「……し……吉……秀吉、どうか目を覚ましてくれ、秀吉……」
「うっ……むぅ……」
切実な声が、意識を呼び起こす。暗がりから不意に引きずり出され、秀吉は呻いた。開いた視界は明るく、眩しさに目を射られて顔をしかめる。 またもや、目を覚ました時の光景は一変していた。視界に映るのはあばら屋ではなく、整然と並ぶ格子の天井と、ちりひとつなく清潔な部屋。そして己の脇に控えているのは親友、竹中半兵衛だった。
「あぁ、秀吉。良かった、気分はどうだい」
秀吉と目があうと、半兵衛は安心した様子で表情を和らげた。軍を率いる時は、冷徹な印象を与えるほどに整った容貌だが、今は人間的な暖かみが溢れる。
「半兵衛……俺は……どうしたのだ……」
見慣れた顔に緊張がほどけていくのを感じながら、秀吉は問うた。
自分はどうやら、どこかの部屋に横たえられているらしい。ぼろぼろになっていた服は着替えさせられ、汚れも綺麗に拭い落とされている。先ほど眩しいと感じたのは行灯の光で、今は夜のようだ。
半兵衛は秀吉の額に乗せていた手ぬぐいをとり、桶の水に浸しながら、穏やかに答える。
「君が約束の日時になっても、戻ってこなかったものだから、迎えに行ったんだ。小屋の下敷きになっているのを見つけた時は、驚いたよ。それに、これだ」
そう言って差し出した平箱には、針が三本収まっていた。漆塗りの箱の中で黒光りするそれは、得体の知れないあの女に突き立てられたものだ。半兵衛は柳眉を潜め、
「医師に調べさせたんだけどね、この針には強力な毒が塗ってあった。君は並はずれて身体が大きいから助かったけれど、普通の人間だったら、即死していてもおかしくないほどの猛毒だそうだよ」
「…………」
「秀吉。もしかして、君の命を狙う刺客でも、現れたのかい? いったい何があったのか、教えてくれないか」
「…………」
語ろうと口を開きかけた秀吉は、しかし言葉を発しなかった。我を失い、他人に助けられた事だけでも屈辱であるのに、その者を殺そうとしてしっぺ返しを食らったなど、あまりにも無様だ。いくら半兵衛であろうと、その失態を物語るのは、躊躇いがある。
「……案ずるな、半兵衛。その者は二度と、俺の前には現れまい」
強い語調でそう断言し、その話を打ちきった。半兵衛は、納得がいかない、と言いたげに少し間を置いた。が、結局表情を和らげて「そうか、ならいい。とにかく、君が無事で良かった」と応えるに留めた。そして微笑み、
「それで、秀吉。……少しは、気が済んだかい?」
静かに尋ねてきた。
「……うむ」
半兵衛が何を指しているのか察して、秀吉は唸るように答えた。
秀吉は三日前、相応の覚悟を持って殺した妻の悪夢を振り切れず、悶々としていた。次に進まねばならないのに、心は弱り、己さえ傷つけるほどに苦しむ秀吉に、考える時間を与えてくれたのは半兵衛だ。
(そうだ。俺は生まれ変わったのだ)
我を失うほどに暴れたお陰か、頭のもやは、だいぶ晴れたように思える。夢の残滓を振り払い、秀吉は床から起きあがった。大丈夫かい、と気遣わしげに声をかけてくる半兵衛を見据え、拳を握りしめて誓う。
「半兵衛。俺は……いや、我は今日より、豊臣秀吉と名乗る。我はこの手で天下をつかみ取り、堕落しきった日ノ本を、世界に名だたる強国へ生まれ変わらせる覇王となろうぞ」
秀吉の決意を聞き、半兵衛はしっかりと頷いた。
「あぁ、分かっているよ、秀吉。君の夢は、僕の夢。君が描く強き国の絵図を、僕も見てみたい。その為に僕も、全力を尽くして君の手伝いをさせてもらうよ」
その第一歩に、と半兵衛は手で周囲を示した。
「君にこの稲葉山城を捧げようと思う。今日からは君が主だ。今はまだ小さな一歩だけれど、ここを足がかりに、天下を食らいつくそう」
「何と……半兵衛、さすがに手際の良い事よ」
稲葉山城と言えば、半兵衛が仕えていた主のものである。しかしその主は半兵衛の器量を使いこなす事が出来ぬ愚か者で、いずれ出奔してしまえ、と秀吉は幾度となく友に忠告したものである。
そのたびに半兵衛は笑って「愚者といえど、使い道はいくらでもあるものさ」と言っていた。その狙いは主の城を奪い、ただの農民に過ぎない秀吉に拠点を与える為だった、という訳だ。
秀吉は床で身を起こすと、半兵衛の肩に手を置いた。
「半兵衛、貴様は得難き軍師よ。頼りにしているぞ」
これから後、己が歩む険しい覇道も、この男が共にいるのならば、心強い事この上ない。感謝の心を込めてしみじみ告げると、半兵衛は暖かい声音で、
「もちろんだよ、秀吉。僕の命は、君に捧げるつもりさ。それに天下を獲るための策はもう、僕の頭の中にある。その為にまず布石を一つ打ったよ」
「布石?」
「あぁ。僕達はまだ抱える兵も少ない。この世で何よりも大切なものは情報だが、それを集めるのにも手が足りない状況だ。だから、その役目にうってつけの者を雇ったのさ」
そう言いながら、半兵衛は一つ高く、手を打った。さほど間を置かず、人の気配など無いというのにすうっと障子が開き、夜闇に沈む廊下に座す一人の女が現れた。質素な紺の着物に身を包み、深々と平伏した女へ掌を向け、半兵衛は嬉しげに声を弾ませる。
「彼女を探し当てるのに苦労したけれど、それに見合うだけのものと僕は考えているよ、秀吉。
彼女の名は、桔梗。あの伝説のしのび、風魔に負けずとも劣らぬ凄腕さ。……桔梗、顔を上げるんだ」
「はい」
半兵衛に促され、女は静かに上体を起こした。行灯のあえかな光に浮かび上がった女の姿を見、
「……貴様は……!」
秀吉は驚き、思わず声を震わせた。黒々とした瞳が印象的で、整ってはいるが能面のごとくに無表情を晒すそれは、紛れもなく、秀吉に毒の爪痕を刻み込んだ、あのあばら屋の女だったのである。