「なるほど……今回の件については、よく分かったよ。報告ご苦労様、桔梗君」
豊臣軍が現在の拠点としている大阪城。その一室で文机の前に座した半兵衛は、いつもと変わりなく落ち着いていた。逆にその冷静さに居心地の悪さを覚え、女中姿の桔梗は俯いてしまう。
「申し訳ありません。私の力では、秀吉様をお止めすること叶わず……」
あの後、敵軍に単身で飛び込んだ秀吉を守らんと、自軍の兵も攻撃を開始した。もはや逃げきれぬと悟った敵軍も死にものぐるいで抗戦したため、敵味方入り乱れての乱戦となり、結果、豊臣軍も少なからず損害が出てしまった。いらぬ手傷を負ったこともさることながら、半兵衛の指示に反する結果になってしまった。桔梗には消え入りたいほどの失態である。
だが、半兵衛は一つため息をついただけで、白皙の美貌から憂いを消して、穏やかに微笑む。
「いや、構わないよ。少し予定が変わったけれど、問題はない。今回の件で彼らも、豊臣を敵に回す事の愚かさを、身にしみて分かっただろう。始めに言った通り、君に向こうへ書状を届けてもらうよ」
「はっ、お任せください」
三度目の降伏勧告は、桔梗が相手方へ直接出向く手はずになっている。豊臣の名代となれば責任は重大だ、気を引き締めてかからなければ。腹に気合いを入れながら、桔梗は続けた。
「半兵衛様、秀吉様を襲った男についてですが、尾張の杉原家の者でした。豊臣により家をとりつぶされた事を恨みに思っていたようで――」
だが、その報告は途中で遮られた。不意に半兵衛が、
「桔梗君、その男について調べたのかい」
鋭く言葉を投げかけてきたのである。予想外の反応に、桔梗は思わず目を丸くした。
「はい、それはもちろん……」
自軍が背走にあるただ中、単身、秀吉に向かって銃を放つ。そんな無謀な事をしでかした男が現れたのだ。その背後関係を調べ、後顧の憂いを断つのは当然だ。普段の半兵衛ならば、桔梗の行動を誉めこそすれ、咎め立てなどしないだろう。
しかし今、半兵衛は表情を厳しくして桔梗に向き直り、
「忘れるんだ」
強い口調で命じてきた。
「……は?」
その意図が理解できず、桔梗はつい短く反問してしまう。青年軍師は鋭利な眼差しで、もう一度繰り返した。
「その男の事は忘れるんだ。処理は全て僕がする。今回の件は、秀吉の耳に一切入れないでくれ」
半兵衛の指示は絶対だ。一言応、と答えれば良い。頭ではそれが分かっていたが、桔梗は一瞬、言葉に詰まった。
(どうして)
「分かったね、桔梗君」
問いかけ顔の桔梗に念を押す半兵衛。その目を見返せず、桔梗は視線を下げた。
(どうして、あの「名」にこうまで、過剰に反応するのか)
かねてより胸の奥に潜んでいた疑問が蘇り、畳の上についた手をぎゅ、と握りしめる。しばし迷った後、桔梗君、と返事を促す半兵衛の声をきっかけに、思い切って顔を上げた。
「半兵衛様、お聞きしたい事がございます。秀吉様はねね様について、どうお考えになっておられるのですか」
「!」
反問されるとは思わなかったのか、半兵衛が切れ長の目を見開く。勢いに任せて桔梗は言葉を連ねた。
「今回、秀吉様に銃を向けた男がいた杉原とは、ねね様の生家でした。ねね様は杉原の家から秀吉様――当時は木下藤治郎と名乗っておられた秀吉様へ嫁がれ……」
「桔梗君!!」
バン!
机を叩く大きな音が響く。しかしそれよりも半兵衛の怒声に驚き、桔梗は息を飲んだ。真っ白な肌に今は血の気を上らせ、半兵衛は怒りを露わに桔梗を睨みつけている。
「差し出口をきくものではないよ。いいかい、桔梗君。その件については――ぐっ!」
今まで聞いた事もない荒い声で言い募る半兵衛。しかし話の途中で突然、彼は胸を押さえて息を詰まらせた。
「うっ、げほ、げほげほっ……!!」
「半兵衛様!」
そのまま激しくせき込み始めたので、桔梗は驚いてそばに駆け寄る。震える背中を手でさすりながら顔をのぞき込み、
「半兵衛様、お気をしっかり……」
声をかけたが、そこでハッと息を飲んだ。口に当てた半兵衛の手に赤いものがちらりとかいま見えたのだ。
(血を吐いてる!?)
「い、今、薬師を呼んで参ります!」
尋常ではない様子に立ち上がろうとする。が、不意に腕を捕まれた。
「あっ?」
ぐん、と力任せに引っ張られて、どすんと不格好に膝をつく。ハァハァと息を乱す半兵衛の顔が間近に迫り、桔梗はぞっとして身震いした。
(死のにおいがする)
今まで数え切れないほど接してきた死。それが今、半兵衛の顔に青白い影を落としているのをはっきり感じ取れる。
「は、半兵衛様っ」
この人は、いつの間にこれほど弱っていたのか。恐れおののく桔梗の腕を、半兵衛は強く掴んだ。
「っは……い、いいかい、桔梗君……これは、絶対に、口外するんじゃ、ない……」
「ですが……」
「口答えはっ、許さない……!」
「っ……」
ぎりっ、と折れそうな程強く腕を握りしめられ、顔が苦痛に歪んでしまう。それを見た半兵衛は、はぁっと大きく息を吐き出して、俯いた。さらさらと銀糸のような髪が滑り落ち、その表情を覆い隠す。
「……桔梗君……君は、今まで通り、僕の言うことを、聞いていれば、いいんだ……ねねの件も、僕の体の事も……君が、関わる必要は、ない」
「…………」
そういわれては、返す言葉がない。力が弱まったのを機に、桔梗は半兵衛の手からそっと逃れた。廊下まで下がって、
「……申し訳ありません。出過ぎた真似を致しました」
深々と平伏する。ようやく息を整えた半兵衛は、懐紙で血糊を隠すように拭いながら、
「――明朝、使者として向こうへ行ってくれ。良い成果を期待しているよ」
弱々しいが、普段通りの落ち着いた声音で命じる。桔梗はハッ、と短く答え、これ以上半兵衛を煩わせまいと、その場を素早く辞した。
……辞したはいいが、今の出来事をそう簡単に忘れられる訳がない。
(半兵衛様、病を患っておられるんだろうか)
廊下をひたひた歩きながら、桔梗は物思いに耽った。目にも鮮やかな赤を思い出し、いつからあのような血を吐くようになったのかと、眉根を寄せてしまう。
(色白で線の細い、男でなけりゃまるでお
これで病持ちときたら、美人薄命という言葉が似合いすぎるほどだ。しかし喀血するほどの病状を、そば近くに仕える桔梗にさえ悟らせずにいたとは。
(秀吉様はこの事をご存じなのかね)
思った直後に、否と断じる。敵に対しては容赦なくその力を振るい、恐れられている覇王だが、秀吉は半兵衛を唯一無二の親友として、たいそう大事にしている。もし彼が病に苦しんでいると知れば、すぐさま休養をとらせ、日ノ本一の医師や良薬を山のようにあてがう事だろう。
(あるいはそうなると思って、半兵衛様も黙ってるのかもしれない)
天下統一の大事業は着々と進んでいる。秀吉の武と半兵衛の智、そのどちらも豊臣軍に無くてはならないものである。もしどちらかが欠けてしまえば、たちまち頓挫してしまうだろう。
秀吉の大望を叶える事を至上としている半兵衛であれば、己が身の不調を省みる暇があれば、国の一つも落とすのが先、と考えても無理はあるまい。
(お伝えすべきだろうか)
分がすぎる事ではあるが、半兵衛の不調は軽視出来ない。後で半兵衛から叱責を受けようが、秀吉に進言すべかもしれない。そう考えたところでしかし、先の戦の光景が頭をよぎり、つい足が止まった。
(……ねね様、か)
襲撃者の素性を調べていて、ようやく分かったその正体。それは秀吉の亡妻だった。
杉原家より、秀吉に嫁いだねね。下級とはいえ武士の家であったにも関わらず、農民の男と寄り添うたのは、ねねが秀吉を深く愛し、秀吉もまた同様だったという。
(でも……じゃあなんで、名を聞く事さえ厭うんだろうね)
もののついでに調べたので、ねねが秀吉と添い遂げた事、そしてちょうど桔梗が秀吉と出会った頃に亡くなったらしい、という事までしか分からなかった。
しかし秀吉も半兵衛も、ねねは禁忌として、普段全く口にしない。秀吉にはこれっぽっちも女の影が無いものだから、今回杉原の者を調べるまで、桔梗は秀吉が妻帯していた事さえ、知らなかったのである。
(愛しい女だからこそ、思い出したくないんだろうか)
名を耳にすれば、生前の思い出が蘇るだろう。それが秀吉をして、絶望的な怒りに駆り立ててしまうのかもしれない。
(……でも、何だか……少し、不自然な気がするよ)
知らず知らず、自分の両腕を抱えながら、桔梗はゆるゆる歩き出す。
(あの男は、何と言ってたか……)
杉原の者は戦場で秀吉にまみえた時、何か叫んでいた。その後に起きた秀吉の暴走の方が強く印象に残っているため、男が何を言っていたか、桔梗は思い出せない。だが、何か、聞き捨てならない事を言っていたような気がする……。
そうして記憶を探りながら、廊下の角を曲がった時、
「あっ」
「!」
どん、と壁にぶつかってしまう。しまった、考え事に集中していて、人の接近に気づかなかった。しかも相手が、大一大万大吉の胸当てを身につけている事を見て取り、
「失礼致しました、石田様!」
桔梗は素早く下がって頭を垂れる。相手――青年武将、石田三成は、こちらを見下ろす間を置いた後、
「――ふん」
鼻を鳴らしてそのまますたすた通り過ぎていく。そっと顔をあげた桔梗は、痩身の背中を見送り、一つため息をついた。
(相変わらず、愛想の無い事)
あの男はいつ顔を合わせても、露骨に嫌悪を露わにするものだから、桔梗もあまり近づきたいとは思わない。
(まぁ、誰に対してもあんな感じだけどさ)
唯一絶対の存在である秀吉、その腹心たる半兵衛以外は塵芥にすぎない、と公言するような男だ。その苛烈さ故に味方といえば大谷吉継や、このほど豊臣に下ってきた徳川家康くらいで、むろん敵の方が多い。
(こっちの仕事の邪魔をしなけりゃ、どうでもいい。あっちがあたしを嫌うのも、子供じみた焼き餅みたいだしね)
石田は、桔梗のような怪しげなしのびが、敬愛する主のそばにいるのが、とにかく気に入らないらしい。だから顔を合わせるたびいつも、けんもほろろな態度をする。
だが一方で桔梗の腕は認めているらしく、「貴様の手腕を秀吉様の為、余すところなく振るえ」と居丈高に命じてもくる。どちらにしても、石田の基準は秀吉に利するか否かという一点しかなく、そういう意味では単純でわかりやすい男でもあった。
(……もし、石田だったら)
再び歩き出しながら、桔梗はふと思う。
(もし石田があたしの立場なら、どうするだろうね)
秀吉の亡き妻への思い。
半兵衛の体の不調。
石田はそれを知っているのだろうか、知らないのだろうか。もしすでに知っているのなら、あの男はなにを思い、どう行動しただろうか。
(……草が考えるような事じゃない、けど……)
桔梗はまつげを伏せ、肘を抱えた手に、ぎゅっと力を入れた。半兵衛につかまれた腕はまだ、じわりと痛みを訴えている。