いつものように準備をし、いつものように店を開け、いつものように客を待つ。
この数年ですっかり板についた仕事。それが、ここ数日どうにも手につかなくて困っている。
(アラガキ、何時にくるかな)
開店作業を終えてカウンターの中におさまったファルは、椅子に腰かけて、作業台に置いた小さな時計を見やった。
アラガキは大体いつも同じ時間に来るが、日によって前後にずれる。
最近は可能な限り早く来てくれているようだが、彼も仕事があるから無理はしないでいいと伝えてあった。もちろん本心は、早く会いたいが。
(……いつくるかなって思うだけで、ドキドキする)
ふらふらと足を遊ばせながら、ぽっと顔に血の気が上るのを感じる。
今この場にいなくても、最近はずっとアラガキの事ばかり考えてしまって、地に足つかない気分だ。
何しろ、再会した後、初めて夜を共にしてから、まだ数日。
記憶はまだ鮮明で、家に帰るたびに思い出して落ち着かないし、店にアラガキが来ると意識してしまって、前よりぎこちない態度になってしまう。
(おわかれのキスも、できなくなっちゃった)
それまで挨拶と化していた別れ際のキスも、今はやめている。
肌を交わしてからというもの、少し触れ合うだけで電気が走るような衝撃を感じるし、ましてキスは、
(……火が、ついちゃいそう)
一度してみたら、触れるだけの軽いもので終わらず、抱き合ってしまいには呼吸を奪い合うような激しさになってしまったので、互いを無理やり引きはがして、決めたのだ。
外でキスをするのはやめよう。そうしないと、それだけで我慢できなくなってしまうから、と。
(なんか、はずかしい。なんであんなになっちゃうんだろう)
ああなってしまったのは、やはり自分がいやらしい女だからではと危惧する一方、昔はこんな事絶対無かったのにと不思議な気持ちだ。
(キスしても、ねても、全部きもちわるかったのに)
売春婦の仕事をしていた時は、快楽より嫌悪感が強かった。
自分の境遇はどうにも変えられないのだと諦めて、せめて客の機嫌を損ねないようにと演技で感じているふりをして、気持ちよさはほとんどなかった。それが普通なのだと思っていた。
なのに――今は違う。
(すきなひととするの、こんなに違うんだ)
キスだけで地面から浮いてしまっているような心地よさを感じるし、あの日は服を脱がされ、唇の愛撫を受けただけで軽く達してしまった。
それがあまりにも自分が経験してきたセックスと感じ方が違いすぎて、今も思い出すと混乱してしまう。
(キスだけで、わたし、すごく熱くなるから、びっくりする)
自分の唇に指を当てた途端、思い出して赤面する。
アラガキとキスをすると、体が火照って疼いて仕方がない。
もっと深く、舌を絡ませて吐息を直接感じるようなキスをしたいし、更に先を望んで、がっしりした逞しい体にすがりつきたくなる。
(アラガキは自分もおなじだって、いってくれたけど……やっぱりわたし、すごくいやらしくない?)
一緒にいない時すらこんな事を考えている自分が、恥ずかしくなる。一方で、
(……つぎ、いつ、できるかな)
なんて考えてしまって本当に始末に負えない。もういっそ、飽きるまで抱き合った方が後々落ち着くのでは、などと考え出した時、ぎっ、と扉が音を立てて開いた。
(! アラガキ?)
はっと椅子から下り、背筋を伸ばして立つ。期待して向けた視線がかちあったのは――アラガキではなく、中年の男だった。
「……えっ」
思わず目を瞬いてしまったのは、見覚えのある相手だったからだ。
とはいえ、直接言葉を交わしたのは数えるほどで、しかも何年も前。今はこちらが一方的に知っているようなものだ――彼はいつもアラガキのセコンドとして、リングの傍にいたので。
「……座ってもいいか」
驚いて硬直してしまった自分に、相手が声をかけてくる。それで我に返った。
「あ……し、失礼しました。いらっしゃいませ、どうぞお好きな席におかけ下さい。
……ご注文は、何になさいますか」
中央に腰掛けた男は、ちらりと酒瓶の並ぶ棚を見やり、
「そうだな……じゃあ、バーボンを。それから軽いつまみも頼めるか」
「はい。少々お待ちください」
請われるまま、ボトルを手にとって準備をし始める。同時に手早くつまみも用意しながら、気づかれないようにそっと視線を送った。
相手は赤い帽子をかぶり、緑色のジャケットのポケットに片手を入れた、やせぎすの男だ。
顔に刻まれた皺や鋭い眼光は男の顔をことさら険しく、頑固者で近寄りがたい雰囲気に仕立て上げている。
だが発した声は柔らかいし、ファルが注文の品を差し出せば、ありがとうと表情を和らげて微笑んでくれた。
(……やさしそう)
その笑顔を見たら、こちらも釣り込まれて笑みを返したくなる。
普段のように、客の気分を邪魔しないように、つかず離れずの距離を保とうと一歩下がりかけたら、
「すまない、一杯だけで帰らせてもらう。アラガキが来る前に、退散するつもりでな」
向こうから話しかけてきたので、その場に留まった。
話をしていいのか少し迷ったが、相手はまっすぐにこちらを見つめているので、最初から自分と話すために来たのかと察した。あの、と小さく呟く。
「アラガキの……セコンドをしていた方、ですよね?」
「ああ、そうだ。昔あんたにも会った事があるよ。そんなに話したわけじゃないから、あんたは忘れてるだろうが」
「……いえ、おぼえています」
退役軍人会へ通っていたあの頃、彼女が一人で訪れると、彼がいつもアラガキの下へ通してくれた。
何か記憶に残るような事を話した覚えはないが、ふらふらやってくる娼婦を突き放さない、無言の優しさにほっとしたのを覚えている。
「セコンドを知ってるって事はあんた、アラガキの試合も見てたのか」
「はい」
「それなら、見に来ればよかったのに。あんたが来たら、アラガキはきっととても喜んだよ」
「……はい」
昔は向き合うのが怖くて行けなかったが、今ならそう思えるから、素直にうなずいた。すると何を思ったか、相手は苦笑する。
「いや、でもあんたが観戦してたら、あいつは浮足立って駄目だったかもな。ここ数日、そんな感じだ」
「え」
寝耳に水だ。目を瞬かせると、男の苦笑いが深くなる。
「あいつは今、あんたと付き合ってるんだろう? はた目に見ても、ずいぶん浮かれててな。
今日なんか、スパーリング中にぼんやりしていて、うっかりダウンをとられる始末だ」
「えっ。だ、だいじょうぶ、なんですか」
「ああ、問題ない。だがあまりにも腑抜けてるんでな、今日は少し居残りをさせた。
だから、ここに来るのは少し遅くなるはずだ。悪いな、待たせて」
「い、いえ……。
…………あの……ご迷惑、おかけしてますか。……わたし」
「ん?」
今度は向こうが目を丸くした。変な事を言ってるだろうかと心配になりながら、右手で左手の肘を握って目線を下げる。
「わたしのせいで、アラガキに迷惑かけていたら、すごく……いや、なので。それであなたが注意に来られたのなら、もうしわけないなと……」
「ああ、いや、違う違う」
慌てたように男が手を振った。だが視界の端に映ったそれが奇妙な形をしていたので、つい視線を上げる。
目に入ったのは、三本しかない手――義手だった。
それに目を奪われたのに気づいたのか、引っ込めた手で器用にグラスを持ちながら、男は言う。
「あんたにあいつと別れてくれなんて言う訳がない。アラガキはずっと、あんたを探してたからな。
むしろこうして再会して、付き合うようにまでなったのはでかしたと思ってるよ」
「はい……」
「今日ここに来たのは、そうだな……ちょっとした好奇心みたいなものだよ」
「……好奇心、ですか?」
首を傾げたら、男はバーボンで口を湿らせて笑った。
「ああ。あいつがあんなに惚れこむような女はどんな子か。
……昔辛そうだったあんたが、今どんな風に生きてるのか。
それを自分の目で確かめたかったんだ」
ぎゅ、と手に力がこもる。
この人は自分の来歴を知っているのだろうか。ファルが語った事はないから、アラガキが話したかもしれない。過去を知られているかもと思えば、自然と緊張してしまう。
だが、男は穏やかに続ける。
「……俺はアラガキに、前を見ろと言い続けてきた。
後ろばかり振り返っていても何も始まらない、前を見ろ。前へ行けと言い続けてきた。
アラガキは不器用で、そう簡単に気持ちを切り替える事が出来なかったが、ジョーとの試合で、ようやく前へ足を踏み出せるようになった」
傾けたグラスの中で、からん、と氷が鳴る。
「それが嬉しかったし、あいつからあんたと再会して、恋人同士になったと聞かされたときも、嬉しかった。
俺はあんたの事は良く知らないが、傷ついたもの同士、二人とも前を見られるようになったのなら、こんなに嬉しい事はない」
「…………」
ファルの手から力が抜ける。
柔らかい語りは強張った体をほぐし、俯いた視線を上向かせた。
再び見つめると、男はうまそうに酒を飲み干し、目を細めて笑った。
「付き合いに対して釘を刺しに来たわけじゃない。そこは勘違いしないでくれ。
あいつはあんたの前じゃ格好つけてるだろうが、外じゃざまぁない、恋人の事ばかり考えてふらふらしてるただの男だって笑い話をしたくてな。アラガキが居残りしてる隙を狙ってきたわけだ」
「……ありがとうございます」
からかうように言われて、ふっと顔が緩んだ。
この人はきっとアラガキの常ならぬ様子を心配をして、様子を見に来たのだろうし、自分の事を気にかけてくれているのも、本当だろう。
裏表なく、ただ相手を気遣う優しい心持ちを端々で感じて、とても穏やかな心地がした。
(やさしいひとだ)
それを確信し、本当に一杯だけ飲んで帰ると腰を上げた男に、おごりだと笑いかけた。
「初来店記念です。来ていただけて嬉しかったですし、今日はおごらせてください」
「それは悪い気がするが……そうだな。せっかくの好意なら、受け取っておこう」
一度取り出した財布をしまった男は、
「今度アラガキと一緒に来るよ。その時には払わせてもらおう。こんないい店、通わずにはいられないからな」
「ええ、もちろん。お待ちしてます」
心底から歓迎して笑い返すと、義手で扉を開いた男は肩越しにこちらを振り返り、
「ああ、今日あんたと会った事、アラガキには内緒にしておいてくれ。
……あいつからあんたを、改めて紹介してもらいたいんでな」
左手をぷらぷらと振って言うので、思わずくすっと声を漏らしてしまった。
アラガキも知らない秘密を、アラガキを知っている二人の間で持つのは、何だかちょっと楽しい気がする。
「はい、分かりました。またのお越しを、本当にお待ちしていますね」
「ああ。じゃあな、マスター。美味かったよ」
――そうして、自身の相棒たる男のミヤギに、アラガキがファルを紹介したのは、数日後のことだ。