熱い。身体が燃えるように熱い。
「う……くっ……」
息が苦しい。は、と息を漏らして目を開く。ぼやける視界は薄闇で、何も見えない。
(ここ、は……)
どこだろう。考えようとしたが、頭がぼうっとして働かない。からからに乾いた喉に唾を飲み込み、起きあがろうと肩に力をこめたが、
「いっ……!!」
全身に激痛が走り、どっと冷や汗が吹き出した。身体がばらばらになるような痛みにあえぎ、激しく息をつきながら、自分の身体をかろうじて見下ろす。
記憶にある限り、最後に袖を通したのは、黒に近い濃紺の衣装だったはずだが、今は灰白色の小袖に変わっている。視界を遮る胸は呼吸にあわせて激しく上下しており、その動きで襟元がずれていた。谷間が覗く胸元に包帯が巻かれているのを目に留め、疑問を抱く。
(手当が、されてる……?)
そうと意識してみれば、怪我の全てが治療されているようで、体中にじわじわと薬が染みてくるのが分かる。かろうじて動かした右手で触れたわき腹も、さらさらした柔らかい包帯に代えられてるようだ。
(どうして……)
全身の熱と頭蓋に刺さるような痛みに耐えかね、ハァハァと息を荒げながら、目を動かして周囲を見る。
闇に慣れた目に映るのは、土壁だった。ごつごつした岩と土を固めて作った、明らかに人工のそれを目で追っていくと、背の高い格子にたどり着いた。太い木を組み合わせて大きく空いた穴にはめた格子の向こうには、槍を手にした兵が一人立っていた。壁にかけられた松明の灯りで、周囲がぼんやり照らされている。
(……土牢……?)
そこでようやくこの部屋が何なのかを理解する。どうやら自分は牢に横たえられているらしい。
もしやあの男に捕らえられたか、と思ったが、即座にその考えを捨てる。こちらを憎みきっているあの男の事だ。わざわざ牢に閉じこめ、しかも傷の手当をするなんてややこしい真似はするまい。
(じゃあ……誰が……)
こんな事をしそうな相手は誰か。回らない頭でゆっくりと考え始めた時。
「……目を覚ましたか。朝顔」
低く鼓膜を振るわせる声が、牢の静寂の中に響く。胸にすうと刃を差し入れられるような寒気を覚え、朝顔はそちらへ顔を向けた。緩く、笑みを浮かべる。
「あぁ……やっぱり、あんたかい……右目の、旦那」
「……具合はどうだ」
兵を下がらせ、二人きりになったところで。しばし沈黙した後、小十郎は口火を切った。
松明の灯りは奥まで届かず、盛った土の上に筵を敷いた寝床の様子は、しかと見えない。だが、
「上々さ……また、先生の世話に、なっちまったのかね。有り難い、ことだよ……」
答える声は震え、弱々しい。
当然だろう、朝顔が全身に負った傷は数多く、そのどれもが重傷だ。
しかも怪我を看た稲尾によれば、朝顔は元々足以外にも、わき腹に深い傷を負っていたそうで、よくこれで動き回れたものだ、と感嘆混じりに言わせるほどのものだったらしい。
(ましてこんなところじゃ、上々じゃあいられないだろう)
土と岩の牢は冬の冷たい空気を含んで外よりもなお寒く、怪我人には辛い環境だ。そう思うと哀れを催したが、小十郎はその感傷をすぐに振り払った。
「尋問の前に死なれちゃ困るんでな。口が利けるのなら、てめぇが何者か、奥州で何をしようとしているのか、洗いざらい喋ってもらうぜ」
ことさら冷淡な口調で告げ、松明を取って牢の鍵を開けた。重い扉を片手で開けて中に入る。
壁の燭台に松明をかけて奥へ目をやると、炎の灯りが届くようになった床の上で、朝顔が身を起こしてこちらを見ていた。
これほど冷えるというのにその顔は紅潮し、汗が浮かんで息も荒い。目の下にくまが浮かんだ病的な表情で、朝顔は小十郎と視線を合わせ、ふっと笑った。
「察しの良い、旦那の事だ。あたしの、正体なんて、だいたい、分かってるんだろ?」
「……あの身のこなしを見りゃあ、俺じゃなくても分かる。てめぇの正体は……」
「あぁ。あたしは――しのびさ」
しゅん、と音を立てて、その手中に手妻のごとく針が現れる。ハッとして刀に手をかける小十郎。しかし朝顔はくっと喉を鳴らし、すぐそれを消した。大きなため息と共に、
「ただし、元、だけどね」
言葉を付け足す。
「……元しのび、だと?」
予想とは少しずれた答えに顔をしかめながら小十郎が呟くと、朝顔は立て膝に肘を乗せ、けだるげに顔をうつむかせた。
「あぁ……そうさ。しのびなんて、因果な商売、とっくの昔に、廃業したよ」
「信じられねぇな」
哀れを誘う仕草に流されまいと、小十郎はぴしゃりと切り捨てた。柄から手を離さないまま睨みつける。
「足と腹に怪我をしながら、馬で一刻はかかるあの山に行き、あれだけ
後半はカマかけだったが、朝顔はこくりと頷いてあっさり認めた。さらさら音を立てて髪が落ちる。
「居合い使いが、今、どの辺りに、いるのか、知りたかったんで、ね」
「てめぇの前では話さなかったはずだが、どこで襲撃の件を知った。
それに――今日一日で、これだけの事をしたんだ。屋敷に来てこれまで、てめぇを疑う人間はほとんど居なかった。誰にも気づかれず内情を探るのは、容易い事だったろう」
何という怠慢か、それこそ自分が一番警戒しなければならなかったのに。歯噛みしながら、小十郎はより強く言い募る。
「答えろ、てめぇはどこの手のものだ。ここで何を探っていやがる」
「…………」
俯き、髪の影に顔を隠した朝顔は、じっとして言葉を発しない。ぴんと緊張の糸が張った牢の中に、沈黙が広がった。
じじじ、と松明の燃える音だけが響く。小十郎と朝顔の影が炎の揺らぎに従って生き物のように形を変えるのが、どこか不気味だ。
そう思ってしまうのは、今目の前にいる女が、得体の知れないしのびだからだろうか。油断無く、いつでも切り捨てられるように柄を握りしめる小十郎。
その気迫に当てられたか、やがて朝顔は顔をあげた。
まだ息を乱してはいるが、存外落ち着いた様子でゆっくり壁にもたれかかると、
「……信じる、信じないは、右目の旦那の自由さね。あたしは、しのびを、捨てたんだ。
「そんな言葉一つで信じられると思うか」
「だから、そいつは、旦那の自由だって、言ってるだろ? 信用ならないって、思うんなら、殺しゃいい。簡単な、ことさ」
淡々と言葉を吐く。熱を帯びたその顔はひどく疲れ切っていて、何もかもどうでもいい、と言いたげな投げやりさがあった。
「だいたい、あたしを屋敷に、連れ込んだのは、旦那じゃあないか。こっちはずっと、世話になる気はないって、言ってたのにさ」
「む……」
言われてみればそうだ。朝顔は伊達屋敷に連れてこられた後、しきりに恐縮して世話される事を嫌がり、動けるようになったらすぐ出て行きそうなそぶりを見せていた。
「それがてめぇの手だったんじゃねぇか」
信じたいと心が揺らぐのを感じ、それをごまかすように尖った台詞を吐くと、ハッ、と朝顔は短くあざ笑った。
「本気で、旦那に、取り入るつもりなら、そんな面倒な事、しやしないよ。しのびだった頃の、あたしの武器は、針だけじゃあ、無かったんだからね」
そういって手を持ち上げると、自分の首に当て、絡みつくような仕草でゆっくりと撫で下ろし、緩んだ合わせの上で意味深に止めてみせる。その下で呼吸にあわせて揺れる胸の扇情的な動きに一瞬目を奪われ、小十郎は血の気を上らせた。
(見るな、馬鹿野郎っ)
慌てて目をそらし、しかし一方で、朝顔が仄めかしたもう一つの武器は確かに効果的だ、と屈辱的な思いで実感した。
もしあの艶めかしい身体で誘惑されていたら、さしもの自分も我を失っていたかもしれない。ちょうど今日あったように、と思い至って、小十郎はハッとした。まだ顔が熱いのを自覚しながらも目をきつくして、再度、朝顔をねめつける。
「それなら、今日のあれは何だ」
「あれ?」
「俺がおめぇの部屋を訪ねた時、……妙に絡みついてきたじゃねぇか」
「あぁ……別に、意味は、ないさ。旦那が可愛い事を、言うから、からかってやった、それだけだよ」
朝顔は軽く肩をすくませ、それからぽってりした唇の両端を上げて笑う。
「あの程度で、ふらつくなら、あんたを、いいなりにするのは、随分楽そうだねぇ……たまには、女をお抱きよ、旦那。我慢し通しじゃ、身体にも毒だし、こうして、怪しい女が、旦那をたぶらかすかも、しれないんだからさ」
「うるせぇ! 俺はそんな話をしにきたんじゃねぇ、軽口はそれまでにしろ!」
カッとなって発した怒号が、牢の中に響きわたる。びりびり空気を震わせるそれに、朝顔は反射的に身を縮こまらせた。しかし、恐れの気配など微塵も見せず、
「よしとくれ……旦那の大声は、頭に響くよ……聞きたい事があるなら、もっと、優しくしてくれなきゃあ、話す気にも、なれやしない」
辛そうに顔を歪め、壁にことりと頭を預ける。口は達者だが、身体の方は衰弱して耐えられないらしい。陰影を濃くしたその顔を見て、小十郎は冷静さを取り戻した。
(そうだ、落ち着け。こいつからあの男の事を聞き出さなきゃならねぇんだからな)
咳払いをして気を取り直し、再び口を開く。
「……てめぇが元しのびだってのは分かった。ここで悪さをしようという気がないってのも、とりあえず信用する」
「あぁ……」
「ならもう一つ、聞かせてもらおうか。あの白銀の男、あいつは何者だ。てめぇは何故、怪我の身を押してまで、あの男とやりあってたんだ」
「…………」
その疑問を耳にした途端、朝顔の表情が変わった。すう、と感情の色が消え失せ、土牢の寒々しさよりもなお冷たい、氷のような殺気がじわりとその身からにじみ出す。
これはあの黒装束がまさに放っていた気配だ。息を飲み、思わず刀の鯉口を切って身構える小十郎だが、
「……あれは、石田三成。豊臣秀吉の狗だった、けだものみたいな男さ」
朝顔の殺気は全て、名を口にした男にのみ、鋭く向けられているようだった。