苛烈な戦で勝利をもぎとったその日、イスカンダル王はすこぶる機嫌がよかった。挑んだ敵は完膚無きまでに叩きのめした。血湧き肉踊る戦いは、終わった後もまだこの胸を高ぶらせてやまない。
今、王の軍勢は野営を行い、日が暮れた戦場の後始末に追われている。死者を弔い、兵の一人一人を慰撫して回ったイスカンダルは、天幕に戻り、寝台に巨体を横たえ、ホメロスの書を読みふけっていた。
「うむ、うむ……やはりイリアスは深淵である」
手垢で黒ずむほど読み込み、その一節一節をそらんじる事も出来るほど愛読しているというのに、何度読み返しても、新しい発見がある。変わらぬ興奮がある。つい時を忘れるほどに読みふけっていたイスカンダルはふと、風が頬を撫でるのに気づいた。
「ん?」
火急の用以外では邪魔するなと言いおいていたので、よほどの事がなければ、誰も王の読書を妨げるはずがない。そもそも入室の許しを請う声さえ聞こえなかった。だが……寝台のそばに置いた照明の光が届かぬ闇の中に、確かに人の気配がある。
(よもや、暗殺者の類か)
戦の勝利に湧く軍の隙をついて、鼠が潜り込んだのかもしれない。イスカンダルは書物を棚に置き、むくりと起きあがった。
「そこにおるのは誰ぞ。王の居室にこそこそ入ってくるとは、無粋な奴め」
こちらかと見定めた方角に向かい、ごうと風を押し出すような胴間声を放つ。イリアスを楽しむ時間を削ってまで、ちまちまとこそ泥の相手をする気はない。さっさと去れと思いながら相手の動きを待ったイスカンダルだが、
「……陛下」
彼の大音声とは正反対にか細い声に、つと眉を上げた。それは聞き間違えようのない、愛娘の声。誰何の言葉に応え、おずおずとした足取りで明かりの輪の中に入ってきたのは、やはりシャムスだった。
「何だ、そなたか。顔を見せるのならそうといえば良いものを。こんな夜更けに、どうしたというのだ」
語りかけながら改めてその姿を見て、しみじみ、大きくなったものだと思う。
出会った時は幼く小さかった娘も立派に育ち、今や強壮な王の軍勢の一兵士として従軍するまでになっていた。すらりと伸びた背は男と遜色なく、その秀でた剣技によって女だてらに多数の戦功をあげているほどだ。
一方、無邪気に懐いていた昔と違い、シャムスはイスカンダルに臣下の礼を取り、よそよそしい態度で距離を置くようになっていた。血の繋がらない王の子という立場からすれば、分をわきまえた態度といえるかもしれないが、
(だが、余は寂しいぞ)
何しろ生まれて初めて、幼子を己の子としたのだ。自分のみを頼り慕う小さな手、柔らかく暖かい小さな体はイスカンダル自身が思うよりも強く、保護欲をかき立てた。少女が願うものなら何でも与えてやりたいし、いつまでも可愛がってやりたいと思う気持ちは、今も変わりない。
故に、登場の仕方には意表をつかれたものの、イスカンダルはシャムスの来訪を喜んだ。つい、にーっと笑い、ぽんぽんと寝台を叩く。
「どうしたシャムス。こちらへ来よ。久方ぶりに物語るのであれば、遠慮することはないぞ」
「…………」
嬉しげなイスカンダルに対して、しかしシャムスは困惑顔で押し黙った。その表情は不安の色に染まり、いっそ悲痛にさえ見える。
「何だ、よっぽど怖い夢でも見たのか。なんなら余が添い寝をしてやるぞ、ん?」
もし眠れないというのなら、幼い頃そうしたように、子守歌で寝付かせてやろう。そう思いながら言葉を重ねた時、シャムスは小さく首を振った。
「いえ……陛下……あの」
掠れた声で躊躇いがちに言葉をこぼし、俯く。白い寝間着を纏った手をもじもじ動かした後、やがて思い切ったように顔をあげた。久しぶりにまっすぐイスカンダルを見つめるその眼差しには、なにやらせっぱ詰まった感情が揺れ動いている。
「陛下……私……」
「何だ、シャムス。申してみよ」
どうやら並々ならぬ話のようだ。娘の訪問を喜ぶ気持ちをひとまず押さえ、真顔になって向き直るイスカンダル。
正面から向かい合った王に対して、シャムスは唾を飲み込み、躊躇い、だがやがて意を決した様子で手を動かした。
(む?)
てっきり何か相談をされるのだろうと構えていたが、続いて起きた事態は予想外だった。シャムスは五つある寝間着のひもを次々とほどき、するりと脱ぎ捨てて――橙色の明かりの元、その裸身を王の前に晒したのである。
(これは……)
滅多な事では驚かないイスカンダルも、さすがに目を瞠らずにはいられなかった。
彼の記憶に残るシャムスの裸と言えば、まだ男女の区別もつかないほどの幼い頃のものしかない。それと照らし合わせれば、まるで見違えていた。
(……美しい)
まず胸に抱いたのは感嘆だった。
もとより整った顔立ちをしているシャムスだが、その体は鍛練によってしなやかに引き締まり、女神の彫像とみまごうばかりに完璧な曲線を描いている。呼吸に従って上下する乳房は双丘とも形良く張り出しており、その透明感ある白い肌の上を、肩から滑り落ちた朱の髪が蛇のように這うのが、いっそう艶めかしい。そのくびれた腰から下、いかにも未だ男を知らぬといいたげに、太股が固く締められているのを見た途端、イスカンダルは反射的に劣情をもよおしてしまった。
(いかん、これはシャムスだ、余の娘であるぞ)
略奪強奪が信条とはいえ、彼とて一片の倫理観はある。いかに清らかな処女が目の前にいるからといって、この状況で、その純潔を無闇に奪ってよしとは思わない。
「あー……シャムス。いくらなんでも、もう子供ではないのだから……」
とりあえず理性ある言葉で問いただそうとしたイスカンダルだが――しかし、それは少女によって制止された。シャムスは羞恥に頬を赤く染め、全身細かく震わせながら、
「へ、陛下……どうか私に……一夜の情けを、お与えくださいっ」
それでも決死の表情で、そう叫んだのである。
――いったい何がどうなって、こうなったのか。
あまりにも脈絡の無い展開に一瞬、征服王をしてその思考が止まってしまった。
(余が……シャムスに情けを与える、とな?)
イスカンダルは目を丸くして硬直したまま、それが夜伽の事だと遅れて気がついた。とっさに言葉の意味をつかみ損ねたのは、イスカンダルにとってシャムスは女ではなく、あくまでも己の子であったからだ。
子に欲情する親は、まぁいてもおかしくはない。かのゼウス神とて己の欲望のままに、近親たる姉妹をその腕に抱いて一向に憚らなかったのだから。だがよもや子が親に、しかも幼い子供にすぎないと思っていたシャムスがイスカンダルに、男女の共寝を希うとは。
「シャムス……そなた、自分の言っている事が、わかっているのか?」
つい確認すると、シャムスは怖じて身をすくませ、
「わっ……かって、います……身の程を弁えない、浅ましい願いとも……でも、でも私は……っ」
だがその眼差しは、惑いと恐れを浮かべながら、それでも激しい情欲を宿して、イスカンダルを見つめて揺るがない。
(……本気か)
その視線を受け止めた王は、シャムスの燃える思いを理解し、認めざるを得なかった。
それはまさしく、恋にとりつかれた者の目に違いない。
ここにあるのは、己の身を投げ出してまで恋に殉じようとする、一人の女の姿だ。
――ならば、その思いを。願いを。どうして退ける事ができよう。
我が子同然に可愛がってきた少女の、あまりにも突然の求愛を、しかしイスカンダルは抵抗無く受け入れた。そも、これほど切実に求められて、嬉しく思わぬ男などいはすまい。
「……そうか、シャムス」
いたわりを込めて柔らかく名を呼ぶと、シャムスはまたも身をすくめた。不意に恐れがその表情に浮かび、
「も……申し訳ありません、陛下。私は……私はなんと恐れ多いことを……!」
まるで夢から覚めたように性急な仕草で寝間着を拾い、闇の中へ逃げようと腰をひく。だがその姿が隠れてしまう前に、イスカンダルは細い手をつかんで引き寄せた。
「あっ?」
他愛なく引かれ、とさっと軽い音を立てて、その裸身が王の腕の中に収まる。
「シャムス、そなたの覚悟はよくわかった。こうなってはもはや、悔いはすまいな」
はらりと落ちた白い寝間着を見もせず、イスカンダルは少女の頭を撫でながら、最後の問いを投げかける。厚い胸板に抱きしめられたシャムスは、引きつったように鋭く息を飲み、
「……は……はい……」
か細く、恐れを滲ませながら答えた。その弱々しくも確かな答えに、今度はイスカンダルの総身が武者震いする。戦の興奮が今なお熾火のようにくすぶる体に、乙女の柔肌は新たな火種となって炎を巻き起こして、隅々まで充ち満ちていく。
「ならば、いざ――共に一夜の夢を見ようではないか」
嬉しげにそう囁いたイスカンダルはシャムスの上に覆い被さり、瑞々しい果実を思わせる柔らかい唇を、まずはゆっくりと味わい始めた。
――今宵の夢は、思いもかけず甘いものになりそうだ。