それは月のごとく

 死体は嫌いだ。
 それは何も語らない肉塊にすぎないから。

 廊下を歩く。ひたすら歩く。行き会った人達が皆驚いた顔で道を開けたり、何か声をかけてきたが、全て無視して歩く。
 煩わしかった。この目に、この手に触れるもの全てが煩わしかった。何もかも無くなってしまえ、と叫びたくなるほど、煩わしかった。
「!」
 角を曲がったところで、壁にぶつかった。痛い。したたかにぶつけた鼻を押さえてうめくと、
「雪音?」
 低い声が上から降ってきた。見上げたけれど、体の距離が近くて、相手の背が天を突くほど高いので、顔が見えない。
 無言のまま見上げているこちらを、相手がのぞき込んできた。
「何だお前。何泣いてんだ」
「…らき…」
 更木剣八だ。名を口にして、それがきっかけになったかのようにど、と胸に熱い固まりが突きあがってきた。堰が切れる。
「う、え」
「あ?」
「……う……あ、あぁぁぁぁあぁっ!」
 抑えられない叫び声が喉を突き破る。雪音は更木隊長の服にしがみついて、子供みたいに泣き出した。一度あふれた悲鳴は、止める事が出来なかった。

「……で、何をそんなに泣いてやがんだ、お前は」
 どれくらいの時間が経ったろう。泣きじゃくる雪音を廊下から適当な部屋に連れ込んで、仕方なしという感じで付き合った更木が、落ち着いてきたころあいに問いかけてきた。
 雪音は腫れた目をこすり、口ごもる。
「……あの……十三番隊の」
「ん?」
「十三番隊の、三席が」
「あぁ。虚にやられた奴か」
「その、救護……と、言うか。隊葬の、準備をしてて」
 退舎に戻ってきた都は無惨な姿だった。
 胸から下を食いちぎられた姿は、その顔が生前と変わらぬ美しさを保っているだけに、悪趣味なオブジェのようだった。
 都は、賢く、美しく、強い人だった。
 いつでも明るく笑っているような人だった。
 雪音は彼女を心から尊敬していたし、大好きだった。
「そしたら、海燕副隊長も、亡くなったって、聞いて」
 遺体は見なかった。
 任務に同行していた朽木家のルキアが、海燕の実家である志波家へ渡しにいったと聞いた。
 代わりに雪音が、同じく同行者だった浮竹から聞き出した死に様は、都のそれと同じように悲惨だった。
 虚に斬魄刀の能力を無効化され、体を乗っ取られ。
 最後は、斬った、と。淡々と語られたからこそ、余計に、浮竹の無念さが伝わってきた。
 だが、浮竹から漂う死臭にどうしようもないほど吐き気を覚えて、雪音はその場から逃げ出した。
「なんで」
 なんで、あんな死に方をしなければならなかったのだろう。
 海燕も、都も、これからずっと十三番隊にいると思っていた。
 どんな事があっても、いつでも笑ってそこに居てくれると思っていた。
「なん、で」
 そう思ったら、枯れたと思った涙がまた溢れてきた。涙をぬぐう気力もなくて、畳にへたり込んだ雪音を、
「そりゃ弱ぇからだろ」
 更木が突き放した。
 言葉の鋭さにぎくりとして顔を上げると、男は詰まらなさそうな顔でこっちを見下ろしている。
「あいつらが死んだのは、糞虚より弱かったからだろ。運が無かったってこった、諦めろ」
「よわ、弱い?」
 この人は、誰の事を言っているんだろう。一瞬本気でそう思った。
 海燕副隊長と都、そのどちらも尋常ならざる霊圧の持ち主で、虚に負けるはずもなくて。
「弱ぇから死んだ。ただそれだけの事じゃねぇか。それだけの事で、何でお前が、目玉が溶けそうなほど泣くのか、わからねぇな。お前、十三番隊でもねぇだろうが」
「……」
 あ、く、と口が動く。更木を非難しようとして、罵ろうとして、でも声が出ない。
 急所をつかれた。そう思った。 (そうだ、あたしは十三番隊じゃない)  海燕副隊長と都、二人と仲良くさせてもらったからその死は、悲しい。
 だけど、そうじゃない。今雪音が悲しんでいるのは、苦しんでいるのは、そのせいじゃない。
「だって」
 体を食いちぎられて横たわる都の顔を見て。
 浮竹隊長から海燕副隊長の死に様を聞いて。
「だって、あたしにはもう、何も出来ないから」
 どれだけ治癒術を施そうと、どれだけ良薬を作ってその口に含ませようと、もう彼らは生き返らない。
 自分には何も出来ない。力がない。それが、
「くやし、くて」

 そこからはもう言葉にならなかった。泣いて、叫んで、暴れて、やがて疲れて眠りに落ちた。
 起きた時には自分の部屋に戻されていた。誰かが運んでくれたのだろう。  更木隊長が? そう思って、まさか、と首を振る。
 雪音が泣いていた間、更木がどうしていたかは分からない。
 途中で嫌になって逃げたのかもしれない、覚えていない。
 ただ体が鉛のように、重い。雪音は枕元の鎮静剤を飲んで、目を閉じた。夢の無い眠りに落ちて、もう二度と起きたくなかった。