休日の午後、ホテルラウンジは穏やかな喧噪に包まれ、静かな時間が過ぎていく。
入り口に立てかけられたスイーツビュッフェのポスターに惹かれるように次々と客が訪れる中。
青青とした緑の庭園を目の前にした、窓際の席に陣取った朝顔は、山のように取ってきたケーキの最後のひとかけを口に運び、
「あぁ美味しい……このためにわざわざ来た甲斐があるってもんだよ、至福の味だねぇ……」
頬を紅潮させ、うっとりした表情で味わっているところだった。その向かいに座った小十郎は、コーヒーをかき混ぜながら、思わず苦笑してしまう。
「たかがケーキで至福に浸れるんなら、連れてきた甲斐もあるな。そこまで喜ぶとは思わなかった」
「そりゃ喜ぶよ、このホテルのスイーツビュッフェはいつ見ても予約がとれないくらい人気なんだから。右目の旦那、よくチケットが手に入ったね」
「あぁ、まぁな」
確かに独力では予約出来なかっただろう。というか、こういう催しがある事さえ知らなかった小十郎に、
『Hey, 小十郎。鬼みてぇな顔で仕事ばっかりしてねぇで、たまにはsweetなものでも食って、息抜きしてきな。招待券をもらったからやるよ』
と渡してきたのは、上司の政宗だった。どうやら奥州グループの社長宛に届いたものらしいが、
『いえ、結構です。このようなイベントでしたら、政宗様が自らご視察なされてはいかがですか。パートナーがご入り用でしょうから、さっそく見繕って』
と段取りをつけようとしたら、No! shut up!! と噛みつくような勢いで拒まれたあげく、
『お前、最近朝顔とすれ違いになってるんだろ。あんまり放っておくと、他の男にかっさらわれるぜ? この間も、総務の前田が粉かけてるのを見かけたしな』
などという聞き捨てならない事まで言われ、最終的に渋々、政宗の好意、あるいはお節介を受け入れる羽目になったのだ。
(まさか浮気するとは思っちゃいねぇが……他の男がちょっかいをかけやすいのは、分かる)
コーヒーを飲みながら、カップ越しにちらりと視線を送る。
普段は営業部の部長補佐として、一分の隙もないスーツ姿で決めている朝顔だが、今日は若干露出が高めだ。
すらりと伸びた白い足を包むスカートは短いし、すれ違う者がたいてい目を奪われる、存在感のある胸元は強調するかのように襟ぐりが深い。テーブルの上に乗ったまま、朝顔の動きに従って胸がたゆんたゆんと震えるのをつい目で追ってしまい、
(……俺の為に着飾ってるんだろうが、行き過ぎだ)
小十郎は顔が熱くなるのを感じて、視線を下げた。そんな様子に気づかないまま、皿を空にした朝顔が、
「右目の旦那、そっちは食べないのかい? さっきから全然手を着けてないけど」
指をさしてきたのは、小十郎の前にあるケーキだ。チョコレートがなめらかにコーティングされた丸いケーキの上には、上品に金箔の欠片が乗っている。確かオペラとかいったか、と思いながら返事をする。
「おめぇの食べっぷりが見事なんで、見とれてた。なんならこっちも食うか。こいつはまだ手をつけてねぇだろう」
「え、いいのかい? 旦那が食べなくても」
「別に構わねぇ。適当に取ってきただけだしな」
それは嬉しいけど、と朝顔は眉根を寄せた。
「もしかして右目の旦那、甘いもの苦手? 無理につき合わせたんなら、悪いね」
「いや、苦手って程じゃねぇが……まぁ、甘いんなら、和菓子の方が好みだな。
さっき他の客がわらび餅を食ってたから、あるんなら俺はそっちを取ってくる。おめぇはこのケーキを食ってくれ」
言いながら皿を勧める。
そういう事なら、と目を輝かせて手を伸ばした朝顔は、しかしふと動きを止めた。何かと思ったら、上目遣いにこちらを見上げ、
「……どうせなら旦那が食べさせてくれないかい? その方が美味しそうだ」
急に艶々とした声でそんな事を言い出したものだから、なっ、と言葉に詰まってしまった。
「ばっ! ……かやろう、そんな事人前で出来るかっ」
大声を出しそうになって慌ててトーンを下げる。朝顔は頬杖をついて、
「いいじゃないか。別にあたしらにわざわざ注目してる連中なんか、いやしないよ。たまのデートなんだもの、少しは恋人っぽい事したって構わないだろ?
……まぁ、どうしても嫌ならいいけどさ」
押して、引いて、最後には、駄目? と甘えるように小首を傾げてみせる。
巧みに言葉と仕草で相手を翻弄するのは、さすが営業部の影のエースというべきか。手玉に取られているのが分かっていながら――どうしても、逆らいがたい。
「……一回だけだぞ」
抗しきれなくなって、小十郎は呻いた。
顔が熱い事を自覚していたので、俯きながら、フォークでケーキをざくりと切り取り、濃厚そうなクリームとスポンジとチョコレートの塊を乗せる。
「早く口を開けろ、早く」
窓際のこんな目立つ席でこんな事をしていたら、やはり誰かに見られていそうで恥ずかしい。ぶっきらぼうに言いながら突き出すと、
「まるで犬の餌やりだねぇ、ムードのないこと」
くすくす笑いながら朝顔が身を乗り出した。そして綺麗にルージュの引かれた唇を開き、フォークをぱくりとくわえた。そのまますぐ離れるかと思いきや、
(……ん?)
指に妙な振動を感じて、小十郎は眉を上げる。その違和感を察知してすぐに退避していればよかったものを、引き時を誤ってしまった。
「……ふ……」
金のフォークを挟み込んだ、ふっくらと艶やかな唇から漏れる、微かな吐息。
朝顔は口の中で舌を動かし、フォークについたチョコレートも味わうようにじっくりと、奥から手前に向かってなぞっていく。
それが見えるわけではもちろんないが、持ち手に中の動きがダイレクトに伝わってくるので、
(……っ!?)
妙に蠱惑的な感触に驚き、小十郎はびくりと指を震わせてしまう。
それを感じ取ったのか、伏し目がちだった朝顔は、長いまつげを持ち上げて、挑発的な流し目で小十郎を見つめながら、
「ん……っ」
ゆっくりと、ねぶりながらフォークの先へ唇を滑らせ、離れる直前、その赤い舌で三つ叉の先端をなぞるように舐めて、ようやく喉を鳴らしてケーキを飲み込んだ。
「……んん……美味しいねぇ」
ごろごろと機嫌の良い猫のように目を細める朝顔。フォークを差し出したまま硬直した小十郎は、とどめとばかりに唇に残ったクリームを舐めとる朝顔を目にした途端、
「……おっ、おめぇは……おめぇは、ケーキくらい、普通に食え!!」
ぞくぞくぞくっと総身が震え、燃え出すかと思うくらい熱くたぎってきたのを感じて、思わず声を荒げてしまった。
フォークを投げ出し、カーッと熱がこみ上げてくる顔を押さえて懸命にこらえようとするこちらの事情を知ってか知らずか、
「おや、何かおかしな食べ方したかい? 妙な言いがかりはよしておくれよ」
頬杖をついてニコニコと朝顔が言い放つ。
「どこが普通だっ、あんな、その、……や、やらしい食い方するな!」
最後は周囲の目を気にして小さく呻くと、彼の艶めかしい恋人はくすくす忍び笑いを漏らす。
「……ね、知ってる? 右目の旦那。チョコレートには誘淫効果があるんだって。女には媚薬にもなるらしいよ……試してみるかい?」
テーブルの上で握りしめた小十郎の拳にするりと手を重ねて、周囲に漂うスイーツの香りよりもよっぽど甘く、欲望を煽るように囁きかけたので、
「……おめぇは……どこまで俺をおもちゃにしやがるんだ……」
今や汗が噴き出すほど真っ赤になってしまった小十郎は、もうこれ以上我慢するのも無理だと観念して、天井を見上げてしまったのだった。