それは、二度と聞きたくない名だった。
「やぁ、片倉殿! 独眼竜は……」
徳川の言葉の後は聞こえなかった。胸が痛むほどに弾み、ざぁと血の気が引く。視界に映るその男は、決して会いたくはない相手だった。
「……っ!!」
自分の姿をとらえて驚愕の表情を浮かべる男。その眼差しから逃れたくて、とっさに身を翻した。客人の出迎えに立ち並ぶ兵達の前を駆け、あっという間に城の中へと飛び込む。
(失敗した!)
走りながら悔やむ。石田の首を
(どうして考えなかった、奥州の面々と遠からず顔を合わせる事になると)
単純に忘れてしまったわけではない。ただ、あの地のことを考えまいと敢えて避けた故に、伊達と徳川の同盟の事まで、心の奥にしまいこんでしまったのだ。
(嫌だ、会いたくない)
思いがけない再会がもたらしたのは混乱と恐れだけ。感情にのみ突き動かされてあの場から逃げ出したが、侍女姿では足にまとわりつく裾が邪魔だ。しのび装束に着替えて天井裏に逃げ込めればいいのだが、城内には行き交う人が大勢いて、人目につく。
(誰もいない場所へ、早く……!)
とにかく、一人になりたい。その一心で駆けに駆ける。ぶつかりかけて悲鳴を上げる女中、勢いに驚いて道をあける小姓、無礼者と怒鳴りつける侍、それらを全て後ろに置いていき、階段を駆け上がり、ようやく無人の廊下へ出る。
(人の来ないところに)
それのみ思いこみ見回した先に、木の板を外に開き、棒で支えている窓があった。
(そうだ、屋根の上なら)
まず、普通の人間は来ない場所だ。あそこなら誰の目を気にすることなく、落ち着けるだろう。そう思い立って、一足飛びに窓にとりついた。ぐっと身を乗り出した時、
「朝顔!」
突然腕を捕まれ、力任せに引っ張られた。不意をつかれ、よろけながら振り返った先にいたのは――竜の右目、片倉小十郎。
「あっ……」
引かれた勢いで飛び込みそうになった相手の胸に手をつき、朝顔は息を飲んだ。息を乱した小十郎に常の落ち着きは微塵もなく、血相を変えてこちらを見据えている。
(右目の、旦那)
その表情が、その声が、こちらの腕を掴む手の力強さが、服越しに掌へ伝わってくる鼓動の確かさが――何もかも、全て忘れてしまおうと心の奥にしまいこんで、
(もう一度、会いたかった)
それでもそう願わざるを得ないほどに焦がれた、小十郎そのものだった。
(どうして)
朝顔は胸が締め付けられるほどの歓喜と、足下が崩れ去るような絶望とに襲われ、顔を歪めた。
なぜ、追いかけてきたのか。放っておいてほしいのに。
発作的にその言葉が出掛かった時、小十郎の方が先に口を開いた。
「朝顔、おめぇ……ここで何をしている? 徳川に取り入って、何をしでかすつもりだ」
(……あ……あぁ、そうか……そうだね……)
とがった言葉を投げつけられ、頭に上った熱がすうっと引いた。
そうだ、何を一人で感情的になっているのだろう。小十郎にとって自分は、素性の知れないしのびにすぎない。奥州に忍び込んだ次は、同盟を結んだ徳川の中で何かをしでかすのでは、と疑うのは筋というものだろう。
(あたしは何を考えてたんだ。このお人が、殿様を放って女を追いかけてくるなんて、あるはずないだろ)
歓喜と引き替えに冷えた心の中、浮かんだ理性的な考えは、しかしとげを含んで胸をちくちくと刺す。ぐっと唇を噛み、朝顔は胸についた手を離して俯いた。
「……あたしがどこで何をしようと、右目の旦那には関係ないだろ。離しとくれ」
そういって振り払おうとしたが、小十郎は腕を離そうとしない。朝顔の言葉に顔をしかめ、なお手に力を込める。
「関係ねぇ、だと?」
「そうさ。あぁ、もし何かしでかすんじゃないかと心配してるんなら、安心おしよ。あたしは今、徳川に雇われてる。そっちとは今同盟を結んでるんだ、悪さなんてしやしない。だから、そう目くじら立てて詰め寄るもんじゃないよ」
実際は徳川に雇われているわけではないのだが。つらつらと語る言葉が真実に聞こえればいい、と願いながら紡いだが、小十郎はますます険しい表情になり、
「嘘をつくな」
きっぱりと言い放つ。言葉の強さにぎくりとする。しかし長年培った平静の面を崩す事なく、朝顔は口を歪めて笑った。
「嘘? 何言ってるんだい、右目の旦那。あたしは嘘なんか――」
「おめぇはしのびをやめたと言っていた。今更、好んでそっちに戻るとは思えねぇ」
「そんな事、言った覚えはないね」
佐助とかすが以外に、それを告げた人間はいない。それ故に否定の言は揺るぎなかったが、小十郎は首を振る。
「石田三成と戦った後、おめぇは確かにそう言った。怪我で朦朧としてたからな、覚えちゃいねぇかもしれねぇが」
(あの時は……どうだったか、確かに記憶が曖昧だ)
しのびの
(もしぺらぺら喋ったのなら、情けない事だ)
舌打ちしたい気分だったが、朝顔は平然と続ける。
「さぁ、どうだったかね。何にしろその時はその時、今は今。払いの良い雇い主がいりゃ、しのび仕事に戻るのだってやぶさかじゃあないよ。これでも引く手あまたなもんでね」
「……具合は」
納得できない、と言いたげな表情のまま、小十郎が呟いた。少し柔らかくなった声音にふと視線を上向かせ、朝顔は後悔した。
「具合は、どうなんだ。――怪我は治ったのか」
小十郎の表情には、迷いと共に心底からの労りが浮かび、朝顔の胸に刺さる程に、優しい。
(いやだ、やめて。そんな顔で、見ないで)
労りも優しさも欲しくない。そんなものを与えられては、離れがたくなる。己のような薄汚い人間に、その思いを受け取る資格など、ありはしないのに。これならいっそ、怒りを、蔑みをぶつけられる方が、余程気が楽だ。朝顔は、ぎり、と歯を食いしばり、
「……今まさに怪我しそうだよ。その手をお離しったら!」
声を限りに叫んで、力任せに腕を振った。
「!」
突然暴れ出したのに驚いたのか、小十郎が軽く目を瞠る。しかし手の力を緩めず、逆に朝顔のもう片方の腕もつかみ、ぐいと引き寄せてきた。
「落ち着け、朝顔! 俺は、おめぇを傷つけるつもりはねぇっ」
(近寄らないで)
距離が近づき、小十郎の鼓動が、息づかいが間近く耳に響いて、ますます息苦しくなる。体が震える。
「……朝顔。おめぇは、石田を討つつもりか」
これ以上、聞いてはいけないと思うのに、逃げられない。目を合わせまいと頑なに俯く朝顔の上から、気遣わしげな小十郎の声が降り注ぐ。
「政宗様への文を見せて頂いた。おめぇは奥州を守る為に、奴を倒すつもり、なんだな」
「…………」
再見すまいと決めたからこそ、あの文には真実を綴ったのだが、あんなもの残さなければ良かった。せめてここでは口にすまいと、黙りを貫くこちらに構わず、小十郎は続ける。
「もし、そのつもりなら……奴を倒すのは、政宗様であり、この俺であり、奥州そのものだ。おめぇがただ一人で、背負う必要はねぇ」
「…………」
「石田との因縁に決着をつけた後、政宗様は必ず天下を統べられるだろう。そうなればおめぇのように、戦に苦しむ者はいなくなる」
「…………」
「もう人が死ぬ光景を見たくねぇというのが、おめぇの本音なら、朝顔……奥州へ、来い。
「……知ったふうな口を」
震えが増していく。喉にこみ上げてくる熱い固まりに息が詰まり、視界が揺らぐ。
「知ったふうな口を、きくんじゃないよ……」
小十郎は優しい。その優しさが辛い。キッと見上げた目の端から涙がこぼれ落ちる。
「そんなに言うならあの時、抱いてくれりゃよかったんだ!」
「!」
「そうすれば、あたしはっ……」
(あたしは何も考えず、あんたの草になれたのに)
小十郎の願うままに生き、願うままに死ぬ、今までと同じ草の生き方ができたのに。
「朝顔、おめぇ、つっ!」
驚きに鋭く息を飲んで前のめりになる小十郎。その一瞬、朝顔は力任せに相手の足を踏みつけた。小十郎が虚をつかれて顔をしかめ、手の力が緩くなる。
「シッ!」
その期を逃さず、朝顔は腕を振り払って、窓から屋根に飛び出した。木板が壁に跳ね上がり、棒がからから音を立てて屋根を転げ落ちていく。踏みつけた瓦がかしゃん、と立てた音が消えるよりも速く、上へ上へと駆け跳ねた。後ろから小十郎の呼び声がかかった気がしたが、あえて聞こえぬふりをして、あっという間に天守閣までたどり着く。
「っ、はぁ、はぁ、はぁっ……」
動きにくい着物の裾をめくりあげ膝をつき、鯱によりかかってあえぐ。これまでに経験した事のないような激情に襲われた余韻で、頭がぐらつき、胸の骨の奥で、心臓が音を立ててわななく。
(……今更、遅いんだよ。右目の旦那)
落ち着かねば、と息を整えながら、朝顔は思う。今更優しい言葉をかけられても、取り返しはつかない。
奥州を離れたあの日。もし小十郎が抱いてくれたら、自分は小十郎の草になろうと思った。小十郎が望めば敵を山となるほどに殺し、欲しいと言われればいくらでも閨に侍り、死ねと命じられれば自害することも厭わない、そんな草になろうと考えていた。
(あたしはもう決めたんだ)
だけどもし、小十郎が自分を拒んだら、その時は。
その時は――小十郎を、守ろうと決めた。
(あんたの命を。あんたが大切に思っているものを。あんたが思い描く未来を)
その全てを守ろう、この草の命を賭してでも必ず守り通そうと、そう決意したのだ。
(……そのために、ここまで来た)
唾を飲み込み、朝顔はその場に立ち上がった。
ひゅうと風が吹き抜け、髪がなびく。
目にひっかかった前髪をはずして見下ろした先には、城の周囲に数え切れぬほど並ぶ旗頭。
風に靡く旗は徳川十万のもの。そしてその同盟軍を含めれば、天下に比類無き大軍がどこまでも眼下を埋め尽くしている。
整然と並ぶ長槍の列がきらりきらりと光をはじくのに朝顔はすうと目を細め、
(もう誰にも止められない。――石田の首をとるのはあたしだ)
さらに先を見据えた。大軍と森を隔てたその彼方にあるのは、広大な荒野――関ヶ原である。