、ハウに捕らわれて監禁された時に悟ってはいた。
 父があの卑劣な男に娘の殺害を依頼したとは考えたくはないが、その野望の妨げになるのなら、閉じこめておくのもやむなし、と判断してもおかしくないくらいには、彼女をないがしろにしていた。
(父上は間違っている。その罪は暴かれなければならない)
 ケイランを謀殺した事、王に成り代わってフェレルデンを支配しようと画策していた事――その証拠は至る所にあり、諸侯達もまた疑いと不満の声を上げ始めていた。
 長年国を治めてきたアレーナには、父を中心として人々が対立し、結束がほどけていく事が耐えられなかった。過ちはただされなければならない、それならば父は罰を受けなければと、覚悟していたのだ。

「父上……!」
 しかし実際目の前で、一騎打ちに敗れて倒れた父の姿を見た時、アレーナは自制を忘れた。思わず駆け寄ってその体にすがりつくが、濃い血の臭いが沸き立ち、虚ろに空中を眺めるその眼差しはすでに光を失っている。
「あぁ……父上……」
 たとえこれが正しい裁きなのだとしても、身を引き裂くような悲しみはこらえられない。アレーナは涙を浮かべて父の胸に頭を垂れた。速やかにぬくもりが失われていく手を握りしめた時、
「……済まない、アレーナ」
 沈痛な囁き声が耳に届く。顔をあげると、涙でぼやける視界に、血で濡れた剣を持つアリスターが映る。
 父の命を奪ったマリク王の息子は、しかしその勝利に沸き立つよりも、目を細めて悲しそうな表情でこちらを見下ろしていた。こんな結果でなければよかったのに、そう言いたげな様子に、
(なんて偽善者なの。結局は自分の為にお父様を殺したのでしょうに)
 アレーナは猛烈な怒りを覚え、唇を噛む。しかし彼女はすぐに気持ちを切り替えた。
 父を悼んで泣く事は後でも出来る。今は自身のなすべき事をしなければ。
「……ロゲイン・マク・ティアの御体を安置なさい。最後は反逆者であっても、リバー・デインの英雄であった過去は変わりないのですから」
 こぼれかけた涙をさっと拭い、アレーナは衛兵にきびきび命じた。
 血も止まった亡骸を衛兵が二人がかりで慎重に運び出していくのを最後まで見ず、アレーナは立ち上がって、
「さぁ、話し合いを続けましょう。私たちは目前に迫る危機について、早急に対応を考えなければならないのですから」
 固唾をのんで見守る人々に手を広げ、堂々と言い放った。
 するとイーモン伯爵がすっと進み出て、剣を収めたアリスターの横に立ち、宣言する。
「ではマリク王の子、アリスターがここに父の跡を継ぎ、王位を継承する事に異議があるものは?」
 決闘の結末に息を潜めていた貴族たちがざわめく。
 反逆者を葬った王の異母弟の存在は世襲制を受け入れてきた人々にとって、それはごく自然に聞こえただろう。ロゲインの血がついた鎧を身に纏うアリスターに視線が集まり、誰もが異議なしと沈黙を守る中、
「お待ちなさい、イーモン伯爵。私はアリスターが王になる事を認めはしません」
 アレーナがきっと鋭い視線を向けた。それを受けた伯爵は動じず、冷静に答える。
「アリスターが正当な王位継承者である事実は否定しようがなかろう、アレーナ」
「血筋だけで国が治まるなどと、まさか本気で言っているとは思えませんね、伯爵。私の見たところ、アリスターは剣の使い方は知っていますが、政道に通じているとはとても思えません」
 それについては自覚があるのだろう、アリスターの顔に不安の影が差す。しかし彼が口を挟む前に、イーモンが反論する。
「だが、この場にいる者達はアリスターを次の王として認めている。諸侯会議はあなたを否決したのだ、アレーナ。国王たる彼に忠誠を誓わないと言うのなら、相応の対処をしなければならないな」
「五年もの間、フェレルデンを実質治めてきた私を、排除しようというのですか? この緊急事態に、目の見えぬ者を旗頭に据えようとするなんて、ますます国を窮地に追いつめるだけでは?」
 そこでアレーナは周囲の者達をぐるりと見渡した。
 各地から召喚された貴族たちは、期待と不安が入り交じった複雑な表情で彼女の視線を受け止め、あるいはそらす。その誰一人、アレーナを擁護しようと口を開こうとはしなかった。
(なぜみすみす、こんなならず者に国を投げ与えようというの)
 再び怒りを覚え、アレーナは歯を食いしばった。
 そんな事は許さない。フェレルデンは彼女が守ってきたのだ。戦いを好み、内政を放り出してたびたび姿を消す夫に代わり、文字通り身を粉にして、アレーナは国の様々な問題に取り組んできた。
 それを突然取り上げられ、血筋が正しいからという理由だけで自身より劣っている者に与えられるなど、認められない。
「今一度考えてごらんなさい。アリスターが王になったとして、あなた方は彼に敬意を抱く事が出来るのですか? 彼に従い、命をかけて共に戦う事が出来るのですか? この難局を乗り越え、平和で美しいフェレルデンを取り戻せると、本気で信じているのですか!」
「そこまでだ、アレーナ。君はこの件の調停に向いていない」
 熱を込めた呼びかけは、しかしイーモンによって遮られる。伯爵はすっと手を指しのばし、
「シャーリィン、グレイ・ウォーデンの君が、新王に相応しいものを選んでくれないか」
 背後に控えていた旅の一行へ声をかけた。
 それに答えて前に進み出たのは、薄茶色のマントにフードを深くかぶった人物。
 音のない静かな足取りでアリスター達とアレーナの間に立つと、ふわりとフードを下ろし、その面貌を明らかにする。それを目にした人々は、皆一様におお、と息を飲んだ。
 暗く淀んだ部屋の中に、光の化身が現れたような錯覚。
 髪も肌も、透けるように白いその女は、女神の光臨を思わせる美貌の持ち主だった。細部まで完璧に整った顔立ちは現のものとは思えず、魂を奪われそうなほど繊細で麗しい。夢を見るように輝くエメラルドの明眸がこちらを見つめた時、アレーナは自身もまた彼女に見とれていた事に気が付き、ひそかにほぞを噛んだ。
(しまった……これでは思うつぼだわ)
 シャーリィンは今、その姿を見せただけで、この場の空気を支配してしまった。これではアレーナがいくら正当性を訴えたところで、皆の耳に届きはしないだろう。
(卑怯な、なんて卑怯な輩!)
 ふつふつと怒りが腹の底からわき起こる。こんな手を使ってまで彼女から王位を奪おうとする連中が憎くてたまらない。アレーナがきっと睨みつけた時、純白のエルフは口を開き、
「私、グレイ・ウォーデンのシャーリィンは、新しい王にアリスターを推薦する」
 高らかに告げた。妙なる楽の音のごとく美声が議場に響きわたり、しん、と静寂が落ちる。誰もが言葉もなくその宣言を受け入れようとしているのを恐れ、アレーナは声を上げた。
「アリスターが王に相応しいと、本気で考えているのですか、グレイ・ウォーデン! 彼がまつりごとの何を知っていると!?」
「確かに、アリスターには王の経験はない」
 シャーリィンは怒りに燃えるアレーナの眼差しを受けてもなお揺るがず、穏やかに、しかし迷い無く答える。
「だが、彼は独断で全てを決めようとはしない。政に関わる者達の意見に耳を傾け、よく吟味して決断を下すだろう。彼は弱きを助け、決して見捨てず導いていく事だろう。
 アリスターは王として求められる資質――人を愛し、守る事を知っている。私にはそれで十分、彼には資格があると考えている、アレーナ」
「政治とは常に利害が絡み、意見の対立をはらむもの。そのどちらにも良い顔をして、事が治まると考えているのなら浅はかです。アリスターが心優しい青年だというのならなおさら、彼を懐柔し、傀儡として操る者が出てきたらどうするのです!」
「そんな事にならない為に、イーモン伯爵が彼を支援するだろう。伯爵は新王に足りない要素を十分補うはずだ」
 冷静な返答に、アレーナはとうとう逆上した。やはりそうだ、この者達は玉座をほしいままにしようとしている。カッとなって、アレーナはシャーリィンに指を突きつけて叫んだ。
「そうしてその後ろにはグレイ・ウォーデンがいるというわけね! 最初からそれが狙いだったのでしょう、それについては父上の読み通りだったのだわ!!」
「…………」
 そこで初めてシャーリィンは表情を変えた。
 すぅ、と目を細め、その面差しに冷ややかな怒りを閃かせると、周囲の温度が下がったような錯覚さえ覚える。思わずぞくっと背筋を震わせるアレーナに、シャーリィンは何のために? と静かに問いかけてきた。
「グレイ・ウォーデンは権力を得て好き放題するために、東奔西走しているわけではない」
 すっと首もとのひもをほどき、シャーリィンはマントを脱いだ。
 エルフの鎧を身につけたほっそりと華奢な体が露わになり、マントを仲間に渡した手が、背中に負った二刀のうち長剣をしゃらん、と抜き放つ。場に緊張が走る中、シャーリィンはそれを床に突き立てた。キィンと刃の鳴る音と共に、辺りを払う威厳を持って喝破する。
「その役目は、ブライトを打ち破る事にある。フェレルデンの敵はここにいる私たちではない、アレーナ。我々の敵はアーチデーモンだ。いつまでも言い争っていられるほど時間がないのは、あなたも承知しているはずだ!」
「っ!」
 強くたたきつけるようなその声に押され、アレーナがつい一歩後ろに退いた時。突然入り口の扉が開かれ、
「緊急事態にて失礼仕りまする!」
 一人の兵が転がり込むようにして中に駆け込んできた。何事かと皆が振り返ると、レッドクリフの紋章を掲げた鎧の男は膝をつき、
「オスタガーよりダークスポーンの軍勢がレッドクリフに迫っております! 伯爵様、どうぞ速やかなご帰還と軍の指揮を!!」
 割れた大音声で叫んだ。危急の事態に青ざめたその表情を見て取ったのか、不意にアリスターが伯爵の前に出、つかつかとアレーナへ歩み寄ってくると、
「アレーナ、俺はこの決断を受け入れる。もし俺がブライトに破れたら、お前が王位につけばいい。この場は引いてくれ」
 きっぱり言い放つ。それまでの不安な様子など嘘のように凛々しい表情をしているのは、仲間からの信任を得た為だろうか。アレーナは燃えさかる怒りに拳を握りしめ、
「……これだけの議論をした上で、まだ私に王位を渡すチャンスを与えるというの?」
 声が震えぬよう腹に力をこめて言うと、アリスターは強い口調で答えた。
「俺たちがブライトに負ければな。その可能性がある間は、お前に生きていてもらわなきゃ困る。誰かが真剣にブライトに対処しなければ、フェレルデンに未来はないのだから」
「…………」
 言い返したい。唾を吐きかけてやりたい。業火のように燃え上がる怒りに苛まれながら、アレーナはうなだれた。もはや勝負が決してしまった事を理解できないほど、愚かではなかった。
 これでおしまいだ。これまでの人生全てを献身的に捧げてきたというのに、彼女は今、夫を失い、父を失い、その拠り所さえ奪われてしまった。
(私は、グレイ・ウォーデンを許さない)
 彼らの言葉に正当性があるのは理解していた。これ以上抵抗したところで、いたずらに破滅へ向かっていくだけなのは分かっていた。
 それでもアレーナは激怒し、熱い涙がこみ上げてくるのを止められなかった。

 ――私はグレイ・ウォーデンを一生、許さないだろう。命尽き果てたその先まで、永遠に……。