大地が揺れる。猛りきった
鋼がはじけ、怒号と悲鳴が響きわたり、地は倒れ伏した男達の血を吸って赤く染まっていく。戦いの火蓋が切って落とされた東西の大合戦はとどまることを知らず、刻一刻と激しさを増し、関ヶ原を修羅場へ塗り替えていった。
この地に集ったものは皆、理解していた。長く続いた戦乱の世、その勝者を決定づけるのが、この戦をくぐり抜け、最後まで生き抜いたものなのだと。故に、上下の主従関係さえ踏み越え、日の本全てを手中におさめんと、誰も彼もが目の色を変えて命がけでこの戦場に臨んでいた。
だが、しかし――雄々しく戦う主戦場より距離を置いた、砦の内。西の旧豊臣勢と東の徳川勢、その合間に座した一軍は、戦の開始を告げるホラ貝の音があがってもなお、出陣の気配さえ見せていなかった。
西軍の一翼を担う大勢でありながら、未だ身じろぎせぬその一派は――小早川金吾率いる軍勢であった。
「……あぁ、どうしよう……どうしよう、どうしよう……!!」
頻々と鳴り響く戦の轟音の中、気弱な声が情けなく立ち上る。
違い鎌を描いた陣幕に身を置いた金吾は、大将という地位には不釣り合いなほどの狼狽えぶりを見せ、おろおろと歩き回っていた。
「殿、いい加減に腹をお決めなされ! このままでは東西どちらが勝とうと、小早川は座して何もせぬうつけ者とそしられ、断絶の憂き目に遭いますぞ!!」
右往左往する若殿にしびれを切らし、壮年の家老が決断を迫る。一喝された金吾はヒィッ! と身をすくませてしまった。
「わ、わわ、わかってるよぉ……で、でも、三成くんを裏切ったりしたら、きっとすっごく怒るに決まってるし……」
「この期に及んで何を仰せか! 妄執に駆られ、猪突猛進に仇敵をうたんとする石田三成に、いかほどの天意があるとお思いか。
それに徳川家康殿は直々に、しかも単身、我らの元へ同盟を申し出に来られたのですぞ。かの御方が語られた理想の未来(さき)に、殿も共感なさっておいでだったはず」
「それは、そうだけど……」
人差し指同士をつきあわせ、金吾は気弱に呟く。石田に引きずられるようにして今日という日を迎えたが、その心中は未だ迷いのただ中にあった。
豊臣時代からずっと、小早川家はその力に屈服し、隷従状態で仕えてきた。
過酷な戦に引き出されるたびに国は疲弊し、藩の中では常に豊臣への不満が渦巻いていた背景がある。そのため、豊臣秀吉が没したという報が知らされた時は、密かに祝杯を挙げるものも少なくなかったほどである。
ところが、秀吉亡き後を石田三成が継ぎ、これまで以上に無体な従属を強いられる羽目になった。
その原因の一つには、若き当主たる金吾があまりにも心弱く、戦を好まぬどころかしっぽを巻いて逃げ出すような臆病者で、そこを石田にまともに踏みつけにされてしまったが故なのだが……ともあれ、一時枷から逃れたと呵々大笑した小早川は、これまで以上の圧力をかけられ、よりいっそう憤懣を募らせた。
秀吉没後、やせ衰えた国に一層の忍従を強いる石田に、弱者の怒りが爆発しかけたそのとき――徳川家康が、密かに同盟を申し出てきたのである。
「徳川殿が思い描く戦のない世こそ、殿が望んでおられた国の姿。さらに徳川殿はその理想に共感するもの達を集め、今日この場、西軍に比して東軍と称されるほどの軍勢を率いられるようにまでなったのですぞ」
家臣が熱を込めて語るのも、石田の圧政に飽き、徳川との同盟を何とか成就させようと懸命に働いたが為である。後は総大将たる金吾の承諾さえ得られれば、勝利は約束されたも同然だ。
「今この時にお味方せねば、東軍が勝利を得た時、我らの立場は非常に危ういものになりますぞ。殿、なにとぞ、なにとぞご決断を……!!」
「う、ううん……」
血走った目で詰め寄られ、金吾の心の天秤が傾き始める。
もとより秀吉への忠誠心は薄く、石田と大谷に抱くは恐怖心のみ、一方の皿に乗るは徳川家康の誠意あふるる助力の誘い。心情によれば、どちらに偏るかは自明の理であった。
(でも……今裏切ったら、近くにいる三成君がこっちに攻め入ってくるかもしれないし……もしそうなったら、家康さんが助けてくれるまで、持ちこたえられないかも……)
未だ優柔不断に視線を迷わせる金吾は、視界の端に鋭い光をとらえた。
「ん?」
何だろう、と顔を向けた先は、陣より離れた小高い丘の上。西軍にほど近いその場所に、小山のような影がある。
否――影ではない。
陽光に反射するのは、黒光りする大砲の二筒。それを背負うは、
「たっ、忠勝さっ……」
その筒先がこちらを向いている事に気がつき、色を無くした金吾が声を上げようとした時、
……ひゅううう……どぉぉんっ!
地鳴りの後、烈風が顔の両脇を吹き抜け、次の瞬間、背後で爆発が起きた。
「うわぁぁぁぁっ!!!」
「ひいい!!」
わき起こった爆風で、その場にいたものが蜘蛛の子を散らすように吹き飛ばされ、陣が崩れる。まともに風を受けた金吾は数条とばされ、
「ぷぎゃっ!!」
顔面から地に墜落し、そのままごろごろ転がってべたりと伸びた。い、いててと呻きながら起きあがるも、振り返った背後は轟々と火の海と化しており、
「う、うう……」
「ああぁ……」
砲撃に巻き込まれた兵達が死屍累々とうめき声を上げている。
「え、えぇ……な、何で……どうして……っ!?」
よろよろ立ち上がり、金吾は近くに倒れ伏す兵に近づくも、その手がべったりと赤く染まっているのを見てひるんだ。
「ど、どうしよう、このままじゃ皆死んじゃうよ……!!」
さらに動揺して悲鳴を上げる。それを煽るかのように、
ごぉぉぉ……がしゃんっ!!
耳慣れぬからくり音が聞こえた……否、聞こえた気がした。
「ひっ……」
のどの奥で悲鳴を漏らし、金吾は慌てて降り仰ぐ。先ほどと全く同じ場所で、本多忠勝が屹立していた。黒い砲塔は迷いもなく金吾を狙い続けている。
まるでこれ以上惑う事を許さぬと言うように――答え違わば、撃ち滅ぼさんと言うように。
「う……う、うああ……」
血の気が引く。体が恐怖に冷える。金吾は青ざめて後ずさり、ひきつる喉から叫び声を発した。
「待って、みっ、三成くんを裏切るよ! だから許してえっ! みんな、早く、早く三成くんを攻撃してぇーーー!!!」
「金吾が裏切っただと……!?」
小早川軍が反旗を翻したとの報は速やかに広がった。それを耳にした石田三成は
「貴様、それは
殺気をみなぎらせて牙をむき出す。眼前に詰め寄られ、兵は真っ青になって縮み上がりながら、
「は、ま、間違いございません! 現在小早川隊は大谷様の隊を攻撃しており、その勢いは止むことを知りませぬ! このままでは多勢に無勢、一刻も早く救援を……!」
「おのれ……おのれ、金吾!!」
使いの男を投げ捨て、三成は刀を握りしめて戦場へ向き直った。
「戦には段取りがある。合図があるまで総大将たる三成は奥に控えやれ」刑部に懇々と説得され、苛立ちながらも出陣を待っていた三成は、鬱積した憎悪に目を光らせ、
「許さないっ! 許さない!! この世の全てを許しはしないィィィィッ!!!」
痩身をのけぞらせ、腹の底から怒りの叫びを吐き出した。そして憤激に突き動かされるように、
「金吾ォォォォォッ!!!」
怒号をあげながら地を蹴り、一足飛びに戦場へと踊り出た。
「三成様、お待ちください! 御身だけでは……!」
「み、皆の者、三成様に続くのだ!!」
自軍の兵を押しのけ、前線へと矢のような速さで駆ける三成に驚き、豊臣軍に混乱の波が走る。だがその一切も目に入れず、三成はひたすらに急いた。
(刑部、私のそばを離れる許可などしない!!)
豊臣亡き後、ずっと共にあった存在。刑部は三成にとって、在って当たり前のものであり、失う事など夢想だにしなかった。そばにいる事を許したのは、刑部の力が、能力が、豊臣に役立つものと判じた故だ。
とうとう今日この時、秀吉の無念を晴らす好機が訪れたというのに、忠臣の一人として尽くしてきた刑部が、裏切り者の手にかかって倒れるなど、断じてあってはならない事態だった。
「あれを見よ、石田三成だ!」
「おおおおお、討って手柄と致せ! 西軍の大将首よ!」
視界から豊臣と石田の旗印が消え失せ、北条や最上のそれが取って代わる。単身飛び込んできた敵軍の将に目の色を変え、我も我もと兵が群がる。だが、
「雑魚など塵にすぎない……死に絶えろ!!」
憎悪が青白い刃となって光り、押し寄せる軍勢に襲いかかった。一太刀に見えたそれは、しかし次の瞬間、何重にも折り重なった斬撃となり、悲鳴と血しぶきをまき散らして数百の群を一息になぎ払う。
石田三成……凶王だ……凶王
断末魔と恐怖の悲鳴が三成を取り囲み、渦巻く。おそれおののいて後ずさる敵兵どもをねめつけ、三成はぎしり、と歯ぎしりした。
「この期に及んで、命を惜しむか……逃れるくらいなら玉砕しろ! 貴様らのその刃、私の憎しみに勝れりと驕るのでなくば、今すぐ私の前から去れ、消え失せろ!!」
人の壁が厚い。刑部と裏切り者の戦場までまだ届かぬ。怒りと焦りに身を灼かれて怒号を発する三成の気迫に押され、さらに輪が広がる。と、
「……待て待て待て、待たれぇぇぇいい!!」
先の三成の絶叫に倍増す大声が響きわたり、一騎の侍が人垣を飛び越えて目前にどしんと着地する。荒ぶる駒の上に立ったその若武者は、
「とうっ!」
鞍を蹴って宙を舞い、三成の前へ立ちはだかった。貴様、と三成は目を見開く。目障りなほど鮮やかな朱塗りの陣羽織、その手に握るは同じく赤き十文字の二槍――単独で相対するはこれが初めてだったが、三成は目の前の男が誰なのか理解していた。
「貴様……貴様ァァァ……」
新たに燃え上がる憎悪に言葉が告げなくなるほど、喉が干上がる。炯々と目を光らせてあえぐ三成に切っ先を向け、
「武田が総大将、真田幸村! 虎の魂をもってして、貴殿を討ち果たさん!! いざ尋常に勝負、石田三成殿!!」
甲斐を背に負った若武者は意気軒昂に、堂々と名乗りを上げたのである。