もうすっかり店のマスターが板についた。
いつものように店を開け、掃除をし、仕入れの食材や酒を確認し、最後に看板を設置して灯りを付けるのも、慣れたものだ。グラスに曇りがないか確認しながら、気まぐれに訪れる客を迎え入れ、いつものように応対する――つもりが、
「……何かいい事でもあったのかい? 今日はずいぶん機嫌がよさそうだ」
たまにふらりと顔を出す常連客にそう指摘されて戸惑った。
「そう……ですか?」
そんなつもりはと意外さが声に滲んでしまう。相手はブランデーに口をつけながら笑う。
「ああ。あんたはいつも笑ってるけど、客商売の愛想って感じだ。でも今日は本当に嬉しそうに見えるから、いい事あったのかと思ってさ」
いい事。そう言われて咄嗟に思い出すのは――もちろん、アラガキに決まってる。
思い出した途端、顔に熱が上る。しかも、
「おっ、赤くなったな。って事は男か? なんだよ、良い奴が出来ちまったのか」
即座に突っ込まれてしまい、思わず頬に手を当ててしまった。やめてください、と恥ずかしくなって呟く。
「そういうお話は、しません」
「はははっ。あんた、か弱そうに見えて、ガード固いからなあ。聞いても教えちゃくれねぇか」
「お店の主役はお客様です。私は黒子のようなものですから」
「黒子に興味を持つ奴だっているだろ。
あんたに言い寄ってる奴も何人か見たし、俺だってあわよくばと思わなくもなかったんだがな」
調子のいい言葉に、また冗談をと苦笑してしまう。
革ジャンが窮屈そうなほど、がっちりした体格の男は、服の合間から覗くタトゥーや顔に刻まれた傷、人相からして堅気とは到底思えない風体だが、話せば愛嬌があって憎めない性格をしている。
常日頃、客とはつかず離れずの距離を保って接するよう心掛けているファルも、この客相手には少し打ち解けてしまって、つい本音を口にしてしまう事があるから油断ならない。
(それに、勘がいいひと。すぐきづかれてしまう)
あっさり看破されてしまったのが気恥ずかしい。ファルは食材をチェックするふりをいて、奥のキッチンへと逃げ込んだ。
――いい事でもあったのか。
指摘されて咄嗟に思い出すのは、アラガキしかない。
(またあえてうれしかった。おみせに来てくれて、うれしかった。たすけてくれて、うれしかった。すきといってくれて、うれしかった)
そして――最新の『うれしい』は、別れ際のキスだ。
思いがけないほど突然、触れたいと言われ、抱きしめられて、キスされたあの日。
(うれしい。ドキドキした。つきあうって、こういうこと?)
ファルは今まで真っ当な男女交際を経験していないから、初めての事ばかりで戸惑いを覚える。
(アラガキが、ずっとなにもしないのも、それがふつうなのかなって思ってた)
告白から数か月経っても、特に目立った展開はなかった。
この店にアラガキがやってきて、つかの間同じ時間を過ごし、去っていく。
気持ちの上では大きく変わっていたけれど、二人の関係は変わりなく、こういうものなのかと思いもしたし、
(なにもしてこないから、アラガキのことすきになったのに。なんで、どうしてって思うんだろう)
どうして何もしてこないのかと、心の奥底で考えている自分に気づいて、不安にもなった。
自分に女としての魅力がないから。
元娼婦だから。
綺麗な身の上ではないから。
手を出さない理由は上げようと思えばいくつもあった。それらを鑑みれば、アラガキが慎重になるのも分かる気はした。
(こんなことふまんに思うなんて、わたし、わがままだ。すきって気持ちをつたえあっただけで、じゅうぶん)
そう言い聞かせてはいたものの、やはり影を振り払う事が出来ずにいた矢先――あの日が訪れた。
そしてあの時から、アラガキが帰るときは、キスをするのが習慣になっている。
『……いいか、ファル』
もう帰ると告げて、扉の前に立って、一瞬ためらった後の確認。
それにうんと頷けば、優しく抱き寄せられて口づけられる。
(うれしくて、あしがちにつかない、みたいな。ああいうの、わかる)
物語の中で、恋人にキスをされて地面から足が浮いてるような感覚になるという描写があって、読んだ時にはぴんとこなかったが、今はそれを実感している。
抱きしめられて、逞しい体に覆われるのが嬉しくて、本当に宙に浮いているような感覚になるし、少しかさついた唇を重ねられると、心臓の音が聞こえないか心配になるほどドキドキして、息が出来なくなる。昨日もそうで、
『アラガキ。いいかって、かくにん。いつもしなくて、いいよ?』
いつも問いかけられるから、思い切って口にすると、こわもてを赤く染めたアラガキはいやその、と目を泳がせた。
『俺が無理強いしているような気がして、ついな』
『アラガキなら、いいよ。なにしても』
そう言ったら、今度は耳まで真っ赤になった彼に身を離され、
『そういう事は、軽々しく言うもんじゃない。……今日は、帰る』
たしなめるように言って、帰ってしまった。
(……すきにして、いいのに)
ぽっと赤くなりながら、何を贅沢な、と首を振った。
アラガキは誠実な人だ。
付き合いだしてから初めてのキスをするまで、きっと色々考えた結果、ようやく踏み切ったに違いない。
真摯な思いを向けてくれているのはいつも感じているから、それがとても嬉しく、自分には過ぎた幸運でもある。
だから、不満なんて抱いてはいけない。不遜だ。
それに、男に好きにしてもらいたいと考える事自体、いかがわしい。若い女の考えることじゃないと思う。
(知られたら、けいべつされそう)
昔気質なところのあるアラガキは、女性は守るもの、純粋なものと捉えている節がある。
アラガキ自身が交際に慎重なのはそのせいだろうし、まさかこちらが先を望んでいるなんて、思いもしないだろう。
(……わたし、やっぱり普通じゃないな)
少し、頭が冷えた。性交渉を嫌っていたのに、それに対する抵抗がなさすぎる気がする。
安易に体を差し出すような真似をすれば、アラガキは何てはしたない女だと眉を顰めるだろう。
(きらわれたく、ない。……わがまま、言わないようにしなきゃ)
そう心に決めると、踵を返し店に戻る。今度はからかわれないように、と顔を引き締めて灯りのもとへ踏み出すと、
「ファル」
同時に店の扉が開いて、話題の本人が現れたので、思わず息を呑んでしまった。一瞬頬が緩みそうになって、
(あっ、だめ。おきゃくさまがいる)
常連客の視線を感じ、慌てて取り繕って、いらっしゃいませと口にした。アラガキも男が指定席に座ってるのに気づき、カウンターの真ん中あたりに腰を下ろす。
「……ご注文はどうしますか、アラガキ」
内心のドキドキを押し隠して問いかければ、普段と同じ注文だ。はい、と準備をし始めたところで、
「じゃ、俺は会計頼むわ」
常連客が腰を上げたので、そちらの対応を先にしなければならなくなった。レジスターの前に立ち、無造作に置かれた紙幣へ手を伸ばした時、
「……なっ。もしかしてあれが、あんたの男か?」
「っ!」
不意に身を乗り出した男に耳打ちされて、ぎょっとしてしまった。目を見開いてしまうと、傷だらけの男はへへへ、と人好きする顔で笑う。
「あんたが客を名前で呼ぶの、初めてきいたからな。いい男じゃないか、惚れるのも分かるね」
「……か、からかわないでください……」
降参して白旗を上げると、男は気持ちのいい笑い声をあげて、店を出て行った。
(あのひと、するどい。というより、わたしがわかりやすいの?)
そんなにバレバレなのだろうか、と熱い頬に手を当てていると、
「ファル、どうした。……絡まれたのか?」
アラガキが心配そうに声をかけてきたので、ハッとした。注文の品を作る作業に戻りながら、
「う、ううん。えっと……アラガキと、つきあってるのかって。いい男だなっていわれたの」
素直に答えたら、相手はうっと身を引いて赤面した。
「そ、そうか。悪い奴では、ないのか」
「うん。いいひとだと、おもうよ」
そういえば自分は客の名前を口にする事がない。あの人の名前も知らないな、と思いながら、酒とつまみをアラガキに出した。
そしていつものように、言葉少なで、お互いの存在を意識しながらのゆったりとした時間がすぎていき――
「……それじゃあ、そろそろ帰るよ」
「うん」
いつものようにアラガキが席を立ち、ファルはカウンターから出て見送る。向かい合うこの瞬間、最近はいつもドキドキと胸が高鳴って仕方がなかった。
(わたし、アラガキがすきだな)
こんなにときめくのはそのせいなのだろうと毎日実感して、幸せな気持ちになる。思わず顔が緩むのを感じると、アラガキもふっと笑って、
「……、」
何か言おうとしたのを止めて、手だけ伸ばしてきた。ふわ、と抱きしめられて、厚い胸に顔を寄せたファルは少し笑ってしまう。
(かくにん、やめたんだ)
昨日の言葉を思い出して、毎回の確認を控えたのだろうと察する。律儀な人、と思いながら顔を上げれば、
「……ファル」
真っすぐにこちらを見下ろすアラガキと目が合う。
戦争の傷跡を大きく残したその顔は痛々しくも優しくて、ああ好きだなと見るたびに感じた。
多分、最初にその姿をちゃんと目にした時、この人なら大丈夫と思えたのは、自分と同じように傷を負った人だと分かったからだろうなと今更ながら思う。
「アラガキ」
顔も、声も、名前も、性格も、ぜんぶすき。そう思える事が、とても嬉しくて、とても幸せだ。その気持ちに浸りながら目を閉じると、ふっと温もりが近づいてきて――唇が重なった。
(すき)
触れるだけの、優しい口づけ。
遠慮がちな、それでいて離れたくないと言いたげな、温もりに満ちたキスは、いかにもアラガキらしいと思う。
最初の時はなかば衝動的だったせいか、口づけてそのまま身じろぎもしないまま、呼吸さえ出来なくなりそうなくらいだったが、最近は少しだけ、輪郭をなぞるように動いて、合間に息を漏らすだけの余裕が出始めている。
(うれしい。……け、ど。ちょっと……ものたり、ない)
また不満が頭をもたげてきて、自分の欲深さに辟易する。
もう少し強引でもいい。アラガキになら何をされても構わないのに、と考えてしまうのが、申し訳ない。こんな事言ったら、その気もないのにと引かれてしまいそうなのも怖い。けど、もう少し……もう少し、何かが欲しい。
「……ふ」
小さく息を吐いて、アラガキの顔が少し離れた。頬を紅潮させ、熱を帯びた眼差しが揺れて、躊躇いがちに伏せられる。その目に一瞬映った自分も、同じような顔をしていたような気がして、
(もの、たり、ない)
くらりと眩暈がした。離れていく熱が惜しい。温もりが消えてしまうのが嫌だ。そう思った瞬間、
「っ」
「!」
くい、と自分から頭を動かして、顔を重ねてしまった。びく、とアラガキの震えを服越しに感じながら、
「アラ、ガキ……」
吐息交じりに名前を呼び、誘うように舌先で唇をなぞる。は、とアラガキの息が触れるのを感じた瞬間、背中に回った腕にぐっと力がこもった。痛いほど強く抱きしめられるのと同時に、
「んっ……!」
厚い舌が口をこじ開けるように割って入ってきたので、思わず縮み上がってしまった。反射的に逃げそうになった頭の後ろを手で押さえられ、退路を断たれる。
「ぁ……、んっ、う……」
「は、ファルっ……」
深く。これまでの遠慮がちなそれとはまったく違う深さで唇が重なり合う。怖気づく舌を誘い出され、絡み合い、口の中を蹂躙するようになぞり尽される。息を確保する間に少しだけ離れると、唾液が互いの唇の間に糸を引いているのが目に入って、心臓の鼓動がいっそう早まるのを感じた。
(きもちいい)
乱暴なほどの荒々しさに怯みながらも、これを欲していたのだと頭の芯がしびれるほどに感じて、はしたない、いやらしいと考える間もなく、それに応える事だけで頭がいっぱいになってしまう。
もっと、とねだるように首に手を回してしがみつけば、アラガキの手が背中から腰にかけてを撫でおろしてきたので、ぞくぞく、と体が震えてしまった。もう一度、と顔を寄せようとしたら、
「ファル……いいか?」
は、は、と短い呼吸を漏らしながらアラガキが強い語調で囁いてきたので、瞬きをした。
いつもの確認。ただそれが、キスをしていいか、ではなく――その先を意味していると、腰に回された手の力強さで察し、息を飲んだ。
確認はいらない。あなたになら、何をされてもいい。全部、全部奪ってほしい。
そのはやる気持ちを全て言葉に出来ず、ファルはただひとこと囁いた。
――きかないで、と。