花のうへの露43

 あの日の光景はこの目に焼き付いて、片時も消えることはない。
 降りしきる冷たい雨。
 数え切れぬほど負った傷から流れ落ちる血で、足下の水たまりが赤く染まっていく。
 その同じ血だまりに倒れ伏す、切り捨てた兵達の山。
 そして、死に満ちた修羅場の向こうにそびえ立っていた大阪城が、砂山のように崩れ落ちていく。
 崩壊の轟音を裂いて耳に突き刺さったのは、彼の主の、無念に満ちた断末魔の叫び。
 そして血にかすむこの目がその時捉えていたのは、彼が神のごとく崇めていた主の地を汚し侵す無数の軍旗――毘沙門天の名を冠した白と、四つ割菱の深紅の色だけだった……。

「……武田の狗が……この私を討ち果たすだと?」
 あの時の旗指物と同じ赤をまとった敵を前に、三成はぎしりと歯を食いしばった。
 二槍を構えた真田幸村を、暗い憤怒を宿した瞳で睨み据え、
「その増長が目障りだ……秀吉様に仇なした者は全て、私のこの手で斬滅する!! 貴様がその先鋒だ、真田幸村ぁぁぁぁぁ!!」
 怒号を吐き出すと同時に地面を蹴り、風のごとく真田の懐へと飛び込む。
「! なんと!」
 ガキッ!!
 六紋銭が揺れる首もとへ、刃が銀閃となって吸い込まれる瞬間、真田はかろうじて槍で受け止めた。朱塗りの柄に食い込む刀に抗し、
「ぬううううっ、はぁっ!」
「くっ!」
 そのまま勢いよく右手になぎ払う。力負けしてはじき返された三成の体勢が崩れたところを、
「うおおおお! 大烈火!!」
 二本の槍で目まぐるしく突きの連撃を見舞う。前方にのみ向かう猪突猛進な攻撃は軌跡こそ単純だが、視界をふさぐほどに猛烈な勢いで繰り出され、逃げ道がない。だが、
「舐めるなぁぁぁぁ!!」
 燃える穂先が次々に襲いかかってくるのを、それに勝る手数でしのぎきり、三成の手が走った。
 ギギンッ!!
 繰り出された真田の槍と三成の刀が噛み合い、ぎしぎしと軋んでつばぜりあう。満身の力をこめて互いの肩が盛り上がり、足が地面にめり込んで擦り跡を作る。
「真田……真田、幸村ぁぁぁぁ……」
 歯の間から呪詛にも近い呻き声を上げ、刃の向こうから殺意に燃える目でにらみつける三成に、幸村もまた、闘志の炎をその瞳に宿して叫んだ。
「石田三成殿、聞きたい事がある!! 貴殿は何の為に戦っておられるのか!!」
「何……?」
「それがしはこれまで数多の戦を戦い、数多の将と刃を交えてきた!!
 戦場いくさばでまみえるのは皆、自らが掲げる理想の為、夢の為に刀をとる事を選んだもの達だった。そこには紛れもなく覚悟があり、それぞれが思い描く未来さきがあった。だが!!」
 ひときわ深く足を踏み込み、三成を押し返しながら、幸村はさらに言葉を重ねる。
「貴殿にはそれがない! 覚悟はある、気迫もある、だが貴殿の刃から伝わるは痛ましいほどの殺意だけで、ほかには何も伝わってこない!!
 これほどの大戦おおいくさを仕掛けておきながら、貴殿が見ているのは先の未来ではないっ」
「黙れ……」
 ずるるっと後ろへ押されるのを踏みとどまり、三成は白銀の髪の下に表情を隠して低く唸る。だが幸村は口を閉ざさない。
「明日なき大将に率いられる者達を哀れまれよ! 無為な戦で命を落とすやもしれぬ民を、省みられよ!! それが、亡き豊臣秀吉殿の跡をついだ貴殿のなすべき役割ではありませぬか!!」
「だぁぁぁまぁぁぁれぇぇぇぇ、この痴れ者がぁぁぁぁ!!」
 ギャリンッ!!
 不意に三成の刃が火花を散らして槍を弾き、刀身が柄を這うように滑り上る。
「しまっ……!」
 息を飲んだ時にはもう遅い、その切っ先が宙を舞うのを追うように、幸村の全身に無数の斬撃が食らいつき、四方八方に血が飛び散る。
「ぐはっ!!」
 切り飛ばされた幸村が地面を何度か跳ね、乱戦状態になっている兵の一群につっこんで倒れた。
 「くっ……これしき……!」血をにじませてぼろぼろになった陣羽織を脱ぎ捨て、槍を地面にたてて起きあがろうとする幸村のもとへ、三成は不気味なほどゆっくりとした足取りで近づいていく。
 巻き添えを嫌った兵達が悲鳴をあげて二人のそばから駆け逃げるのも目に入れぬまま、
「……秀吉様の高邁な理想をひとかけらも理解しようとしなかった愚か者が、秀吉様の御名を口にするなど、万死に値する……」
「石田、三成っ……それがしの話を、聞いてくだされっ……」
「聞く必要などない! 貴様の戯れ言には飽いた!」
 三成は血に濡れた切っ先を幸村に突きつけ、激しい怒りに顔をゆがませた。
「貴様を万に切り裂いて、甲斐への手みやげにしてやる。無論、その後に武田信玄も同じ末路を辿る事になる。思い知れ、貴様の失言が武田を滅びに向かわせる、その罪深さと愚かさをな!!」
「な、ならぬ……! お館様のお命は武田そのもの! この身に替えても、断じて貴殿を行かせはせぬ!!」
 抗弁して立ち上がろうとする幸村。それに対して首をはねようと素早く腕を振るう三成。再び互いの得物がぶつかりあう瞬間――
 ――それは音もなく、突然やって来た。

 小早川金吾の裏切りにより、戦場は混沌と化した。
 味方と信じていた者たちが一斉に刃を向けてきた為に西軍は恐慌を来たし、あるいは怒りに我を失い、当たるを幸いとばかりに武器を振るう。その横腹をここぞとばかりに東軍が突き、戦況は一挙に東軍有利へと傾いていた。
 その状況を見て一番に飛び出したのは、東軍が総大将、徳川家康その人だった。
 目にも鮮やかな黄を地とし、背に徳川の家紋が描かれた陣羽織の頭巾をばさっと後ろに払い、
「はあああ!!」
 裂ぱくの気合いを込めて、燃え盛るような気をまとった拳を大地に叩きつける。
 途端、その足元が円形に凹み、割れた岩が花の開くように周囲に突きあがって、立っていられないほどの地響きとともに、今しも家康を襲おうとしていた兵たちを吹き飛ばした。ひいいいっ、と怯えた悲鳴を上げて逃げ腰になる者たちを見渡し、家康は声を張り上げる。
「戦う意志のないものは降伏してくれ! わしはこれ以上血を流したくはない!!」
「ひ……ひぃぃぃ、お助け……!!」
「ああ、逃げていい。わしはお前達を傷つけはしないぞ!」
 降伏勧告を耳にして背を向けて逃げ出す者たちに少なからずほっとして息を吐いた時、
「HA! 相変わらず生ぬるいことをぬかしやがるな、徳川家康!!」
 荒々しい声が不意に投げつけられる。はっと振り返った先に現れたのは、
「YAHAA! MAGNUM STEP!!」
 全身に青白い雷を纏わせ、大砲のごとき勢いで兵の一群を吹き散らす、独眼竜・伊達政宗だった。
 地面を滑り、ずさささっと砂埃を立てて家康の前で止まった青き竜は両の手に六爪を持ち、意気揚々、闘志に滾る笑みを浮かべてみせる。
「この期に及んで、尻尾を巻いて逃げ出せと言いやがるとはな。いくら優勢になったからってその調子で敵に情けをかけてりゃ、いずれ背中を刺されることになるぜ?」
「そうかもしれないな。だが、もしそういう結末に至るとしても、わしは覚悟のないものを切り捨てようとは思わない」
 答えながら伊達の背後へ目を向ければ、常のごとく、竜の右目が主のもとへとはせ参じるのは見えた。
 彼の出現が意味するものを察して、家康もまた笑う。
「そしてそれはお前も同じだろう? 先鋒の伊予、雑賀の軍は戦い半ばでどちらも兵を退いたと聞いているが」
「HA、そいつは小十郎の采配だ。俺が判断したことじゃねぇ。ま、道の風通しが良くなったんで、わざわざ追いかける必要もなかったからな」
「伊予は小早川の攻撃を受ける大谷の加勢に向かい、雑賀は損害が大きくなった為撤退した模様です。
 毛利は長曾我部と睨み合いを続けている故、今なら石田軍の守りも手薄と中央突破を試みた次第」
 追いついた小十郎が周囲に睨みを利かせながら説明する。
 おおむねの戦況は耳にしていたが、片倉小十郎の見立てであれば、まさしく今が好機に違いない。よし、と改めて拳を握りしめ、家康は前方へと視線を戻した。
 広い関ヶ原を埋め尽くす軍勢を駆け抜けてしばし、残りの道程はわずか。
「ここまで追いついてきたのなら共にいこう、独眼竜。三成を止める役目は譲る気はないが」
「それなら早い者勝ちだ、家康。野郎に因縁があるのはあんただけじゃねぇ、譲れねぇのはこっちも同じだ」
 切れ長の瞳が家康を見据えて、刃の輝きを帯びる。それを怖じることなく受け止め、家康はがちん、と両の拳を打ち合わせた。
「では競争だ、独眼竜! わしが先にたどり着く!」
「HA、言ってろ!!」
 吠えて同時に地面を蹴る。ドッと土柱が立つほどの勢いで体が飛び出し、道を塞ごうとする兵たちをなぎ倒して、石田軍の本陣へと突き進む。「おめぇら! 政宗様に続け!!」背後で自軍の兵へ指示を飛ばす片倉の声を聞きながら、黄と青の弾丸は風のように戦場を駆け抜け、あと少しでたどり着くというところで、
「政宗様! 石田と真田が、あちらに!!」
「!」
「Shit! もう先を越されてたか!」
 緊迫した片倉の警告に地面をえぐる勢いで立ち止まる。差し示された方向へ顔を向けると、そこには槍を手に膝をついた真田幸村と、それに歩み寄る三成の姿が目に入った。
「真田がやられているのか」
「あの猪武者が、逸りやがって……!」
 好敵手の窮地に苛立ちを隠せず、伊達がそちらへ駆け出す。「待て、独眼竜!」逸っているのはどっちだとその背を追いかけようとした時――不意に白い幕が下りてきて、目の前が見えなくなった。
「なっ……!?」
「政宗様!!」
 家康と、同じく伊達を追おうとした片倉が同時に驚きの声を上げる。
 それもそのはず、太陽が昇り切り、つい先刻まで、汗ばむほどに晴れ渡っていたというのに、突然目の前に霞が立ち込め、全く視界が利かなくなってしまったのだ。
「Holy shit! こいつぁ何の幻術だ!!」
「政宗様、そこを動かないで下さい! 今参ります!!」
 見えぬ前方から伊達の悪態が聞こえてくる。それを頼りに駆け出す片倉が横手を通り過ぎるのを見送り、家康は背後を振り返った。
 自分たちが今駆け抜けてきた道はうすぼんやりと見え、驚きどよめく兵たちの鎧や武器が陽光に照らされているのが認められた。
(霧が出ているのはこの辺りだけ……ということは、しのびの目くらましか?)
 だとすればこれは誰の仕業か。
 危機に陥った真田幸村を救うために猿飛佐助が為したものか。風魔小太郎がなにがしかの危険を察知して起こしたものか。あるいは西軍で抱えるしのびの手によるものか。
 可能性はいくつかあり、そのどれもがあり得るもののように思える。だが家康は直観して、指の先さえ見えない白の闇の中へ踏み出し、叫んだ。
「桔梗、お前か! ここに来ているのか!?」

『桔梗、お前か! ここに来ているのか!?』
 その時、三成の耳に飛び込んできたのは、これもまた裏切り者とみなした徳川家康の声だった。
「家康……!」
「徳川殿……桔梗、だと?」
 戸惑いの声を漏らす真田幸村のほとんど見えない姿から、乳白色の霧が漂う周囲へ注意を向け、三成は眼光鋭く気配を窺う。消え去ることのない怒りの矛先は、胸に深く名を刻んだ女へと向かっていた。
 豊臣秀吉の野望を、竹中半兵衛の夢を打ち砕いた、元凶の裏切り者。
 卑賤の者でありながらその腕を買われ、豊臣に重用されていたというのに、その恩を仇で返した憎きしのび。
 三成にとってはいの一番に命を駆らねば気が済まぬ者の一人だ。ここにきてのこのこと眼前に現れるのであれば、願ったりかなったりである。
(これがあの女の仕業なら、必ず仕掛けてくる。来い、首筋を晒してここまで来い……!!)
 先刻まで相手をしていた真田幸村のことなど意識から消え去る。三成はすざっと後ろに飛んで刀を鞘に納め、いつでも抜きはらえるように、体を低くかがめた。だがその瞬間、
「うっ……?」
 ぐらり、と視界が大きく斜めに傾ぎ、たたらを踏む。下げた頭がめまいで揺らぎ、吐き気が腹から急速にこみ上げてきて、
「く……何だ……っ」
 あえいで顎をあげ、空気を求めて荒く息をついた。
 めまいだけではない、心の臓が突然どくんどくんと勢いよく鼓動を始め、全身をカッと熱が駆け抜けたかと思うと、血の気が音を立てて引いて、熱を奪っていく。
『大将、息を止めろ! こいつは毒霧だ!』
 ぐらぐらと振れる視界の中、霧が動いて真田幸村のいるあたりで人影がうごめく。
 その正体を見極めようと踏み出す三成だが、足先がしびれて動きがおぼつかない。
「……ぐっ……」
 せりあがってくる気色の悪い熱に口をおさえ、三成はその場にがくっと膝をついてしまった。毒の霧だというのなら今すぐ脱出しなければと思うのだが、体が少しもいうことを聞かない。
「おのれ……どこまでも……卑劣なっ……」
 ずしゃ、と地面に両手をつき、呻いた。自ら姿を見せず、罠にかけて命を奪おうとするやり口は、紛れもなくあの女の手だ。脱力する体とは裏腹に心が煮えたぎっていく。
(ここに、いるものならば……必ず、息の根を、止めてくれるものを……!!)
 しびれる指を、燃えさかる憎悪を糧に動かして土を握りしめた時、
 ドッ!!
 いきなり肩に重みがかかり、崩れ落ちそうになる。
「なっ、」
 何が起きたと思った瞬間、両脇に何かが滑り込み、ぐいっと肩ごと後ろに腕が持っていかれる。のけぞるほど大きく胸を張った姿勢になり、
「き……さま!!」
 勢いにひかれるまま上方を仰いだ三成は、自分の肩の上に黒い人影――忘れようにも忘れられない、桔梗の無面を目にした。刹那、
「桔梗ぉぉおおおおおおおおおおお!!」
 激怒した三成は腕の拘束を振り払って刀を抜こうとしたが、その動きよりも早く桔梗の足が万力のごとくしまり、
 ごぎんっ
 三成の両肩の骨が鈍い音を立てて外れ、糸が切れたように両手がだらりとぶら下がった。
「ぐあぁぁぁああああっ!!」
 雷が目の前をはじけるような激痛に襲われ、三成は膝を折ったまま仰向けに倒れかかる。
 痛い。力が入らない。息が苦しい。空気を求めて開いた口へ流れ込む毒の霧は、体の中から三成を苛み、冒していく。視界が白黒に明滅する。揺れる。刀は、柄はどこに。錯綜する思考はあちこちへ飛び散り、少しもまとまらない。その曖昧模糊とした夢うつつのさなか、三成は頭上に光を見た。
 光。
 黒い光。
 鋭く研ぎ澄まされた、八寸ほどの針。
 闇の色に塗りこめられたそれを、しのびが指の間に滑り込ませる。仮面の下に目を隠し、心を持たないしのびは迷わない。死の淵をさまよう三成にはゆっくりと見える動作で、しかし実際は目にもとまらぬ速さで、それを標的へ振り下ろし――
「どいたどいたぁ! 前田慶次、まかり通る!」
ゴウッ!!
 だがその光は、無遠慮な名乗りと共に巻き起こった強風に薙ぎ払われ、同時に霧も、その場にいたもの達全てが、なすすべもなく吹き飛ばされてしまったのだった。