「雪音、まだ終わんねぇのか」
「んー……」
はしごの上で大判の本をめくっていた雪音は、後ろからの声に曖昧な返事を返した。それから、ん? と顔をあげ、振り返る。
「なっ……一角! どっから入ってきたの!?」
「そこの戸口からに決まってるだろ」
「あ、あほかあんたは!」
雪音は本を抱えて梯子を下りると、棚の上に座って足を組んでいる一角に詰め寄った。
「ここは関係者以外、立ち入り禁止! 今すぐ出ていけ!」
「あぁん? いいじゃねぇか、別に。お前今まで気づかなかったんだし」
「いいわけあるか! ここは機密情報満載なの! あんたが勝手に入ってきたりしたら、あたしの責任問題になるの! あんたも懲罰対象になりかねないの!」
「何だよ、そんなヤバイ情報保管してんのか、四番隊は」
興味を持ったのか、近くの棚に手を伸ばす一角。雪音はその腕をバシッとたたき落とした。
「いてっ!」
「言った傍から手ぇ出すんじゃない! 患者の個人情報とか、劇薬の調合方法とか、外に漏れたらまずいものが山のようにあるんだから!」
「ンなら口で言やいいだろ! 叩くな!」
「口で言っても聞かないからでしょ!? つーかあんた、何しにきたのよマジで!」
指を突きつけると、棚を降りた一角はけっ、と歯をむいた。
「これから飲み会やるから、わざわざ誘いに来てやったんじゃねぇか!」
「飲み会? 行けないわよ」
即答され、カク、とこける一角。
「何だよ、行けるのか考えもしねぇのかよ。あんだけ酒好きのくせに」
「しょうがないでしょ。こっちにまだ時間かかりそうなんだもん」
「ンなの、適当に終わらせとけよ。明日でもいいじゃねぇか」
ひょい、と本を取り上げられ、雪音はちょっと、と眉間にしわを寄せた。
すぐに取り返そうとするも、頭上遙か高くに持ち上げられてしまい、跳ねても届かない。
「何してんのよ、返せっ」
「ばーか、取れるもんなら取ってみな」
必死の様子がおかしいのか、一角は鼻で笑った。びき、と青筋を浮かべた雪音は、迷いもなく一角の股間を蹴り上げる。
ガギッ!
「…!!!!」
鈍い音がして、硬直した一角がその場に崩れ落ち、無言で悶絶した。雪音は落ちてきた本を受け止めると、
「まだ調べ物するんだから、邪魔すんならさっさと帰んなさいよ、このハゲ」
ふん、と鼻を鳴らして、再びはしごをのぼる。
床に座り込んだ一角は、涙目で顔をあげ、数分間にわたって聞くに堪えない罵詈雑言を吐き捨てた後、
「て、てめぇ、なんか、もう二度と、さそわねー、からな! このクソ女! 死ね!」
よろよろ立ち上がり、外に出て行った。
「別に誘ってなんて言ってないでしょうが」
雪音はそれを見送った後、すぐ手元の本に目を落とした。すぐに意識がそちらへ集中し、すうっと周囲の音が遠くなる。
それから後。
ふ、と視線を上げた雪音は、壁にかかった時計を見て、夜の十時をすぎている事に気づいた。
「あ、やば……やりすぎた」
身体を動かすと、あちこち固まっていたらしく、ばきばき、と派手な音が鳴って痛みが走る。
「う……うーいたたた……。今日は、この辺にしとくか……」
本を閉じて棚に戻し、こわばる身体で慎重に降りていく。
部屋の片づけをして、伸びをしながら戸口に向かったところで、ふと棚の上の紙切れに気づいた。
「ん?」
何気なく手に取って見る。飲み屋の名刺だ。
この間新しく出来た店で、古今東西の酒がそろっていて、食事も旨いと評判になっていたところだった気がする。
ひっくり返して裏を見てみると、店の地図の上に、汚い字で、
『来ねぇと 店中の酒 先に飲み干す 仕事ばっかしてんじゃねーよ バカ』
などと書いてある。
「……一角?」
こんな事を言いそうな奴は、他に思い至らない。
雪音はまじまじと紙片を見つめた。それから、不意にくすり、と笑う。
「分かったわよ。そんなに来て欲しいなら、行ったげるわよ」
さっきの謝罪に、酒の一杯もおごってやりたいし。
雪音はそう思いながら名刺を懐にしまうと、火を消し、外へ出て行ったのだった。