亀裂

 詰まらない書類仕事に忙殺され、ようやく執務室から開放された一角は、げんなりため息をつきながら家に向かっていた。
 十一番隊の事務を取りまとめて、というより全部押し付けてる下っ端が休んだせいで、一角や隊長まで、慣れない仕事をやる羽目になった(とはいえ隊長は途中でどっかいってしまったが)。
 普段さぼってるからさ、と鼻で笑う弓親を巻き込んで、終わったのが丑の刻も回ってからだから、とうぜん疲れも溜まる。
 こんな日はゆっくり一杯ひっかけて寝よう、と顔を上げた一角はそこで驚いた。
 垣根越しに見える部屋に、明かりが灯っているのだ。
(弓親……なわけねぇか)
 一角の部屋に時々無断で入る弓親は、今日は自室に戻ったはずだ。
 他にあの家に入り込みそうな奴、と考えを巡らせてみるが、思い当たらない。まさか一角に不意打ち食らわそうという奴が、行灯をつけるわけもなし。
 考えても分からなかったので、一角は庭に入る木戸を開けた。
 しゅ、と足を滑らせて忍び寄り、中の霊圧を探る。
 ……ほとんど感じない。
 ちらりちらりと障子に人影が映るので、中に誰かいるのは確かだが、霊圧が驚くほど低い。これはよほど弱いか、あるいは故意に霊圧を抑えて潜んでるかのどちらかだろう。
 なんにしても、勝手に人の家に入るとはいい度胸だ。少し痛い目にあわせてやる。一角は斬魄刀の鯉口を切ると、一息で障子を開いた。
「てめぇ、俺の家で……何、を……」
「あー。おかへりー」
 怒号にも似た誰何すいかに、気の抜けた声が返ってくる。ひく、と顔がひきつった。
 一角の部屋の中で、飯の膳やらつまみやらを広げ、酒瓶を振ってみせたのは、
「ゆ、雪音!?」
 の馬鹿だった……。

「……ったく、お前は勝手に何してんだよ」
 ひとまず腰を落ち着けた一角は、雪音に問いただした。
 彼女と飲み歩く事はよくあるが、一角の家まで入ったことはこれまで一度も無かった。
 この家は、一角が普段の喧噪から離れてのんびりするために買ったものなので、弓親以外はほとんど誘った事がない。
 それが何で、我が家のごとく寛いでるんだか、文句の一つもつけたくなって当然だろう。
 対して雪音は、ずいぶん飲んでいるらしい、ごろごろ転がる酒瓶の中で、だってー、とへらへら笑った。
「あのねー、雪原ゆきばらをねー、風弦洞のおじさんがかくやすで売ってくれたのー。美味しいからー、一角と飲もうと思ったら、仕事で忙しそうだったからー、邪魔しちゃ悪いと思ってー。
 そしたら弓親が一角の家、教えてくれたからー、待ってよーと思ってー。あたし明日お休みだしー」
 弓親、殺す。何勝手に俺の家バラシてんだ、あの野郎。
「そーかよ……」
 仕事とはまた違う疲労を感じてため息をつく一角に、雪音はぐい飲みを持たせて、瓶の口を開けた。
「ほらほらー、早く飲もうよー。一角が帰るまでーめちゃくちゃ待ったんだからー、待ちくたびれたー!」
「知るかよ、そんなの。お前が勝手に待ってたんだろうが。あーくそっ、だいたい何でこんなに散らかしてんだっ、酒臭ぇし!」
 とくべつ綺麗好きというわけではないが、そこいらに酒瓶やら、酒のつまみやら散らばってるのは気になる。
 というか、一角があくせく働いてる間、こいつが自分の部屋で勝手に盛り上がってたのが、心底むかつく。
「まーまー、気にしない気にしない。後で片付けるよー」
 注ぎ終わって瓶を抱えた雪音を、一角は睨みつける。
「お前、出入り禁止。もう絶対来んな」
 我ながら険悪な表情をしてたと思うが、雪音は、
「えー、やだー、つまんなーい。そんなことより一角、あたしにもちょーだいー」
 ぐい、と瓶を押し付けて、得意げに盃を差し出して、ほらほら、と催促する。
「そんなことって何だよこの酔っ払い、もう十分べろべろじゃねぇか……」
 ぶつぶつ言いながら、一角は嫌々、雪音の盃に酒を注いだ。
 透明な酒が、さらさら音を立てて注がれていく。
 その様を嬉しそうに見つめる雪音は、今気づいたが、浴衣姿だった。
(こいつ、仕事終わってから、いっぺん部屋に戻って着替えてきやがったな。寛ぐ気満々かよ)
 大体、雪音は寛ぎすぎだ。帯が緩んでんのか、ふとした拍子に胸元が動いて、こっちが思わずびくっとするほど襟ぐりが深くなる。
 下手をすれば、胸のふくらみさえ見えそうな……
(いや、いやいや、それはやべぇだろ、また妙な気になっちまう)
「いただきまーす」
 顔が熱くなったのに慌てて、目をそらした一角の様子なんざ全く気がつかず、雪音はうきうきでぐい、と盃をあおった。
 喉を鳴らして飲み干した後、満足した様子で、うっとりため息をつく。
「んー、幸せ……やっぱあれだね、あたしと一緒で、名前に雪がつくものは良いねー。さいこーだーぁ……」
「あほか。雪の字がついても、お前は全然さいこーじゃねぇよ」
 強いて雪音を視界から閉め出して、立てひざで雪原を飲む。
 自分にはちょっと上品すぎる味だが、良い酒だとは思う。が、普段なら舌鼓を打って飲むそれが、何でか今日は味がしない。
(何だ、味もわかんねぇほど疲れてんのか、俺は)
 雪音から瓶を奪い、盃へ注ごうとして面倒になった。一升瓶に口をつけて一気に煽る。ようやくじんわり、と雪原の味が口になじんだ。美味い。
「あー! 一角、飲みすぎー!」
 雪音が声高に叫んで、一角の手から瓶をさらった。半分ほどに減った中身を見て、いやー! と悲鳴をあげる。
「もーしんじらんなーい! そこいらの安酒じゃあるまいし、あんな飲み方するなー! 勿体無いー!」
「うるっせぇな。文句あんなら帰れ、馬鹿」
「やだ」
「あ?」
「一角嫌いだから帰んない。言う事きかなーい」
「あぁ?」
 ガキかお前は。なに天邪鬼してんだよ。しかも意味わかんねぇ、嫌いならなおさら帰れっての。
 雪音は瓶を抱えたまま、逃げるように後ろへ下がる。酔ってるせいか動きが乱雑で、ずり、と浴衣が動いた。裾がめくれて、ふくらはぎが外に出る。
(うっ)
 途端、どっ、と鼓動が鳴る。
 不意打ちで、しかも素足なんて普段見る機会が無いから、思わず息を飲んだ。
 焦点がぶれた、ぼんやりした目。のぼせた顔。袖から出た肘。緩んだ胸元から覗く鎖骨。意外なほど白くて細い足。急に雪音の色んなところが、はっきり見えるようになる。
 やばい、と思った。
 疲れてるせいか。酒を煽ったせいか。それとも、今更二人きりだという事に気づいたせいか。
 腹の底が熱くなって、蠢く。喉が渇く。こめかみで血が鳴る。手に汗がにじむ。
 やばい。本気でやばい。
「……帰れ、お前」
 一角は目を手で覆い、唾を飲み込んで言った。
 急に、部屋にこもった酒臭さに混じる、かすかな匂いが気になりだした。雪音の香か。この部屋には普段ない、わずかに甘い匂いが、脳を刺激する。
「泊めるわけにゃ、いかねぇんだから」
 精一杯感情を抑えて、一角は言い捨てる。だが、
「えー、へや遠いからやだー、泊めてようー。明日こっから帰るからさー、いいじゃーん一角ー」
 雪音は頓着しない。酒瓶を脇に置いて言い放った。至極明るい声で、何の心配もなく。

 血管の切れる音が聞こえた。ぶち、ってのが。

「お前、いい加減にしろよ」
 一角は、へらへら上機嫌で笑っている雪音の肩をつかんだ。
「ほ?」
 雪音が間の抜けた声をあげた。きょとん、と目を瞬く間に押し倒す。
「え?」
 床に倒されたのに、まだ状況が掴めていないらしい。雪音はぼんやりとこちらを見上げている。
 そのぶれた視線が、妙に腹立たしかった。雪音に乗ったまま、一角は死覇装の上をばっと脱ぐ。
「ハ?」
 意味が分からない、そう言いたげに雪音の目が点になる。だが一角は相手の困惑を一切無視して、
「な、ンっ!?」
 顎をガッと掴んで、口を塞いだ。

 酔いが飛ぶ。問いかけようと開きかけた口が、こじ開けられて舌に侵入される。無理矢理舌をすくい上げられて、吸われる。
「っ」
 ぬるりとした感触に強烈な違和感を覚えて、逃げようとしたが、一角の手が顎をとらえて離さない。
「んっ……んんっ……!」
 絡み合った唾液が口の端からこぼれる。長いか短いか、それさえも分からない時間、口の中をかきまわされた後、ようやく唇が離れる。
(な、何? 今、一体何が起きたの?)
 雪音は思考停止状態のまま、呼吸困難でせわしなく息をつく。繋がって伸びた唾を舌で舐め取って、一角はこちらを睨み付けた。
「男の部屋に気安く入ってんじゃねぇよ。馬鹿が」
 低い声で言う。
 その声が、掛け値なしに本気だと悟って、雪音はようやくこの後の展開に思い至った。
 えっ、もしかして、これは……もしかしなくても、アレですか!?
「い、かく、ちょ……っとぉ!?」
 つばを飲み込み、冗談でしょ、と顔をひきつらせる。だが一角はぐいっと雪音の襟をひっぱって、首筋にかみつくような勢いで唇を寄せてきた。
 一角の吐く息が、荒くなる。その手が浴衣の裾を割り、素足をつかむ。
「や……ちょ、一角、やめ!」
 骨張った手が太ももまで上ってきたのを感じて、雪音は焦って膝を合わせた。だが一角はあっさり足を割って、動けないように自分の足で押さえつけてくる。
 手で一角の体を押し戻そうとしても、びくともしない。
「や、だって……!」
 制止の声も、突っ張った手も、何の意味もなかった。
 力が、体格が違いすぎて、抵抗出来ない。
(一角は、男だ)
 まるで今初めて知ったかのように、その事実が目の前にたたきつけられる。
 一角が全く知らない男になってしまったようで、恐怖に近い感情がこみ上げてくる。
 このままじゃ本当に犯される、怖い、嫌だ、と叫ぼうとしたその時。

 チ リ ッ。

 耳の奥で、微かな音がした。
(ヒッ)
 雪音は目を見開いた。喉が引きつり、体がこわばる。
 亀裂の入った時に鳴るその音は、内と外両方からの圧力でチリチリチリチリ、とすぐに連続して鳴り響きはじめ、突然ど、と上からのしかかってきた重力で、更に高まる。
「くっ」
 耳を聾するほどの音が、喉をつまらせるほどの酒の匂いが、目がつぶれるほどの灯台の光が、口の中に残る唾液の味が、全てが殴りかかってくるような強さで襲いかかってくる。
 だがそれらよりも更に、ぴたりと密着した一角の存在は、膨大といって良かった。
 一角の霊圧が、息が、鮮明に響く。心臓が鼓動し、血を押し出し、血管を通るその音が、汗と酒と体の匂いが、その全てが雪音の感覚を覆う。
(あ……あ、あぁ、ああああっ……!)
 襲い掛かってくる膨大な量の情報に、自我が塗りつぶされていく恐怖。悲鳴を出す事も出来ず、かはっ、と喉をのけぞらせて雪音はあえいだ。
 その時、まめのつぶれた固い手が雪音の懐に入り込み、直接胸を掴んだ。とたん、足先から脳天まで突き抜けるような感覚が走って、
「あっ、ンぁっ……!」
 つい唇から、息を含んだ声をもらしてしまう。

 その声を耳の間近で聞き、一角は心臓が飛び出しそうなほど驚いた。
 雪音はさっきまで必死で抵抗し、彼の腕から逃れようとしていた。
 一角は、多分最後までそんな状態のまま、自分は雪音を犯すんだろう、こうなったらなるようになっちまえ、と思ってた。
 それなのに、思いがけず良い反応が返ってきた。
 それが自分にとって望むべき状況だったにも関わらず、一角は心底ぎょっとして、凍り付いてしまった。
「……!」
 その機会を逃すまいと、雪音は勢いよく一角を突き飛ばした。
 あっけなく転げ落ちた彼を振り向きもせず、部屋を飛び出していく。
 あ、と思った時にはもう遅い。
 雪音の足音はすぐに聞こえなくなってしまった。
 床に投げ出された一角は、雪音を捕まえようと前につきだした手が格好悪くて、下に落とした。
 その手を見下ろし、掴んだ雪音の胸の柔らかさを思い出して、思わずわきわきと指を動かし、
「……何やってんだ、俺……!」
 次の瞬間、怒濤のごとく押し寄せてきた後悔の波に、拳を畳に叩きつけた。

「は、は、は」
 短く息をつきながら走る。
 深夜で人と会わないのが助かった。
 もし今誰かと出くわしたら、明らかに襲われたと分かる着衣の乱れを指摘されて、答えに窮したろう。
 いや、それよりも、もし今誰かと出くわしたら、相手がもたらす「音」や「匂い」に圧倒されて、倒れてしまう。
(ああいや、頭が割れそう……!!)
 雪音は自分の感覚を襲う全てのものを、聞くまい見るまい感じるまいとしながら走り、走り、走って、ようやく自室へ飛び込んだ。
 バン、と音を立てて扉を閉め、その音と衝撃に押されて、床に倒れ込む。
 息がつけない。汗が滝のように流れていく、その一つ一つの感触さえはっきり分かって煩わしい。
 このままでは遠からず、何も出来ないまま意識を手放してしまう。
「う、く」
 自分の中で鳴り響く声にさえたじろぎながら、雪音は腕で上体を支えて起こした。
 もう一方の手で、机の上に置いてある銀の棒を取り、握り込み、
「……戒っ……揺るがす世界を、掌握し、押しつぶし、新たなる一を爆ぜろ……縛道の三十二、過墜天!」
 叫ぶ。と、雪音の周りで白の光が小さな爆発を起こして舞い散り、降り注いだ。
 光が爆ぜるほど、チリチリと鳴っていた音が止んでいき、開きかけていた口が閉じていき、それまで自分に覆い被さっていた世界の存在が退いていく。
 跳ねる鼓動が、通常の脈拍に戻るまで、長いことじっとしていた雪音は、やがてのろのろと起きあがった。
「はぁ……びっくり、し、た」
 久しぶりに縛道がゆるんで、世界に「襲われた」事にも驚いたが、何が一番の驚きだったかって、一角だ。
「あいつ、あんなに、霊圧、強かった、の・ね……」
 十一番隊三席なのだから、当然その霊圧も高いに決まってる。だが、これまでずっと霊圧を封じていたから、霊圧知覚も出来なかった。まさか、雪音の縛道を揺るがすほどのものとは。
 というよりそもそも、酒を飲んで油断して、さらに一角があんなふうに押し倒してこなければ、縛道も緩むはずはなかったのだが……
「って、う、わ、」
 急に先ほどの事を思い出して、血の気が引き、ついで上がってくる。
 雪音は慌てて衣服の乱れを直し、真っ赤になった頬を押さえた。
「ちょ、も、どうしよ! 何であんな事になるの! って、いうか、あたし!」
(そんな気なかったのに、縛道がゆるんだせいで、一瞬かなり感じちゃったし! 胸もまれただけであんな声出さないって! 普通!)
「ああああああああああああああ、もーありえないって!!」
 まざまざと羞恥の瞬間を思い出し、雪音は床につっぷして、絶叫をあげてしまったのだった。