辿るは女神の足跡4

 心臓が早鐘のように鼓動を打っている。鎧の上から押さえて深呼吸するも、容易に治まりそうにない。
(ああ、参ったな……あれはまずかった)
 キャンプへ戻る道を早足に辿っていたゼブランは、湖からある程度離れたところで歩を止めた。
 もう一度大きく息を吐き出し、何とか平静を取り戻そうと努める。しかし目を閉じれば、つい先ほど見た光景――シャーリィンの水浴び姿が鮮明に思い出されて、少しも落ち着けなかった。
(あれは実に、言葉に出来ないほど美しかった)
 忘れようとしても無理な事は分かっている。仕方なく忘却を諦めて、ゼブランはしみじみ思い返す事にした。
 一糸纏わぬ姿で、透き通った清浄な湖に佇むシャーリィンは、さながら湖の精のごとくだった。
 完璧に整った艶めかしい曲線の肢体は、一幅の絵画を思わせる美麗さ。白い肌が水滴を纏って常にもまして輝き、彼女自身が光を放っているようだった。
 空を彷徨うエメラルドの眼差しは夢見がちに潤み、月を見上げるその横顔は、触れれば壊れてしまいそうなほど儚い。もしやそのまま、ふ、とかき消えてしまうのでは、と危惧するほどに。
(あまりにも綺麗だったから、つい、声をかけそびれてしまった)
 シャーリィンに言ったように、ゼブランは初めから好き心を持って覗きにいったわけではない。
 いや、全くなかったかといえば、それは嘘だが……旅の一行に加わってからというもの、ゼブランはレリアナと共に、こっそりシャーリィンの護衛をしているのだ。
 皆を率いるリーダーでありながら、シャーリィンは単独行動を好み、馴染もうとしない。
 時を重ねるごとにその態度も、少しずつ軟化してきているのだが、今回のようにダークスポーンと戦闘になった時、彼女は全てを拒絶して一人になりたがった。
 公然と嫌悪の情を示す人間に対する時よりもなお激しく、切り刻む勢いでダークスポーンを殺すのは、何か彼女なりの理由があるのだろう。
 そこは皆と同様にゼブランも早々に理解したが、いくら彼女の腕が立つといっても、一人きりでは危ない。
 しかし、すぐそばにいてもシャーリィンに追い払われてしまうので、気配を断てるローグの二人が周囲の警戒を行っているのだった。
(レリアナが手を離せないから僕が来たが、全く、失敗だった)
 本来なら服だけ置いて、後は影に潜んでいればよかったというのに。
 好奇心にあらがえず、少しだけと目を向けた湖から視線をはずせなくなり、挙げ句、馬鹿みたいにふらふらと引き寄せられて姿を晒してしまった。
(ああしかし、シャーリィンのあんな顔が見られたのは、思いがけない収穫だったかもな)
 普段はほとんど表情を変えないシャーリィンが、白い頬に血の気を上らせ、慌てふためいて体を隠そうとしていたのは見物だった――何よりも、可愛らしかった。
 しかし。それを好ましいと思えば思うほど、ゼブランは自虐的に笑って首を振った。
(それで、僕はどうするつもりなんだ? 手練手管で彼女を口説いて、首尾良くベッドまで誘うのか?)
 常ならば自問などせず、とっくにそうしているだろう。
 今でもゼブランは彼女への好意を隠す事無く、いつも戯れ言を投げかけている。
 だがそれはあくまでもじゃれかかっているだけで、ゲームのように、掛け合いを楽しんでいるだけだった。
 けれど、もし。先ほど、美しい裸身を晒すシャーリィンを前にした時のように荒ぶる欲望を、むき出しにして迫ったら、一体どうなるか。
(きっと彼女は、本気で拒むだろうな)
 湖の方へ振り返り、シャーリィンの気配を感じ取ろうと目を細めながら、確信する。
 彼女は自分とは違う。
 世俗にまみれ、堕落に身を染めたシティエルフと、種族の誇りを今なお抱き、高潔にあり続けるデイルズエルフとでは、わかりあえないだろう――そう、シャーリィンにはきっと理解できまい。先のことなど考えず、ひとときの情事に溺れる愉しさなど、とても。
(それを一から教えてやりたい気もするが……その前に射殺いころされるのがオチかな)
 激怒したシャーリィンに殺される場面が容易に思い描けて、ゼブランはつい、くっくっと笑ってしまった。
 そのときもきっと、彼女は燃えるように美しく、神々しい事だろう。その手にかかって死ぬというのも、悪くない。
(だが、ひとまずブライトをやり過ごすまで、彼女の為に戦うと誓ったからな。せいぜい指をくわえて我慢するさ)
 燃え上がる恋心など、どうせいずれ火種が尽きて消えてしまう。下手に手を出して関係を壊すくらいなら、今のようにからかって遊ぶくらいがちょうどいいだろう。
「さてゼブラン、ビジネスライクにならなきゃな」
 ひとまずは、シャーリィンがキャンプに戻るまで、務めは果たさなければならない。ゼブランは道をはずれて気配を消すと、いつものように危険な存在がないかを探索し始めたのだった。