die flower3

 ――空が青く晴れ渡ったその日。
 暑くもなく寒くもなくちょうどいい天気だ。目を細めて見上げていたアラガキは、空から前方へと視線を転じた。
 目の前にあるのは、綺麗にディスプレイされた色とりどりの花々。
 花に疎いので名前はほとんど分からない。だが、それぞれが鮮やかに咲き誇り、周囲に香しい匂いを漂わせているのを嗅ぐと、ふっと気持ちが和む気がする。そして、
「――ありがとうございました」
 その店の中から、花束を抱えて出てきたファルを見れば、いっそう安らぎを覚えた。
 穏やかで優しい空気を纏った彼女には、花が良く似合う。
 ただ、今日は黒いワンピースに身を包み、仏花を手にしているので、普段とはまた違う印象だ。アラガキと目が合うと、ふわりと優しく笑いかけてくる。
「おまたせ、アラガキ」
「ああ。いこう」
 アラガキもまた頬を緩めてから、そろって歩き出した。
 しかし普段着慣れない服――黒のスーツで出歩くのは、どうにも落ち着かない。
 いや落ち着かないのは、肩のあたりのサイズが若干ずれているせいもあるか。
 不恰好に見えなければいいが。スーツの肩を少し持ち上げると、手に持った桶の中で水がちゃぷんと揺れた。ファルと他愛ない話をしながら歩を進める黒靴の下で、じゃりっと石段が音を立てる。
 目的の場所は、すぐそこだ。

 老人が亡くなって、数か月。
 その間、アラガキはファルと遺産相続について、遺族との話し合いを行っていた。
 何度か行われた会合は毎度、雰囲気が悪かった。
 先方は頭からこちらを金目当ての悪党とみなし、何一つ渡さないと言う姿勢をなかなか崩さなかった。
 ファルが怒りを押さえながら、極力感情を交えずに冷静に話をしようとしなければ、早々に決裂して裁判沙汰になっていたかもしれない。
 そうしてもめにもめた挙句、楡山の仲裁とアラガキの威圧も手伝って、最後にはようやくファルの願い通りになった。
 金銭は放棄、店は譲り受ける形へ。
 その手続きも先日ようやく終わって一息ついたところで、老人の墓を参ろうという話になり――今日、その場へ出向いている。

 老人の墓は、並び立つ石碑の一番奥の広い場所に位置していた。
 囲いのついた立派な作りに、ぴかぴかと黒光りする御影石には細かな彫刻と共に達筆な筆致で名前が刻まれている。まだ建って間もないからか、周囲は隅々まできれいに掃除されていた。
 いや、墓前にまだ火のついた線香と花が供えられている所を見ると、先客がいたようだ。
「……だれか来たのかな」
「楡山さんかもしれないな。今日は月命日だから」
 会話しながら、ファルは空いた場所に、持っていた花束を置いた。すっと離れた後、今度はアラガキが前に出た。ひしゃくで水をすくって、墓石にかけながら声をかける。
「遅くなってすみません。……やっと、またお会いできましたね」
 こう言ったら、あの老人なら「遅い、何をぐずぐずしていた」と怒りそうだな。そう思ったら少しおかしくなったが、墓前で笑うのは不謹慎か。
 口元を引き締めたアラガキはファルと並んで立ち、二人で手を合わせて目を閉じた。
 今日墓参りに行こうと言ったのは、自分からだ。
 遺族との話し合いの間、ファルは懸命に戦い続けていた。
 アラガキに出来たのはそばにいて、時折助け舟を出す程度。会合の後、普段あまりしない感情の発露に疲れ切ったファルを支え、慰め、励ましたくらいだった。
(それが嬉しかった、とファルは言ってくれたが。
 ……俺はもっと、力になりたいんだ)
 ずっとそう考えていた――今に始まった事ではなく、昔ファルが自分の前から姿を消した時から、ずっと。
 だから全てが片付いた時、何も考えられなくなるほど疲労困憊したファルを抱きしめて労わっていた時、ふと口にしたのだ。
 ファル、あの人の墓参りをしよう、と。
(結局葬式の会場には入れなかった。遠くから見送る事しか出来なかったからな)
 形式として老人の養子となっていたが、葬式への参列は遺族が難色を示し、彼女自身も迷った挙句に辞退した。
 ファルは相続が終わったら、養子縁組を解消することにしていた。
 いずれ無関係になる身を衆目に晒して、老人について口さがない噂話をされるのが嫌なのだと、首を横に振ったのだ。
 アラガキが目を開けてちらりと横を見れば、ファルはまだ手を合わせたままだ。
 瞳を閉じた横顔は真剣で、きっと老人とすごしたこれまでの思い出を呼び起こしているのだろう、とも思う。
(結局、あなたの『子』は自分で生きる事を選んだんです。自立を祝ってやってください)
 最後にそう囁き、アラガキは手を下ろした。
 ファルの祈りを邪魔するまいと少し後ろに下がり、ほっそりとした背中を見守る。
 金を拒み、養子縁組を解消することに、楡山はひどく難色を示した。
 彼はどうやら老人に大変な恩義があるようで、故人の最後の願いなのだからとファルを幾度となく説得しようとした。
 だがファルもまた頑固で、自身の考えを譲ろうとしない。
『わたしには過ぎたお金ですし、こんなおおきな会社を経営している一族の一員になるになんて、考えたこともありません。
 わたしがいることで不要な争いをまねくことは避けたいんです。
 ……たとえ、それがおじいちゃんのきもちであっても。わたしは、養子を、やめたいです』
 何度請われてもファルはその想いを曲げず、結局楡山が折れた。
 そうしてファルの意向を尊重して諸々の手続きを担ってくれたのだから、彼には感謝してもしきれない。
 今こうして穏やかに墓参りが出来るのも、楡山が手を尽くしてくれたおかげだ。
(ありがたい限りだな。あの人は孤独だったと聞いていたが、少なくとも楡山さんとファルは最後まで、寄り添えたんだろう)
 そう思った時、びゅっと急な風が吹いた。
 横面をはたくような突風に、髪を押さえるファルを目にして、
「……あの人はきっと驚いてるだろうな。今のお前を見て」
 アラガキは思わずつぶやいた。
 え? と呟いて振り返る彼女に笑いかけ、自分の肩あたりを手で示す。
「ばっさり髪を切ったから、別人みたいだ。そんなに短くしたのは初めてなんだろう?」
「うん。……そうだね」
 そう言ってファルは髪を撫でつける――以前は背中のなかほどまであった長い髪は今、肩の上まで短く切られ、軽やかに揺れている。
 風で乱れた個所を直して、彼女は小首を傾げた。
「わたしは、すっきりしたんだけど。……おじいちゃんがみたら、変だっておもうかな」
「辛口だったから、何か言うかもしれないが、きっと気に入ってくれたんじゃないか」
 ファルが髪を切る、と言い出した時は少し驚いた。
 何しろ彼女は会った時から今までずっと長髪で、そのイメージしかなかった。良く似合ってもいたから、何故切りたいんだと問いかければ、
『何となく……気分をかえたくて』
 と、自分でも分かっているのかいないのか、曖昧に答えるばかりだ。
 アラガキにしてみれば、ずっと長く綺麗に伸ばしていたのだから勿体ないのでは、と思わなくもなかったが……結局のところ、決めるのはファル自身だ。
『そうか。うん、いいんじゃないか。気分転換は大事だ』
 そんなありきたりな言葉しか返せなかったのだけれど、『よかった。アラガキが嫌だったらやめようとおもった』と返されたから、自分は正解を選べたようだ。
 とはいえ、ファルが美容院へ行って帰ってきた時は、思っていた以上に短くなっていたので、少し動揺したが。
『すごい、かるくて気持ちいい。かみきるだけで、こんなにちがうんだね。もっとはやく切ればよかった』
 ファルは上機嫌で、その後も心なしか以前より前向きで積極的になったようだから、髪型を変える事は女性にとって大きな意味を持っているのかもしれない。
「俺はほとんど話をできなかったが、あの人はお前の事をとても大事にしていたから。
 お前が決めた事は、何でも喜んでくれたんじゃないかと思うよ」
 そう応えると、ファルは少し笑った。
 耳に髪をかけ、そうだといいな、と呟く。
「わたしけっきょく、おじいちゃんがくれたもの、ほとんど返してしまったから。それはやっぱり、怒ってるかもしれない」
「ファル」
「……相続のはなし、さいしょ聞いたときはびっくりして、なんでっておもった。
 わたしはもうおじいちゃんに、たくさんもらっていたから、お金なんていらない、それよりおじいちゃんにまた会いたいっておもって」
 不意にあの雨の日、びしょぬれのまま立ち尽くすファルの姿が蘇り、アラガキは短く息を飲んだ。
 老人の死を知った彼女の絶望と悲しみを思うと、今でも胸が痛む。
 ファル自身もまだ、傷が癒えたわけではないだろう。最近になってようやく笑えるようになったが、その表情には陰りが見え隠れしている。
 墓を左手に見ながら、ファルは長いまつ毛を伏せて、
「あのお店はおじいちゃんそのものだから、価値がないからってこわされるのいやで……それなら絶対、わたしがもらうってがんばったけど。
 それも、ほんとうにそれでよかったのかなって、ちょっと思ってるの」
「? どうしてだ。お前ほどあそこを大事にしてる人は他に居ないだろう」
 老人のこだわりが詰まった店の運営を任され、一人で何年もやってきたファルにすれば、誰よりも愛着はひとしおだろう。
 さっさと潰してしまえなどと言う遺族に渡して、滅茶苦茶にされるのが我慢ならないのは当然だ。迷いの理由を問いかければ、
「……あの人たち、とくに会長さん。口でいうほど、おじいちゃんのこときらいじゃなかったんじゃないかな」
 ファルは墓の前にしゃがみこんだ。そこに慎ましく咲く花々にそっと触れ、
「会長さん、わたしがおじいちゃんのこと話すと、時々いたそうなかおしてた。そんなのしらない、ってかおで」
「…………そう、だったか?」
 思わず首をひねる。あの苦虫をかみつぶした威圧感のある御仁がいつ、そんな表情をしていただろうか。全く覚えがない。
 だが、ファルはうん、と頷き、
「……もしかしたら、おじいちゃんも、まちがえたのかも。ほんとうはもっと、家族の人とおはなししなきゃいけなかったのかも。
 だから会長さん、私とおじいちゃんの話を聞くと、いたかったのかも、って思ったの」
「…………」
 墓を見やる。当然、老人はファルの見解について正否を答えない。
 だが、そういう事もあるかもしれないと思った。
 老人が亡くなってから、ファルとどんなふうに出会ったのか聞いたが、この人は確かに孤独な人生を歩んだらしい。
 それは金を求め、会社を立ち上げて生きていくのに必死だったからかもしれないし、昔の恋人の影をいつも求めて、そばにいる家族を顧みなかったからかもしれない。
「このお花も、会長さんかもって、さっきちょっとおもったの。こんなにお墓きれいなのも……もしかしたらって」
(そうであってほしい。……ファルは、そう願ってるんだな)
 あれほど手ひどい侮辱を受け続けたというのに、ファルは会長を憎んでいないどころか、気遣っているらしい。
 またぞろお人良しが顔を出してきたと苦笑してしまったが、
(まぁ、いい。ファルがそう思うなら、そうかもしれない)
 真実を確かめる術はなく、確かめたところで何が変わるわけでもない。
 ただ、そう思う事でファルが少しでも慰められるのなら、それでいいと思う。
 そして、こうも思う。
(過去を断ち切る事は出来ない。だが、俺も、ファルも、あの遺族たちも皆、あなたの死を背負って、前を向かなきゃならない)
 南部に言われた『前に五、後ろに五』という言葉は、人生そのものだ。
 過去から今、未来はひとつづきで、そのどれにとらわれ過ぎても、忘れすぎてもいけない。背負い、見据え、前へ向かって歩いていく。
(皆、そうやって生きていくんだな。辛い事も楽しい事も全部、ひっくるめて)
 しみじみそう考えていると、
「ごめんね。もうわたし、おじいちゃんの子じゃなくなっちゃった」
 不意にファルが小さく呟いた。はっと目を向ければ、彼女は菊に触れ、
「わたし、おじいちゃんのこと大好きだよ。すこしのあいだだけ、ほんとうの家族にしてくれて……とっても、うれしかった」
 小さな花弁から、指を離した。俯くと髪が流れ落ちて、横顔を隠してしまう。
 急に体が小さくなったような錯覚を覚えて、その頼りなさにアラガキの胸がざわついた時、
「……わたし、またひとりになっちゃった」
 ぽつり、と落ちた言葉。それが耳に届いた瞬間、心臓が射抜かれたように痛んだ。とっさに大股で踏み出し、
「違う、ひとりじゃない」
 薄い肩に手を乗せて勢い込む。びくっとして顔を上げたファルの、潤んだ青い目を見つめた瞬間、
「ひとりじゃない、ファル。俺がいる。いっしょになろう」
 考える間もなくその言葉を口にしていた。

「……………………え?」
 長い間を置いて、ファルが目を瞬いた。
 涙を引っ込め、ぽかんとした様子でこちらを見上げる様が、何かを思い出させる……ああ、そうだ。
(路地で、俺が告白した時と同じだ)
 自分がファルへの思いを自覚すると同時に思いを告げた時、彼女は今と同じように、考えもしない事を言われたと意表をつかれていたっけ。
(俺は進歩がないのか、こんな大事なことを、こんな不用意に言い出すなんて)
 自分の迂闊さに自嘲しそうになったが、そんな事は後でいい。
「ファル」
 彼女の両手を取り、立ち上がらせ、向かい合う。
 驚きで固まったままの彼女は、あの時と同じように無垢な表情をしている。
 大きく見開かれた青い瞳は変わらず綺麗で……あの時よりいっそう愛しく思えて、自然と顔が緩んだ。ほっそりした手を握り、目を真っすぐ見つめて、告げる。

「俺はお前が好きだ。お前を守りたい。ずっと、いっしょにいたい。
 ……今度は俺が、お前と家族になりたい。
 だから……ファル。
 俺と、結婚してください」

 ざぁっ、と風が吹いた。
 先刻より強い風は花々を大きく揺らし、アラガキのジャケットやファルの髪をはためかせて過ぎ去っていく。
 ファルは動かない。乱れた髪が頬や目元にかかって、表情が読めない。
 答えがない事に急にドキドキしてきて、アラガキは手に汗がにじむ思いがした。
 もしこれで断られたら、と背筋が冷たくなるような考えが頭をよぎった時、ファルが頭を傾けた。
 一瞬首を横に振るのかと思ったが、違った。頭を小さく振って髪が払われると――白い頬を真っ赤に染めて、青い瞳に涙をためた彼女の顔が良く見えた。
 アラガキを見上げたファルは、言葉を探すように唇をわずかに動かした。細めた目のまなじりからすっ、と涙が頬を伝い落ちると同時に、
「――はい」
 小さな、けれど間違いなく確かな、答えがあった。
 どきん、と鼓動がする。
 ファル、と呼びかければ、アラガキ、と返ってくる。
 涙をぽろぽろこぼしながら、ファルは目を細め、泣き笑いで囁く。
「……うれしい。……うれしい、アラガキ……」
「……ああ。ああ、俺も、嬉しいよ……ファル」
 駄目だ、もらい泣きしそうだ。視界が少し滲むのを感じながら、アラガキは右手でファルの頬に流れる涙をぬぐった。
 するとファルがふにゃ、と溶けるように微笑み顔を掌に預けてくるから、頬の温もりと柔らかさが伝わってきて、喜びはいっそう増していく。と、掌に固い感触が当たったから視線を下げ、ふと苦笑した。
「――次は間違いなく、左手にしないとだな」
 店にいる時以外はほぼ身に着けている指輪は、ファルの右の指におさまっている。
 以前贈った時は結婚まで思い至らなかったから、何も考えずに右手にはめてしまったが……あのとき同席した常連の男がからかった通り、今度は左の指にはめなければ。
 掌で指輪を撫でながら呟けば、ファルもまた笑って、うん、と大きく頷いた。

 二人で、墓に向かい合う。
 この場に眠る老人とは、もう語り合う事は出来ない。
 もっと話をしたかった、同じ時間を過ごしたかったという思いは消えない。だから、
「……おじいちゃん、ありがとう。おじいちゃんがくれたもの、たくさんたくさん大事にするね。今度は、アラガキといっしょに」
「ファルを救ってくださって、ありがとうございました。これからは、俺が彼女を守ります。……幸せに、します」
 告げて、故人に思いをはせる。
 死は終わりではなく、こうして生きる者たちへ心が受け継がれていく。
 失ったものがあっても、そこには確かに大事な人の心が生きている。
 その事を胸に強く刻み付けながら、アラガキはファルと手を繋いだまま、空を見上げる。
 雲一つなく青い空は、目に染みるほど美しく、涙を誘うほどにどこまでも綺麗に澄み渡っていた。