さぁぁぁ……と柔らかい音でふと目が覚めた。何度かまばたきし、きゅっと眉根を寄せて、枕に顔を埋める。
眠気の残滓にすがるように瞳を閉じれば、周囲の音がいっそう鮮明に聞こえた。
(……あめ……?)
滑らかな布を優しく撫で下ろすような、細やかな降雨の気配が、窓を通して静かに聞こえてくる。
ん、と呟いて仰向けになり、ファルはまた目を開けた。ゆっくり起き上がると軽くめまいがしたので、額をおさえる。
(……あたま、おもい)
できれば一日こもっていたい。せめて、まだ時間があるからと二度寝をしようかと思ったが、しばらく寝返りしたのち、諦めた。眠気は軽い頭痛だけ残して、去ってしまった。
(コーヒー、のもう)
喉が乾いた。けほ、と咳をしながら、素足をベッドの下におろす。
寝乱れた髪をかきあげながら、おぼつかない足取りで部屋を横切り、洗面所へ向かう。
顔を洗ってタオルで水気をぬぐうと、鏡にはいかにもぼんやりした表情の自分が写っていた。
(ちょうし、よくないな)
普段より寝起きが悪いのは、夜半から雨が降り続いていたせいだろうか。
今日一日こうだと困るなと思いながら、玄関のポストにねじ込まれた新聞の束を取り、ダイニングへ戻る。
ぽん、とテーブルに置き、リモコンでテレビをつけて、キッチンへ。
『――本日のトップニュースのラインアップは以上です。では、まずはこちらのニュースから……』
キャスターが原稿をめくり、国際大会で日本人の選手が快挙を成したと口火を切る。喜びの声をバックに、コップとコーヒーの缶を手元に引き寄せた。そしてやかんを持って、水をいれようと蛇口に手をかけた時、
『……次、こちらはたった今入ってきたニュースになります。戦後の日本を支えた偉人がまた一人、この世を去りました……』
(え?)
続けて読み上げられた名前に、びくっと顔を上げる。ぱっと切り替わった画面――そこから鷹のように鋭い目をした男が、こちらを見据えていた。
夜半から降り続く雨は止むことを知らないようだ。しかも次第に強くなってきている。
(今日のロードワークは無理だな)
空模様を見ていたアラガキはそう判断し、ジムの練習生へ筋トレを指示して、また外へ目を向ける。
霧雨はやがて大粒となって、底の割れたバケツのような土砂降りへと移り変わりつつあった。
ジムの出入り口付近はすっかりぬかるみになり、雨どいから滝のように雨水が流れ落ちて、ごぼごぼと音を立てている。
(後で修理をしなきゃならんな。地面も土をかぶせて……)
そんな事を思いながら、アラガキは何気なく視線を動かした。そのまま室内へ転じようとして、ふと止まる。
「?」
視界の隅に何かが引っかかった。どうという事もなく、そちらへ顔を戻し――軽く目を瞠る。
(人がいる?)
退役軍人会の入り口に、人影があった。
雨の幕に遮られて判然としないが、傘を差した人が確かにいる。
この豪雨では傘も役に立たないだろうにと目を細めたアラガキはようやくそれが誰か気づいて、息を飲んだ。
「ファル!」
「え、アラガキさん?」
唐突に叫んだ彼に仲間たちが振り返ったが、アラガキはそれどころではない。ばっと駆け出し、建物を飛び出して、
「ファル、こんな日に何してるんだ、びしょぬれじゃないか!」
真っすぐに彼女の下へ駆け寄った。降りしきる雨の中、出てきたばかりのアラガキもあっという間にぬれねずみと化す一方、ファルは傘をさしていても、頭から足元までずぶぬれだった。
頼りなく握った傘が、雨の勢いでゆらゆら揺れているのは、手にも力が入っていないのかもしれない。
「来るなら連絡をくれれば、迎えにいったのに。とりあえず中へ……」
そう言って肩に手を置いた時――ファルがゆっくり顔を上げた。その表情に、どきりとして言葉を失う。
血の気を失って青ざめ、魂が抜けたように虚ろな目。
今にも空気にとけて消えそうな儚さを感じさせるその顔には見覚えがある――出会った頃、苦界に身を落とし、明日を夢見る事も知らなかった時と同じだ。
「何かあったのか、ファル……、ファル!」
しとどに降り注ぐ雨のためではなく、背筋がぞっと冷たくなる。とっさに両肩を掴んで軽く揺さぶると、
「……アラガキ」
洞のようだった瞳にうっすら光が戻り、焦点を結ぶ。頼りない眼差しでファルはアラガキを見上げた。そのまつげにかかった雨の滴にまばたきをした時――目の縁に涙が溢れた。
「アラガキ……!」
「!」
半ばぶつかってくる勢いで、ファルが抱きついてきた。
ぱさり、と傘が地面に落ちる。背中に回された手に服をきつく握りしめられるのを感じて、アラガキは戸惑った。
いつも控えめなファルは、こんな風に全身の力を振り絞るようにすがりついてこない。よほどの事があったのだ。
「……ファル。どうした」
濡れて重たく袖がまとわりつく腕を回して抱き締め返し、問いかける。雨に涙をまぎらわせながら小さな嗚咽をもらし、ファルは囁いた。
――おじいちゃんがしんじゃった、と。
「――寒くないか、ファル」
エアコンの温度をあげて、アラガキは後ろへ振り返る。
毛布を肩にかけ、ベッドの端に腰かけたファルは、うん、と小さくうなずいた。
背中の半ばである長い髪はまだ濡れているが、女性が使うような強力なドライヤーがここにはないから、全部乾かすには至らなかったのだろう。
(とりあえず落ち着いたか)
アラガキはひとまず、ファルにシャワーを浴びさせ、車イスの少年から着替えの服を借りた。
元の服が乾くまでの代わりが必要だったが、ここには当然、女物はない。
ほっそりしたファルのサイズに合いそうなのは少年のものくらいだと思ったのだが、それでもだぶついていて、トレーナーの袖から覗く細い腕がいっそうか弱く見えた。
真っ青だった肌も少し血の気を戻してはいるが、泣き続けたのか目元は赤く、表情は沈んで憔悴していた。
アラガキは隣に腰を下ろした。どう声をかけたものか少し悩んだ後、膝の上で握られた小さな拳にそっと手を重ね、
「……すまん。ニュースを見ていたら、すぐお前のところに行ったのに」
今日はテレビも新聞も目にしていなかったから、老人の訃報に触れていなかった。それを知った時、ファルがどれほど驚き動揺したか、考えただけで胸が痛くなる。
自分が楽になりたいだけだとおもいながら、謝罪を口にすると、ファルはゆるりと顔をあげた。意味を考えるようにまばたきした後、左右に首を振る。
「ううん……ありがとう。わたし……びっくりして。なにも、おもいつかなくて」
長いまつげが伏せられ、震える。
「……このあいだまで、げんきだったのに。また、おはなしできると、おもってたのに」
「俺も、じっくり話をしてみたいと思っていた。次はいつにするか、考えては……いたんだが」
付き合いの長いファルの悲嘆には及ばずとも、アラガキは悔いを覚える。
初めて顔を合わせた時、老人は体調不良を告げていた。
いずれ迎えが来る前に、ファルの相手が見つかってよかったとは言っていたが……まさか、こんなに早く亡くなってしまうとは。
(あの時もっと話せばよかった)
いつもこうだ。取り返しがつかなくなってから、ああすればよかった、こうすればよかったと悔やんで惜しむ。
人はどうして、今日と同じ明日が変わらず訪れると、安易に信じこんでしまうのだろう。そんな保証はどこにもないのに。
(せめて、最後の挨拶が出来れば)
告別式や葬式で別れを告げることくらいは出来ないだろうか。そう思ってファルに問いかけようとしたとき、
「アラガキ……あの、ね。わたし……」
ファルが彼の手に指を絡め、しがみつくように握りしめて囁いた。なんだ、と優しく声をかけると、ファルはアラガキの腕に寄りかかった。その体が微かに震えている。
「……わたし、おじいちゃんのいえに、いってみたの」
「家に?」
老人の自宅を知っていたのかと思ったが、一緒に旅行へ行くくらいだから、それも自然だろう。
余計な口を挟まず話を聞こうとアラガキは黙って手を握り返した。それに励まされたのか、少しだけファルの声が大きくなる。
「しんじゃったって、しんじられなくて。うそじゃないかとおもっていったら、家のまえに、たくさん、人がいて」
どうやらマスコミが押し寄せていたらしい。
かつて日本の経済界を支えていた著名人の突然死は、様々な憶測を呼んでいるのだろうか。中へ入ろうにも人垣に阻まれ、近寄ることさえ出来なかったという。
しかも通してくださいと頼んだ相手に邪魔だと突き飛ばされ、危うく転びそうになったところを、一人の男が抱き止めて助けてくれた。
「そのひと、にれやまさんってひとで。おじいちゃんの、おせわしてたの」
男はファルとも顔見知りで、近寄れずに難渋しているのを見かけ、記者たちに見つからないように近づいてきたらしい。
詳しい話をするから、とファルをその場から連れ出し、近場の喫茶店へと案内した。
「おじいちゃんは、まえからからだの調子、わるくしていたんだけど。きのうのよる、きゅうにたおれて、そのまま――だったって」
男によれば、老人は病院へつれていく間もなく息を引き取ったという。
そんな、と言葉を無くして泣き出したファルを、相手は辛抱強く慰めてくれた。そして――思いもかけないことを言い出したのだと言う。
「にれやまさんが、ね。……おじいちゃんがわたしに、いさんの一部をのこしてるんだって」
「遺産?」
うん、と頼りなげに頷いて、ファルは続ける。
「おじいちゃん、わたしのこと、すごく心配していて。
おじいちゃんがいなくなったあと、ちゃんとやっていけるのかっておもってて、だから、お金とあのお店、わたしにあげるって……遺言書、っていうの? それに、のこしてるんだって」
「それは……」
あの老人らしい気遣いだと思う一方、きな臭い話になったとアラガキは鼻の頭にしわを寄せた。
(金額の嵩はわからないが……親族が口を出してくるんじゃないか、こういう話は)
資産がどれだけか詳細が知れないにしても、おそらく一般人には十分な金額には違いない。
それを、いくら孫のように可愛がっていたとはいえ、赤の他人に渡してもよしとするほど、心の広い親族であればいいのだが。
「わたし、いりませんって……お店できなくなるのはかなしいけど。
でも他でもたぶんやっていけるし、おじいちゃんからもらうのもうしわけないし、そんな権利もないっていったの」
だが、男はこう答えたらしい――あなたにも権利はあるんです、すでに養子縁組は済ませてあるので、と。
「ファル、あの人の養子になってたのか?」
そんな話は初耳だと目を丸くしたが、ファルはファルで困惑した様子で首をかしげた。
「わたし、しらなかったんだけど……なんか、おじいちゃんがしてたみたいなの。まえに海外へいくってパスポートつくるときに、こっそり」
「な……お前にも黙って手続きしたのか」
未認可地区生まれでIDを持たないファルを海外へ連れ出そうとすれば、様々な手続きが必要になるだろう、というのは想像に難くない。
旅行の準備で数えきれないほど書類を見せられ、ファルは言われるままサインをしたらしい。ではその中に、養子縁組のものが紛れ込ませれば、気づかないかもしれない。
(それにしても強引な手だな)
あの老人らしいといえばらしいのかもしれないが、と思いながら、さらに耳を傾ける。
「……にれやまさん、どうしてもいやなら、相続権をほうきすればいいっていってくれたの。
でも、ちょっと考えてって。
おじいちゃん、わたしのこと、ほんとうのまごみたいにおもってたって。
あんなふうに大事にしてるひと、ほかにみたことないって。
……おじいちゃん、ずっとひとりで。
かぞくはいるけど、ずっとひとりで、口にはしないけど、さびしかったんだって。
わたしにかまうようになって、本当にうれしそうにしてたって。
……だから、できればうけとってほしい、これはあの人のかんしゃの気持ちだからって。そう、いわれちゃって」
そこで言葉が途切れる。
また震えを感じたので、そっと肩を抱き締めると、ファルは目を閉じた。悲しみと困惑で眉根を潜めながら、囁く。
「……うれしいなっておもったの。おじいちゃん、わたしなにもできなかったけど、だいすきだから。
そんな風におもってくれてたの、すごく……すごく……うれしいなって……」
「ああ。……ああ、そうだな」
老人がファルを大事に思っていた気持ちが分かる気がして、アラガキは頷く。
縁もゆかりもない赤の他人であるファルの身元を引き受け、衣食住を世話し、働く場所まで提供した。
破格の扱いをした理由が、愛情や優しさに飢えていたという事なら、あの人がどれほどファルに癒されたのか。
自分が救われた過去と重ねて、孤独な老人の思いに共感できる気がした。
(だから、遺産を分け与えようとしているのか。それが面倒を引き起こす事も、多分分かっていただろうに)
「それで……お前は、どうしたいんだ。ファル」
尋ねるのは酷に思えたが、先延ばしにしても始まらない。
答えを促すと、ファルは眉を八の字にして、アラガキの服の裾をきゅっと掴んだ。
「……わからない。
いまは、だって……おじいちゃんがいなくなっちゃったなんて、そんなこと、しんじられないくらいで……。
にれやまさん、ちかいうちにまた、お話しましょうっていってくれたけど……」
「もし、一人で行くのが嫌なら、俺も一緒に行っていいか」
申し出たら、ぱっと顔を上げて青い目が見開かれる。驚いている様子なので、そんなに予想外かと苦笑してしまう。
「だって……いいの? アラガキ、かんけいないのに」
関係ない、か。その言葉に少し胸が疼いた。
確かに自分は無関係かもしれない。
あの老人とは一度会ったきり、二人の出会いからその後の事は話を聞いているが、直接関わったわけではないから、自分がしゃしゃり出る幕ではないのだろう。だが、
「俺はお前の力になりたい。
お前が困っているのなら、助けたいと思うのは、当たり前だ。
それに、お前を救って守ってくれたあの人には俺も感謝しているから、恩返しがしたいんだ。
……駄目か?」
柔らかく言葉を重ねると、ファルは目を瞬き――その瞳がまた潤み、細められた。かぶりを振ると、小さな涙の粒がぽろりと零れ落ちる。
「ううん……ありがとう、アラガキ。いっしょに……いてほしい」
そう囁いたファルはアラガキの胸に頭を寄せ、また泣き始めた。
空気を震わせる事すら恐れるような、静かに泣くファルの肩をいっそう強く抱きしめて、アラガキは心に刻むように、思う。
――どんな結果になるにしても、ファルとあの人が築いた絆を守ってやりたい、と。