花のうへの露24

「……ふう」
 ようやく最後の書類を終えた小十郎は大きく息を吐いて、目のあたりを指でぐりぐりともみほぐした。さすがに日がな一日筆を握っていると、疲れる。
 石田との対決に備えて徳川との同盟が成ったはいいが、各諸侯のとりまとめはいつものごとく手間取り、なかなかに難儀な仕事だった。
 政宗によって統一がなされた奥州ではあるが、その内部にはいまだ火花が残っている。隙あらば寝首をかこう、あるいは少しでも己の利を多く勝ち取ろうとそろばんを弾く者も少なくなく、小十郎は政宗の傍らでそれらを抑え、協力する体制に持って行くのにたいそう骨を折った。
 あちらでは戦後の褒美を約束し(始まってもいないのに何を言うかと小十郎は秘かに苛立ったが)、こちらでは不穏な家中の仲裁をつとめ、はたまたそちらでは難しい裁判の舵取りをしてやり……。
 何しろ神経を使う仕事が続き、さすがの小十郎も、のしかかってくる疲労に耐えかねてため息がでるほどだった。
(その甲斐あって、ようやくまとまったのは万々歳だがな)
 すっかり血が固まった体をほぐすべく、立ち上がって肩を回しながら、障子を開ける。ひゅう、と冷風が頬を撫で、目が細くなる。一日部屋にこもっていたので気づかなかったが、もう夜が明けようという時分。暗い空の向こう側が群青色に変わりつつあるのを見て、
(体が固いな。少し歩いてから、一眠りするか)
 小十郎はあくびをかみ殺しながら、静かに歩き出した。向かう先は、己が丹誠込めて手入れをしている、丘の上の畑だ。

 空気はひんやりとしていて、じわじわと身に染みるようだ。しかし風は春の温もりを帯びていて心地よい。
 すでに朝の仕事をしている者達と挨拶を交わしながら、小十郎はゆっくりした足取りで農道を歩む。疲れを感じてはいるが、その頭の中では、己の抱える仕事で埋め尽くされている。
(徳川は日々勢力を拡大しているが、石田の方も侮れるもんじゃねぇ。先だって小早川と毛利が、奴と同盟したらしい。裏で大谷が蠢いての同盟なのかもしれねぇが、どちらも大大名で、抱える軍勢は万を数える)
 歩きながら険しい表情になっていく小十郎に、行き合った村娘がびくっとして、慌てて道をあける。それに気づいた小十郎は苦笑いで、すまねぇな、と謝りながら通り過ぎた。自分の面相はどうも女子供に受けが悪い。もっとも、小十郎も、それらの相手をするのは苦手なのだが。
 先を進みながら、思索は続く。
(しかし、徳川はまだしも、寄り集まって出来たばかりの石田軍については、分からない事も多い)
 石田について細かい情報を捕らえきれないのは、あの男の憤怒に従うがごとく、石田軍が敵を全滅せしめ、手がかりの一つも残さない故だ。後に残るのは焼け野原、恐ろしげに語られる凶王の名だけだ。
(まるで、織田信長の再来だな)
 全てを焼き尽くそうとでもいうように、情け容赦なく襲いかかってきた魔王軍に屈した過去を思うと、どうしても渋面になってしまう。
(とにかく、情報が欲しい。無手で立ち向かって、二の舞はごめんだからな)
 途中、井戸に立ち寄った小十郎は水を汲み上げると、固くこわばった顔をばしゃばしゃと洗った。ぼけた頭が少しはすっきりしたと、少し早足になって道を進む。
『石田の情報なら、あいつが知ってるんじゃねぇのか』
 評定でこの話題が上った時、政宗は喧喧とわめきあう将達に聞こえぬよう、自分にそう囁いてきた。あいつとは、もちろん朝顔の事だ。
(しかし、どれだけ役に立つものか)
 豊臣時代に離反したと言っていたから、現在の石田の情勢は分からないかもしれない。しかしそれでも、少しは手がかりを得られる可能性に賭け、朝顔が目覚めて後の七日間、小十郎は尋問の続きを行っていた。
 とはいっても、自身が尋問しているわけではない。己が行えば、どうしても私情が混じってしまいそうな気がしたので、朝顔についての一切は今、他の者に任せていた。
 朝顔の媚態に軽々しく惑わされるような若者ではなく、年のいった老家臣にその役目を託したのだが、しかし考えていた以上に、朝顔は非協力的だった。
 どれほど言葉を重ねようと、どれほど時をかけようと、朝顔は相手の言葉をのらりくらりと交わすばかりで、いっこうに語らないのだという。
(あるいは、大した情報を持っていねぇのかもしれねぇが……)
 何しろ出会った途端に、殺し合いを始めるような相手だ。深く縁を持つわけではなく、逆に憎み合っているようなら、朝顔が石田について知っている事も、少ないのかもしれない。しかし、
(……信用ならねぇ)
 一度芽吹いた不信はいまや大木となり、小十郎の心にずしりと根を張っていた。丘へ続く道を上っていきながら、その表情はいよいよ厳しくなっていく。
(あの女は俺を、政宗様をたばかっていた。今度がそうじゃねぇとはかぎらねぇ)
『朝顔に騙されたのが、よほどShockだったらしいな』
 不意に政宗の言葉が耳によみがえり、小十郎は拳を握りしめた。違う、朝顔に騙されたのが悔しいのではない。ただ素性の知れない怪しい相手を易々と政宗のそばへ近寄らせてしまった、己の不甲斐なさを許せないだけだ。
 強く言い聞かせるその一方で、そうじゃない、己をごまかすなと囁く声が聞こえて、息が苦しくなる。
(くそっ。あいつの事になると、どうしてこうなる)
 思うだけで心が乱され、必死で自分を律しなければ、ついあの女を許してしまいそうになる。しのびの過酷な生を思い、どれほどつらい思いをしてきたのだろうと、つい同情してしまいそうになる。
(駄目だ、考えるな)
 あの戦いから二週間。少しは怪我が良くなっただろうか、と案ずる心を振り払い、小十郎は土を噛むようにして最後の道を登り切った。
 視界が開け、ざぁっと風が吹き寄せる。手で遮り、片目を閉じて風が吹き去るのを待った後、小十郎は腕を下ろして畑を見渡す。
 日々丹誠込めて世話をしている畑は、このところ多忙で、親切な村の者に世話を任せきりになってしまっている。久しぶりに土をいじれるか、と心が浮き立つ思いがしたが、しかしそこに人影を見つけて、足を止めた。
(誰だ……)
 村人ではない。女だ。こちらに背を向け、風に吹かれるまま、眼下に広がる田園地帯をじっと見つめているようだ。朝焼けの中に浮かぶその立ち姿に、小十郎は息が止まるかと思うほど驚いた。
(まさか)
 そんなはずはないと否定しようとしたが、間違いない。思わず踏み出した足が地面をすり、ざっと音を立てる。それを聞きつけたのか、女がゆっくりとこちらへ顔を向けた。
 束ねた髪が風に吹かれ、緩く広がる。白い肌が淡い陽光を纏い、黒々とした深い色の瞳が輝く。庇うように手で自分の体を抱いて立つ姿は頼りなく、どこまでも儚げだ。声をかけたら消えてしまうのではないか、と言葉が出ない小十郎の代わりというように、柔らかそうな唇が動き、
「……右目の旦那」
 静かに言葉を紡ぎ出す。耳に届いたそれは、確かに幻聴ではない。
 それでようやく目の前の女が夢幻ではないと実感し、小十郎は目を瞠って唸った。
「朝顔……てめぇ、なんでここにいる……!」

 小十郎の問いにすぐに応えるでもなく、朝顔は吹き抜ける風で乱れた髪を手で押さえた。着物の袖が滑り、露わになる腕の半ばに、包帯が覗く。
(あの怪我で、そう簡単に動けるわけがねぇ)
 稲尾からは全治数ヶ月と聞いている。いくら何でも、二週間で起きられる訳がない。しかし朝顔は怪我などしていないかのように、自然な動作で小十郎に向き直り、口の端をあげた。
「おや、旦那じゃないか。朝も早くから見回りかい、ご苦労な事だね」
 落ち着いた声音は以前とまるで変わりない。その落ち着きがかえって癇に障り、小十郎は拳を握りしめた。
「聞こえなかったのか。てめぇが何でここにいるんだ」
 怒りを含んだ低い声が地を這う。朝顔は腕を組み、微笑んだ。
「なに、部屋に閉じこもりきりも、飽きちまってね。ちょいと散歩に出てきたのさ」
「見張りの連中がいたはずだが」
「長の仕事で疲れてたのかねぇ、皆気持ちよく眠ってたよ」
 そんなはずはない。おそらくこの女がしのびの術を使って、見張りの者達に何かしたのだろう。警戒した小十郎は腰に手をやったが、慣れ親しんだ刀の重みが無い事に気づいた。しまった、部屋に置きざりのままだ。その仕草を見て取ったのか、朝顔は口元に手を当てて微笑む。
「そう怖がらなくても、何もしやしないよ、右目の旦那。朝から切った張ったなんて、無粋じゃないか」
 顔を横に向け、眼下の景色を見晴るかす。
「奥州は良いところだね、旦那。穏やかで、豊かで……ここから見ていると、あんまり綺麗な景色なもんだから、つい時を忘れちまうよ」
 雲を蹴散らして上ってきた太陽の光が、辺りを照らし出していく。ここからは屋敷を中心とした田畑を見渡す事ができ、大層眺めが良い。遙かに広がる田園風景は奥州の豊かさを象徴する光景で、小十郎もここに来るたびに、見事なものだと惚れ惚れするほどだった。桔梗が感嘆するのも無理はない。
 しかし今、朝日に照らされた朝顔の肌はやはり色が白く、いや青ざめていて、どこか病的だ。怪我で長いこと寝付いていた故だろうか、その横顔は疲れて健やかさに欠け、体も縮まってしまったかのような錯覚を感じさせる。
(情けをかけるな)
 つい大丈夫か、と言いそうになってしまい、小十郎は奥歯を噛みしめた。強いて険しい顔を作り、
「くだらねぇ事を言うな、部屋に戻れ。勝手に出歩いていいなんて許した覚えはねぇ」
 強い口調で命じる。朝顔はゆっくりと顔をこちらに戻した。
(……何だ、こいつは)
 以前とまるで違う、抜け殻のようなその表情に小十郎はぎくりとする。いつも微笑を口元にため、時に声をあげて笑い、豊かに表情を変えていた朝顔とは、全くの別人だ。まるで人形のように生気のない立ち姿は、いずれその体を釣る糸が切れて、地面に崩れ落ちるのでは、と夢想するほどに危うい。
「あ……」
 さがお、と名を呼ぼうとした時、ふと女が動いた。音も立てずにするりと、瞬きの合間に小十郎の前まで近づき、
「戻ってあげてもいいよ、旦那。もし旦那が、あたしを抱いてくれるんなら」
 滑り込むように腕の中へ入ってきた。とん、と寄りかかられ、小十郎は硬直した。全く思いがけない接近に思考が停止し、身動きかなわない。
「っな、」
 今何と言ったのか。舌が回らなくなり、疑問も吐き出せない。しかし朝顔は正しく質問を理解していた。こちらを見上げるその面差しは、先の人形めいたそれではなく、瞳が濡れたように輝き、ふっくらとした唇は口吸いを請うように突き出される。
「旦那がどんな風にあたしを見てるか、知らないと思ってたのかい? いつでもその目で、あたしに触りたい、触りたいって言ってたじゃないか、……こんな風に」
「!」
 不意に腕をさらわれ、手が朝顔の胸に押しつけられたので、小十郎は総毛立った。すぐに振り払わなければと、ほとんど恐怖に近い思いで考えたが、しかし服の上からでもはっきり分かるほど、張りのある柔らかくもしっかりした感触に手がかえって張り付き、引きはがせない。
「よ、よせ……」
 近づくだけでも動揺してしまうのに、これは刺激がすぎる。どっどっどっ、と鼓動が速まり、熱が急激に高まった全身から汗が噴き出す。
「よせって何を? あたしは何もしちゃいないじゃないか、旦那」
 背伸びをした朝顔は、小十郎の首筋に囁きと共に息を吹きかけた。揶揄するような口調に、カッとなって手をはがそうとしたが、ぴくりと指を動かした時、朝顔が小さく声を漏らした。
「ぁんっ」
(っ!)
 吐息混じりの、短くも紛れもない嬌声に、ぐらりと目眩がする。己の息が上がり、ますます手が柔肉に吸い付くのを感じながら、小十郎は熱の渦巻く身体の変化を無視出来ず、とうとう、認めた。
(あぁそうだ、俺は確かに、この女が欲しい)
 初めて出会った時からその姿に見惚れ、語らうほどに心惹かれ、ふとした拍子に近づき触れる体に、息が出来なくなるほど焦がれた。
 流れ落ちる髪に指を絡め、柔らかい笑みを浮かべる唇を貪り、呼吸のたびに上下する豊かな胸を、こうして己の手で包み込んで愛撫し――何よりもこの蠱惑的な身体を隅々まで味わいつくし、全て忘れて、心ゆくまで睦み合いたい。
「……ね、二人で愉しもうよ、旦那……」
 するりと首に手を回し、朝顔は小十郎の顔を引き寄せて微笑む。長いまつげで影の落ちた瞳に映るのは、小十郎だけだ。
「朝顔……俺、は……」
 果てしない闇に引きずり込まれるように、小十郎は弾む鼓動に息を荒げながら、空いた手で朝顔の腰を引き寄せた。夢うつつのまま顔を傾け、互いの息が触れるほど近づき、唇と唇が重なり合う瞬間、
『今のお前に、俺の背を守れるのか?』
 雷のごとく脳裏を走った政宗の言葉が、小十郎を撃つ。
「……!!」
 ハッと我に返った小十郎は、とっさに朝顔を突き飛ばした。
「きゃっ」
 女の体はあっさり吹っ飛び、そのまま畑の上に転がる。土に汚れたその姿を見て、小十郎の情欲はたちまち激怒にすり替わった。
(俺は何度こいつに騙されるつもりだ!)
 女はしのびだ。その体は武器だと言っていた。ならば小十郎を誘惑し、いいように操る企みをしてもおかしくはない。
(俺が守るべきは、政宗様ただお一人だというのに)
 こんな女に己の欲望を見透かされてつけこまれるなど、屈辱の極みだ。誘惑されかけた分、自身の意気地のなさにも怒りを覚えた小十郎は、鬼の形相で女を睨み下ろした。
(殺すか)
 激情のあまり、殺意が先走る。その小十郎の鬼気を感じているのかどうか、朝顔は身を起こし、鼻で笑う。肩についた土を払い落としながら、
「乱暴なお人だね、それじゃ女にもてやしないよ、旦那」
「戯れ言は仕舞いにしろ。てめぇにはやはり、あの牢が似合いだ」
「冗談だろ? あんなところに閉じこもってたら、息が出来なくなっちまうよ。どうせ閉じこめるなら、旦那の部屋にしてほしいね。そうすればいつでも好きな時に、お互い楽しめるってもんじゃないか」
 まだそんな軽口を叩くか。カッとなり、小十郎は朝顔の胸ぐらをつかんで、無理矢理立たせた。抜き身の刃のごとき鋭い眼差しで睨み付ける。
「てめぇがこの世にただ一人の女になろうと、俺はてめぇを抱かねぇ。自惚れるのも大概にしろ」
 首が締まるほどきつく掴んだため、「うっ……」朝顔はしかめ面になって呻いたが、しかし次の瞬間、
 ボンッ!
 突然白い煙が視界を隠し、手ごたえがするりと抜ける。
「!?」
 しのびの煙玉と即座に判じた小十郎は口と鼻を手で覆い、後ろにとびすさった。立ち上る煙の幕から抜け出してすばやく視界を見回すと、丘の端に立つ朝顔の姿が目に映る。
「朝顔、てめぇ!」
 急ぎ駆け寄るが、
「あたしだって、旦那みたいな役立たずは御免だよ。少しは楽しめるかと思ったけど、期待はずれもいいとこだ」
 朝顔はフッと顔を歪めてあざ笑い、地を蹴った。
「待て!!」
 朝顔の姿が丘の向こうに消える。下に落ちたかと戦慄して端まで駆け寄ったがしかし、どこにも女の姿が見えない。
「逃がしたか……!」
 手負いであろうと、元であろうと、しのびはしのび。一度囲みを抜けてしまえば、身を隠すのはお手のものだろう。目の前、しかも一時は己の腕の中にまでいながら、逃がしてしまうとは。
「くそっ!」
 まだ遠くにまでは行っていまい。身を翻して屋敷への道を駆け戻りながら、
(なんて醜態だ……仮にも竜の右目の名を頂戴した片倉小十郎景綱が、女一人にこの様か!!)
 小十郎は情けなさと怒りで胸がいっぱいになり、ぎしりと歯を食いしばった。