いつものように仕事仕事と廊下を歩いていたら、藍染隊長に出くわした。
廊下の角でぶつかりそうになって、お互いたたらを踏んでしまう。
「あっ、藍染隊長。すみません!」
勢いよく衝突するところだったので、雪音は慌てて頭を下げた。藍染隊長は「いや、いいよ」といつものように優しい声で言った後、
「ん? おや珍しいね、鑑原君。簪をつけてる」
「ひゃっ」
す、と何気なく手を伸ばして、髪に触れる。思いがけず頭を撫でられ、雪音は思わずびくっとして、後ろに下がってしまった。
う、うわ、びっくりした。元々人に触られるのは苦手だけど、男の人に髪を触られるのは、抵抗がある。
しかも相手が、そうでもなくとも緊張してしまう藍染隊長だったら、尚の事。
「はは、すまない。誰かからの贈り物かい?」
思いきり不審な態度を見せたのに、藍染隊長は気にせず朗らかに笑う。
一人でおたおたしてるのが恥ずかしくて、雪音はつい赤くなってしまった。
「あ、えっと、はい。昨日誕生日だったので、貰ったんです」
もごもご答えると、藍染隊長は眼鏡の奥で目を丸くする。
「昨日が誕生日だったのかい? それはおめでとう。何だ、そうと知っていたら、僕も何か用意したのに」
「え、えぇっ?! と、とんでもない、お心遣いだけで十分……」
「僕からのプレゼントは、いらない?」
「や、そ、そんな事は無いですっ。でも、私は違う隊の人間ですし、藍染隊長にわざわざお祝いしていただくなんて、そんな恐れ多いです」
「大げさだなぁ。誕生日のお祝いくらい、僕だってするさ。特に君のように、仕事熱心で真面目な隊員は好きだからね。贈り物の一つもしたくなるよ」
「すっ……!?」
好きって好きって、そんな事言われましても!
深い意味なんて無いんだろうが、さらっと言われてますます顔が熱くなってしまう。
あわわ、と言葉を無くしてしまう雪音に、藍染隊長はにこっと笑って、
「そうだ。これから街へ出るところだったんだけど、鑑原君はまだ、昼食を食べてはいないよね?」
「え、は、ま、まぁ」
「それなら僕が美味しいご飯を奢ってあげるよ。誕生日の贈り物にしては、色気が無いけど」
「え、えぇっ?! そ、そんな、本当に気になさらないで下さい、無理なさらなくても」
泡食ってばたばた手を振りながらそう言った時、
「そうやね、無理強いしたらあかんよ、藍染隊長」
「うわっ!」
真後ろから人の声が降ってきて、雪音はびくっとしてしまった。
すわ何事かと振り返るより先に、冷たい指先が首筋を下から上につうっ、とのぼって、
「雪音ちゃんに簪やるなんて、どこの助平男やの? こんな綺麗なうなじ出してたら、そそるやないの」
「ひ……ひぃぃぃぃっ?!」
低い声が息とともに耳元にかかったので、雪音は総毛だって奇声をあげてしまった。
(こ、この口調にこの声にこの仕草、こんな事するのはどう考えてもあの人しか……!)
「よせ、市丸」
鳥肌立てて硬直する雪音をかばうように、藍染隊長がきつい口調で咎めた。
すると、簪のトンボ玉に触れていた指が、ふっと離れる。
ほっとしたのもつかの間、後ろから前に手が伸びてきて、雪音の顎を撫で、って……ギヤーーー?!
「何やの、藍染隊長。雪音ちゃんの彼氏とちゃうんやし、そない怖い顔せんでもえぇやん」
市丸は、ねこなで声で藍染隊長に喧嘩を売りながら、顔の輪郭をなぞる。
細長い指が、まるで愛撫するみたいに優しく撫でていくけど、気持ちいいどころか、触れた場所からどんどん熱を奪われていくような不快感だけ積もっていく。
こっ、この触り方、この冷たさ、心底気持ち悪い、けど全然動けない。蛇に睨まれた蛙ってこんな気分かも、何か全身から脂汗出てきた……!
「市丸」
藍染隊長があからさまにむっとした表情になって、市丸の手を掴んだ。力任せに剥がして、あたしと市丸隊長の間に割り込んでくる。
「止めろ、と言っているんだ。鑑原君が嫌がってるだろう」
「ややなぁ、ボクはただ助けてやろて、思うただけやのに。雪音ちゃん、藍染隊長とご飯なんか、行きたないんやろ?」
市丸は袖の下で腕を組み、身体をかがめて、雪音の顔をのぞき込んでくる。
いつも笑っていて、かえって表情の読めない市丸隊長の笑顔は、怖い。雪音は思わず藍染隊長の羽織を掴んで、ぶるぶるっと勢いよく首を横に振る。
「そ、そ、そんなことないです! 喜んでご一緒するつもりです!」
すると市丸はあらま、と口を曲げた。
「何や、そうやの。せっかくボクがご馳走してあげよ思うたのに。まぁええわ、せやったらここは藍染隊長に譲るわ。今度あらためて、ボクと一緒しよ、雪音ちゃん」
「彼女は君と居るのは嫌だそうだ。諦めたまえ」
藍染隊長が冷たく言うと、市丸隊長は肩をすくめて、
「ま、ここは大人しく退散しましょ。また今度な、雪音ちゃん」
そういって、足音も立てずにすたすた廊下を歩いていってしまう。
その姿が角を曲がって見えなくなって初めて、雪音は硬直から脱して盛大に息を吐き出した。
「うああ……こ、怖かった……」
思わず本音をぽろっとこぼしたら、藍染隊長がふっと笑って、こちらの背中をぽんぽん、と叩いた。
「大丈夫だよ。口では色々言っているが、あの男が本当に何かしてくるような事はないさ。
だがもし危険を感じたらすぐ離れて、誰かに助けを求めるんだ。
その場に僕がいればどうにでも出来るが、流石に四六時中、目を光らせていられないからね」
「は……はい、ってうわ、ご、ごめんなさい!」
雪音はそこでようやく我に返って、愛染隊長からばっと離れた。
市丸に対する恐怖のあまり、ついついすがりついてしまった、は、恥ずかしい! 脂汗とはまた違う汗がぶわっと出て、顔がぽっぽと熱くなる。
藍染隊長はきょとんと目を瞬いた後、あっはっは、と軽やかに笑い出した。
「いやいや、これは役得だ。それじゃ、これからお昼を奢らせてもらえるね? 鑑原君」
「う……」
一瞬言葉に詰まったが、
(さっき思い切りご一緒しますって言っちゃったし、大体ただの食事のお誘いなんだし、あたし意識しすぎなのかも。ここで断るのって相当失礼、よね)
「……は、はい。あの、有難うございます……」
熱い頬を手で覆いながら頷くと、藍染隊長はもう一度笑って、
「どういたしまして。こちらこそ君と食事が出来て、光栄だよ。さ、行こうか」
雪音の背中を軽く押して、歩き出したのだった。