俺は、身の内に潜む鬼を、恐れている。
理性という鎖を食いちぎり、暴れ回ろうとするこの鬼を、どうしようもなく恐れているのだ――
政宗に命じられて帰路についた小十郎は、道すがらため息を何度もついていた。
日は高く、爽やかな晴天。農道を行き交う民は皆、小十郎の姿を目にすると決まって声をかけて挨拶をしたが、当の本人はそれに曖昧な返事をするだけで過ぎ去る。
自身の背後で首を傾げる者達にも気づかず、小十郎はもう一度ため息をもらして、首を振った。
(さすがは政宗様。俺などよりもよく、朝顔のことを看破しておられる)
朝顔が奥州に腰を落ち着けて後、政宗は彼女と言葉を交わす機会を意識的に作っているようだった。
小十郎の相手となれば政宗にとっては身内も同じ、という感覚なのだろう、時に小十郎さえ放っておいて、二人で楽しげに語らっている事もあるくらいだ。
その会話の中で朝顔の気質を見抜き、また、これまでの半生をそれとなく察している政宗にしてみれば、今の状況が朝顔にとって好ましいものでないと判ずるのは当然だろう。
(だが、俺には他の道がない)
政宗が妻を娶るまで、朝顔と事を進めない。それは小十郎にとって絶対の決意であり、これに否というのなら、朝顔と断絶も止むなしと覚悟していた。
それほどに小十郎にとって政宗は特別な存在であり、竜の右目として当然果たすべき務めと自らに律していたのだ。しかし、
(――日陰者、か。あれはさすがに堪えた)
眉間に力が入り、吐息が浅く漏れる。政宗に優しく諭されたあの時、まるで心の臓を刀で一突きにされたような衝撃を受けた。
猿飛が言っていた事が本当なら、朝顔は生まれた時からずっと、しのびとして生きてきた。
黒装束に身を包み、無面にその心を隠し、仕える主のため、命をかけ続けてきたのだろう。決して表に出てくる事のない、その生き様はまさしく、日陰者といっていい。
小十郎はあの戦で、日陰者のまま死のうとする朝顔を救った。いや、なかば強引に、日陰から引きずり出した。
それを悔いてはいない。今この時、朝顔と共に生きる事が出来る喜びを、日々感じている。
けれども、一方で。政宗への忠義故に、朝顔の待遇を決めかねている事に罪悪感を覚えずにはいられなかった。
(何もかも政宗様の仰る通り――俺はあいつに、無体を強いている)
召使いではなく、妾でもなく、妻ですらない。
そんな曖昧な立場に据えられて、朝顔に何の屈託もないと信じるほど、小十郎も愚鈍ではなかった。
だが、時折それとなく話を向けてみても、
『あたしはこうしてお側にお仕え出来るだけで、十分幸せだよ、右目の旦那。変に気を回したりしないで、お役目にお励みよ』
と穏やかに笑うばかりで、不満の一つも漏らそうとしない。それが返って不憫で、小十郎は忠義と私情の間で揺れ動き、悩む時間が増えていた。
(政宗様は、それも見抜いておいでだったのだろう)
朝顔の話になると決まってからかわれるので、居心地が悪いのだが、政宗が腹心の部下とその恋人を受け入れて、応援してくれているのは分かっている。
結婚の許しを与えたのも、二人の幸せを心から願っているからだろう。
(それは、分かる。分かっているんだが……)
ざり、と草履の下で砂が鳴る。顔をあげると、いつの間にか自邸がすぐそこにあった。思索に耽っている内に、たどり着いたらしい。
(ひとまず部屋で頭を冷やすか。……ん?)
考えすぎて頭が痛い、とこめかみを押しながら歩を進めようとして、小十郎はふと人の声を聞き取った。
「……まぁそんな、お世辞を言うもんじゃありませんよ……」
「……いやいや、世辞なんかじゃねぇって……」
(朝顔?)
聞き慣れたその声を辿って門の辺りへ目を向けると、朝顔が若侍と談笑をしていた。
朝顔は畑仕事から帰ってきたところなのか、野良着を纏ってざるを手に抱えている。
対する男は、確か家老の末子だったか。まだ年若いせいか、使いのものとしてあちこちの家へ顔を出す事が多いのだが、甘やかされて育ったせいか、あまりいい評判は聞かない。
今日も何か知らせを持ってきたのだろうか、しかし屋敷に入るでもなく、女とぺちゃくちゃ囀っている様子は、やはり感心出来ない、と小十郎は眉をひそめた。
まだ距離があるため、二人が何を話しているのかまでは聞こえないが、どうやら男の方が朝顔をおだてて良い気分にさせているらしい。
楽しげに笑い声まであげているところを見ると、朝顔もまんざらではないのか――と思ったところで、
(……ぐっ!)
ずん、と胸に石が入ったような重みを感じて、小十郎は思わず呻きそうになった。朝顔が楽しそうに笑っている。自分以外の男に、無防備な笑顔を見せている。
その光景に息が詰まるような感覚を覚え、ぎりっと歯を食いしばった。
馬鹿げている。ただ話をしているだけなのに、これほど焼け付くような嫉妬を抱くなんて。理性が告げる声を、しかし小十郎は無視して、ずかずかと歩を進めた。
「だから今度、その簪を朝顔さんに――」
「それは……あら、右目の旦那? ずいぶん早いお帰りだね」
「ヒッ、片倉様!?」
調子に乗って朝顔の肩に手を伸ばそうとしていた男が飛び上がり、後ずさる。
失礼いたしますると断って、小十郎はずいっと二人の間に割って入った。背中に朝顔を庇い、上から青年を見下ろして睨みつける。
「本日はいかような御用ですかな、
「いっ……い、いえ、近くまで来たので、お寄りしたまでで、特段の用件などありませんので……し、失礼します!!」
こちらの形相がよほど恐ろしかったのだろうか、男は真っ青になって、脱兎のごとく逃げ出した。
あっと言う間に姿がかき消えたのを見届け、今度は背後へ鋭く振り返る。
「朝顔、テメェは何をしてやがる」
「なんだい、ずいぶんご機嫌ななめだね。別に何もしちゃいないけど」
その視線を受け止めた朝顔は、しかし普段と同じ調子で肩をすくませる。手にしたざるの上に積み重なった野菜の小山を見せて、
「畑で食べ頃のがいくつかあったからさ、新しい料理でも試してみようかと帰ってきたところに、声をかけられただけだよ」
あっけらかんと答えた。その様子にかちんときて、さらに声が低くなる。
「あいつは女癖が悪くていつも厄介ごとを引き起こす奴だ。聞こえの良いことばかり言われて良い気分になってると、ひどい目に遭うぞ」
「あらやだねぇ、右目の旦那ったら。あんなおべっかに、あたしが引っかかると思ってるのかい? そりゃまたずいぶん、軽く見られたもんだ」
ほほほ、と朝顔は軽やかな笑い声をあげた。
「あれでもご家老のご子息なんだ、あんまり粗略に扱ったらまずいかと思って、適当に相手してただけだよ。
心配いらないんだから、そう難しい顔をしないでおくれ。せっかくの男前が台無しだ」
「!」
朝顔はからかいながら、すっと伸ばした手で小十郎の頬に触れる。その瞬間、心の臓が跳ね上がった。
ほっそりとした、柔らかい温もり。愛しげに顔の傷を撫でる指先の感触。しかし小十郎が硬直している事に気づくと、
「――あぁ、ごめんよ。つい手が出ちまって」
朝顔はばつが悪そうに笑って、腕を引こうとする。
(違う、おめぇが悪いわけじゃねぇ)
いつもこうだ。何かの拍子にふれ合うと、小十郎はいつも体をこわばらせて凍り付いてしまう。
朝顔が奥州に来た頃には何とも無かったのに、いつの間にか小十郎は朝顔との接触に極度の緊張を覚えるようになってしまった。
それが何故なのか、朝顔は理由をきかない。
おそらくは小十郎に拒まれていると勘違いして、尋ねて確信を得るのを恐れているのだと思う。
それは誤解だと言うべきだ。そう思いながらも、小十郎は硬直の理由をうまく語る事が出来なくて、結局そのままにしておくしかなかった。
だが、今。
小十郎は離れていく朝顔の手をぎゅっと掴んで引き留めた。何事、と目を丸くする朝顔に、今日こそ謝ろうとして、
「朝顔。――俺と、一緒になってくれねぇか」
考える間もなく、全く違う台詞を口走っていた。
「…………は?」
ぽかん、と口を開けて朝顔が硬直する。しばしの間を置いて、
「……な、は、え、えぇっ!? い、いきなり旦那、何!?」
カッと頬に血の気を上らせて混乱に陥ってしまう。それを見て、
(あっ。俺は何を言ってるんだ?)
自分の発言に遅れて気づく小十郎。同時に自身も顔が熱くなるのを感じたが、
「一緒ってあんた、あんた……って、あ、あーぁそうか、一緒に料理しようかって事かい? 政宗様にならって、右目の旦那も料理に凝りたいって事かい、何だびっくりした、まぎらわしい言い方しないどくれよ」
真っ赤になって早口に言い立てる朝顔があまりにも焦っているので、逆に冷静になってくる。小十郎がその手を捉えたまま、
「違う。俺と夫婦になってくれ、と言っている」
重ねて告げると、ぎしっと体をこわばらせた朝顔の腕から、ざるが滑り落ちた。どさどさどさっと地面に野菜が転がり、足下が埋もれる中、「な、な、な」と口をしばらくぱくぱくした後、朝顔は及び腰になって、
「ちょ、ちょっと待っておくれよ。何でいきなりそんな話になるんだい、右目の旦那。前振りが無いにも程ってもんがあるだろ」
「さっきみたいな事がこれまで何度あった? おめぇをこれ以上放って置いたら、いつか悪い虫がつきそうだ。ここまできて、余所の男にかっさらわれるなんて冗談じゃねぇ」
「な、何でそんな心配をするんだか、これまでだって上手い事かわして……」
「――小十郎様、いかがなされました? 何かお困りごとですか」
ごちゃごちゃ話しているところへ、不意に声が割り込んできた。ハッとして振り返ると、屋敷からこちらを窺う女中の姿が見えた。
心配そうな顔をしているのは、帰宅早々、門前で女の腕を掴んで口論している小十郎の姿が、あまりにも奇異に映ったせいだろう。このままでは野次馬が増えかねないし、周りに聞かせるような話でもない。
「……続きは場所を変えるぞ、朝顔」
「え、えぇ?」
小十郎は朝顔に囁きかけると、
「
女中に命じながら、朝顔の手を引いて自室へと向かったのだった。
「……それで、一体全体どういう気まぐれなんだか、頭から説明して頂けるかい、右目の旦那」
締め切った障子を通して、畳の上に四角く切り取られた陽光が投げかけられる。整然と片づいた部屋の中央、正座をして小十郎と向き合った朝顔が、まず口火を切った。
うろんげな眼差しでこちらを見ているのは、先の小十郎の言動があまりにも唐突で不可解だったせいだろう。
(そりゃそうだろうな。俺も自分で驚いたくらいだ)
こうして腰を落ち着けてみると、何故あんな風につるりと言葉が滑り出たのか不思議に思うくらいだ。ごほん、と咳払いをして、
「気まぐれなんかじゃねぇ。俺はおめぇと、……一緒になりてぇと思っている」
いささか羞恥を感じながら、改まって言う。それに対して、しかし朝顔の顔は晴れない。
「だから、何で今更そんな事を言い出したのかって聞いてるんだよ。
あんたは政宗様に操立てしてるから、あの御方を何よりも優先すると言っていただろ。あたしの事にしたって、政宗様がご結婚なされるまでは今のままで、と……。
あ、もしかしてそちらの話が決まったのかい? どこぞの姫君が政宗様に御輿入れなさるとか」
「そうだったらいいが、違う。遺憾ながら、政宗様は未だそのおつもりは無いようだ」
先ほどの狼狽ぶりを見ても、妻などという面倒な代物は当分いらない、と考えているのだろう。
いつまでも逃げ回っていられる訳ではないというのに、全く仕方のない方だと嘆息したくなったが、
「それならやっぱり、旦那とあたしが夫婦になるなんて、今の時点じゃあり得ない話じゃないか。
どうして急にそのつもりになったんだい? まさか本気であたしが浮気するなんて思ってるんじゃないだろうね」
今は目の前の問題に向き合わなくては。朝顔の当然の疑問に、小十郎は背筋を伸ばした。
「そうは思っちゃいねぇが……今日、政宗様からお許しを頂戴した。早く祝言をあげて、おめぇを安心させてやれと叱責も頂いた」
「それはまたお節介……とと、繊細なお心配りだこと。
でもね、前にも言ったじゃないか、あたしは今のままで十分幸せだって。いくら政宗様からせっつかれたからって、そんな焦らなくてもいいだろ」
「いや、政宗様は俺たちを気にかけて、そのように仰られたんだ。前々から考えてはいたんだが、政宗様のお言葉でようやく決心がついた。決めたなら、いつまでもぐずぐずしていられねぇ。
……おめぇはどうだ、朝顔。俺の嫁になるのは、……嫌か」
最後の言葉は自然と低くなる。途端、朝顔はまた赤面して、
「いっ、嫌とかそういう事じゃなくてだね、そもそもそんな事出来やしないだろ? あんまり無茶を言うもんじゃないよ」
ぱっと顔を背けてしまうので、小十郎は膝を進めた。
「出来ないとはどういう意味だ」
「どういうって、考えなくても分かるじゃないか。旦那、まさか自分がどんなお偉い方か、忘れちまったんじゃないだろうね?
あんたは奥州の伊達家にお仕えする片倉家のご当主様。それに対してあたしは親の顔も知らない、身分卑しい元しのびだよ。
そんな農民にも劣る女が、えらい御方の妻になんかなれるわけないじゃないか。
側室ってんならまだあり得るだろうけど、旦那はまだ正室も持ってないし」
朝顔の言に小十郎はむっとした。
朝顔はまだ時折、自らを卑しめるような発言をする事があり、小十郎はそんな物言いはやめろと言い聞かせている。もはやしのびをやめたのだ、卑下する必要など全くないというのに。
「そうやって自分を貶めるなと言っているだろう。身分の事なんざ、いざとなりゃどうにでもなる。分家に頼んでおめぇを養子にすれば、それで十分だ」
「え」
「格の合わない家同士の婚姻では良くある話だ。多少の手間はかかるが、それだけなら障害ともいえねぇ。それに」
まだ背いたままの横顔をじっと見つめ、声に力を込める。
「俺はおめぇ以外の女を迎えるつもりはねぇ。正室を据えるのなら朝顔、そいつはおめぇ以外にありえねぇな」
「っ!」
びくっとした朝顔の、髪の隙間からのぞく耳が赤くなっていくのが見える。
「そ……そんな大層な役割、あたしに務まる訳が……」
弱々しく抗弁する朝顔。小十郎は更に膝を進め、朝顔の目の前に座った。うっすらと汗までかいているのを見てとれるほど近くで朝顔を見つめ、乾いた喉に唾を飲み込む。
「……嫌じゃねぇなら俺を見ろ、朝顔」
そろりと言葉を渡すと、朝顔は唇を引き結んだ後、のろのろと顔を戻した。そしてこちらを窺うように、長いまつげの下から上目遣いに視線を寄越してくる。
「……っ」
その、表情。その、美しい瞳。その、まろやかな線を描く体から漂うかぐわしい香り。
この半年もの間、あえて遠ざけようとしていた朝顔の艶めかしい姿形を改めて目にして、小十郎は不意に体がこわばるのを感じた。
(――恐ろしい)
いつの頃からかわき起こるようになった感情が再び腹でとぐろを巻き、小十郎を締め上げ始める。
(恐ろしい)
朝顔を見つめていると、暗い恐怖がじわじわと這い上がってくるようだ。
(俺はこれが、恐ろしいのだ)
心底からそう思うのに、朝顔の全てを焼き付けようとするかのように目を離せず、瞬きすら忘れる。
「……右目の旦那?」
微動だにせずに黙りこくっている小十郎を訝しんで、朝顔がそろりと声を発した。
甘く媚びるような響きを帯びたそれは、鼓膜を刺激して小十郎を更に揺さぶる。この官能的な声をもっと聞きたいと、体がざわめく。
「……朝顔」
かすれた声で応えた小十郎はすっと伸ばした手で、朝顔の顎を持ち上げた。
白い喉を晒してこちらを見上げる朝顔の瞳に映るのは、小十郎だけ。黒々と光る黒曜石のような瞳にひかれるように、小十郎は体を前に傾け――朝顔の唇に、己の唇をそっと重ねた。
ぴく、と朝顔の体が揺れる。だが、抵抗はない。わずかにためらいの間を置いた後、間近に迫った小十郎の肌を撫でて、長いまつげが伏せられた。
(朝顔)
初めて触れたその唇はふっくらとして柔らかく、暖かい。
重ねた唇に、微かに漏れ出た吐息がふれ合う。
ごちゃごちゃと考えていた頭の中が、空っぽになる。朝顔の名だけで占められる。ただ唇と唇を合わせただけなのに、なぜこれほど幸せな気持ちになるのだろう。どうしてもっと、早くこうしなかったのか。あんなに恐れていた自分が、とんでもない愚か者に思える。
「朝顔……」
そっと、名を呼ぶ。顎を指で支えられて目を閉じていた朝顔がそれに反応し、ゆるりと瞼を持ち上げた。その黒い瞳は今や潤み、
「……嬉しい。やっと、触ってくれた」
震える声で囁きながら細めると、その端から涙が一筋こぼれた。
「……!」
それを見た途端、小十郎はぐっと胸が締め付けられるように苦しくなって、思わず朝顔を抱き寄せた。関ヶ原の時のようにきつく、もう逃がすまいとするようにきつく腕を回し、
「ああ、もう我慢できねぇ……っ」
「んっ……!」
熱のこもった呻きを漏らすと、再び唇を重ねる。しかし今度のそれは、より深い。互いの呼吸を奪い合うように深く、深く重なり合い、次第に服越しでもはっきり分かるほど体が熱くなっていく。その熱で、心も頭も全て焼き尽くされていくようだ。
(欲しい。この女が、欲しい)
他に何も考えられない。理性を食い破り、情欲だけが心身の全てを支配していく。小十郎は衝動のまま朝顔の唇を貪り、畳の上に押し倒すと、泥のように絡みつく惑乱の中へと自ら身を沈めていった――