寒椿

 夜。自宅に帰った雪音は、庭に面した居室で腰を落ち着けた。手には、滅多に抜くことの無い斬魄刀が握られている。
「はぁ。今日は疲れたな……」
 思わず独り言を言いながら、縁側に座る。
 疲れているのは、仕事が忙しかったからではない。
 むしろ珍しく緩やかな日で、花太郎とのんびりお茶をしていたくらいで、非常に落ち着いた時間を過ごしていた。
 それなのにぐったり体が重いのは、やはりあの追いかけっこのせいだろう。
(まさか、追っかけてくるとは思わないもんなぁ……)
 雪音はあの日以来、一角を避け続けている。
 彼が四番隊に来る気配がある時は必ず他の場所へ行くか、隊員にきつく口止めをして、隊舎内に隠れたりして、かなりあからさまに避けている。一角も当然、良い気分はしていないだろう。
 今日も廊下で声をかけられて、とっさに逃げたのは悪かったと思う。
 だが、そこで諦めてくれるならともかく、鬼気迫る雰囲気で追いかけてこられると、はっきり言って怖い。
 何しろ相手は戦闘部隊・十一番隊の第三席だ。身体能力は雪音のそれを遥かに凌駕している。
 その一角に殺気だって迫ってこられれば、何としても逃げたいと思ってしまったのも、仕方ないだろう。
「…………」
 雪音は座布団の上に正座をした。手中で鞘を払い、斬魄刀を眼前に掲げる。
 久方ぶりに抜いた刀は露を帯びて、まっすぐな刀身が月の光に白々と輝いていた。我ながら綺麗な刀だと思い、そう思うからこそ、申し訳なさに胸が詰まる。
(ごめんね。いつも、使ってあげられなくて)
 心中でそっと謝る。と、答えるように刃が僅かに振動した後、雪音の正面に白い雌獅子が姿を現した。長い尾を足元に巻いて地面に端座し、紅のつぶらな瞳でじっと見つめてくる。
「寒椿」
 名を呼ぶと、獅子は軽く尾を振った。そして、
『このまま逃げ続けて良いのか、雪音』
 これまで話を続けていたかのように、ごく自然な調子で語りかけてくる。
「う、ん」
 雪音は視線を落とした。良いとは思っていなかった。思っていなかったが、
「……だって、怖いんだもの」
 寒椿の、静謐で確かな存在を感じながら、小さく呟いた。
『男として恐怖を覚えたからか』
 その問いに、首を振る。
「違う。ううん、それもある。だけど、それだけじゃないの」
 これまで一角を男として見ていなかったので、あの時は本当に驚いたし、本気で怖いとも思った。
 けれど、雪音が彼から逃げてしまうのは、それ故ではない。
『力が、怖いか』
「……うん」
 小さく震えて、目を閉じた。
 そう。
 襲われたあの時に初めて知った、一角の霊圧の強大さが、恐ろしい。

 ――霊力の強さは、すなわち戦闘力の高さを意味する。
 護廷十三隊最強の十一番隊で上位に位置する一角が、それに相応しい高い霊圧を備えているのは当然の事だ。
 だが雪音は、それを知ってはいても、理解していなかった。
 自分の霊圧を極端に制限し、霊圧知覚も鈍っている雪音には、どれだけ側にいても、一角の霊圧を感じ取る事が出来なかった。
 だからこれまで何の心配もなく、安心して彼と友達付き合いをしてきたのだ。
『安心。油断、だな』
 寒椿がこちらの思いを読み取って、否定してくる。雪音は情けない気持ちで、力なく頷いた。
「そうね。油断しすぎだった」
 霊圧を制限する縛道は、雪音が自分でかけている。となれば、術の硬軟は自分の精神力に依存する事になる。
 普段の生活を送っているときは、それでいいのだ。
 多少気を緩めたところで、縛道を揺るがすような霊圧に触れる事などないから、問題はない。
 けれど一角の霊圧は、普通のそれではなかった。
 それはただ単純に霊圧が高い、というだけではない。
 戦闘を好む故か、生来のものかは分からないが、一角のそれは、触れるものを全て食らい尽くそうとするかのような、とても攻撃的なものだった。
 雪音を押し倒したあの時、一角も気が高ぶっていたのか、妙に殺気だっていた。
 また、酒を飲んで油断していた雪音も、自然、縛道を緩めてしまっていた。
 それゆえに、常より鋭く発した一角の霊圧が雪音の縛道にひびをいれ、その封印を解きかけた。
 遠い昔、まだ幼かった雪音が『世界に襲われ』、その恐怖故に命を落としかけた、あの時の記憶を、まざまざとよみがえらせた。
「もしまた一角に近づいたら。もしまた、あんなことが起きたら。今度は、縛道が壊れてしまうかもしれない。そうしたら、あたしは……」
 きっと、ここには居られなくなる。
 言葉を飲み込み、雪音は俯いた。その事を思うと、背筋に冷たいものが走る。
 数々の苦労と人々への迷惑を積み上げて、やっと手に入れた、自分の居場所。
 悩む事もあれこれあるけれど、自分が自分として存在していられる今。
 失いたくはない。手放したくない。切にそう願っているから、それを壊しかねない一角の存在が、恐ろしい。
『だが、このままで良いのか』
 寒椿が再度、同じ質問を口にした。赤い瞳がこちらの、困惑した表情を映し出す。雪音は逃げるようにその視線を避けた。
「良くない。一角は、良い奴で。……友達、だもの」
 一角のそばは、居心地が良かった。
 あんな風に余計な気遣いなく、言いたい事を言い合える関係は、他に無かった。
 ああいう事になった以上、一角がこちらをどう思っているか、もう分からない。だが少なくとも雪音にとって、一角は大事な、大切な友人だ。
 失いたくはない。手放したくない。彼のそばにいる事が、自分の中に恐怖を宿らせるとしても。
『なれば、選ぶが良い』
 寒椿は静かに言った。
『己を選ぶか、かの男を選ぶか。何を選ぶにせよ、後はぬしの心の問題だ』
「心の問題?」
『左様。心が揺らげば枷は緩み、奔流となって溢れ出す。だが心が堅固なれば、主は主のまま生くるも出来る』
 寒椿の視線は揺るがない。まっすぐな目は、何もかもを見通すように深遠で、穏やかだ。
「寒椿」
 名を呼ぶと、獅子は獣の顔を和らげて笑った。
 立ち上がって雪音の前に頭を垂れ、
『信ずる事だ。主は主が思うているほど、柔弱ではない。儂の主であるが故に』
 そのままふ、とかき消えた。後には、掌中で凛とした輝きを放つ斬魄刀のみが残される。
「寒椿……」
 その美しい刀身を見つめて、く、と唇をかみしめた。
 寒椿の言葉は、泣きたくなるほど優しく体に染みいったが、胸中にはまだ不安が渦巻いて、苦しかった。