alights on a flower

 あっ、と声が出たのは、手にしたグラスがつるりと滑ったからだ。
「――!」
 咄嗟にしゃがんで、床に落ちる前に両手で受け取る。
 あまり動作が機敏ではないから、ちゃんとキャッチ出来たことにほっとして、深いため息が出てしまった。
(こわさなくて、良かった)
 この店のオーナーたる老人は、グラス一つ一つにこだわりを持って選んでいる。
 手中のこれも、お前の給料じゃ一生かかっても払えん高価なものだ、丁寧に扱えと口を酸っぱくして言われていた。
(たかいのもそうだけど……大事にしてるもの、こわしたくない)
 詳しく物語られたわけではないが、どの道具にもひとかたならぬ思いがあるのは、見ていれば分かる。粗雑にして、老人を悲しませるような事はしたくない。
(いつもはこんな事ないのに)
 細心の注意を払って扱っているので、うっかり手を滑らせるなんてめったにない。
 何で今日は――と、考えを巡らせるまでもなく。かーっと顔が熱くなって、思わず片手で頬を覆ってしまった。
(昨日の……アラガキのこと、かんがえてたか、ら)
 原因はそれしかない。
 何とか普段通りに店を開いたはいいが、いつアラガキが来るか、来たらどう応対すればいいのか、そればかり気にかかってしまうから、手元が留守になってしまったのだ。
(……どうしよう)
 グラスを棚に置いて、しゃがみこんだまま、腕に顔を埋める。
 昨日……まだ日が変わっていないから、正確には今朝だが……常連客に迫られて困っていたところを、アラガキが助けてくれた。
 ずいぶん前に帰ったのにと驚きつつ、この人はここぞという時に助けてくれると安堵したし、嬉しかった。
 なのに――どうして、あんな事になったのだろう。
『俺は、お前が好きだ』
「……っ」
 アラガキの告白を思い出すたびに心臓が跳ねて、体が熱くなる。
 あの時は驚いて、動けなくなって、目を見られなくなって――結局、考えさせて、と言うしかなかった。
(だって……アラガキがわたしのことを、なんて。考えもしなかった)
 嫌われてはいないだろうとは思った。そうでなければ、こんなに店に来てくれるはずがないと。
 ただファルは、それ以上の何かを望んではいなかった。
(わたしは、今のアラガキを見ていられるだけで、うれしかった)
 近すぎず、遠すぎない距離が心地よくて、それだけで十分だと思っていたのだ――

 老人の教育を受けて、店を開くための勉強に明け暮れていた日々の中。
 街頭テレビでアラガキのメガロボクス復帰を知った時、驚きすぎて心臓が止まるかと思った。
 慌てて調べてみたら、彼は義足を身に着け、過酷なトレーニングを重ねた上、リングに舞い戻ったのだという。
(よかった)
 単純にそう感じたのは、自分がアラガキと共に居た時を思い出したからだ。
 時間がとまったように過ごしたあの日々の中で、彼は少しずつ自分の事を話してくれた。
 夢にうなされること。
 その原因となった、戦場での辛い出来事のこと。
 足を失ったときのこと。
 帰国したとき、彼が慕っていた人はもういなかったこと。
 その人がメガロボクスを教えてくれたこと。
 メガロボクスとの出会いに自分がどれほど救われたか、その人をどれだけ慕い、信じていたかということ……。
 足と師を失ったが故に、もう以前のようにはなれないのだと、彼は言外に告げていた。
 それでいて、メガロボクスの話になると、その暗い表情の中に、ほのかな喜びが垣間見えた。
(メガロボクスのこと、まだすきなのかな)
 尋ねはしなかったが、ファルはそう感じた。
 もしそうなら、彼がリングへ戻れるようになればいい、とひそかに思っていた。
 アラガキはグローブやギアを大事に飾っていたから、未練はあったのだろう。それを身にまとった彼はさぞ格好いいだろうと夢想したりもした。
 だから、彼が念願かなって復帰したのは、嬉しいと思ったのだ――思ったのに。
(どうして? アラガキ……つらそう)
 ファルはもともと、メガロボクスのような激しいスポーツは苦手だ。
 お互いに殴り合うなんて恐ろしくてたまらない。血が飛び散り、痣まみれになり、白目をむいてダウンするような様は、とても見ていられない。
 それを、アラガキが出ているのだからと、目をそらすのを何とか堪えて見続けて、気づいた。
 素人目に見ても、戦場から戻った男は強かった。
 対戦相手は全て一ラウンドKO、凄まじい気迫で打倒され、試合直後に担架で運び出されるのはしょっちゅうだ。
 もともと将来有望な選手だったというから、アラガキはそれこそ、リングの上で本領を発揮していたのだろう。
 けれど、勝利を勝ち取って高々と拳を上げる彼の表情に、笑みは無かった。
 あれほど激しく敵を打ちのめしたというのに、試合が終わると熱がすうっと引いて、虚しさすら漂わせているようにも見えた。
(いたい、のかな)
 街頭テレビや、新聞に載った彼の顔を目にし、指でそっと触れるたびに、思う。
 アラガキがメガロボクスで闘う間、何を考えているのかは分からない。
 だが、ブラウン管や紙面の向こうにいる彼は、昔部屋で無念を噛みしめていた時と、同じ表情をしているように思えた。
(……いたいの? アラガキ)
 メガロボクスに復帰したのなら、南部という師匠にも再会できたのかと思ったが、
(まだ、会えてないのかな)
 あれほど彼が語り、信頼していた人なら、きっとこんな顔のまま、リングに上がらせないのでは、と勝手に想像してしまう。
 セコンドに立つ退役軍人会の人々とは拳を打ち合わせ、親し気に言葉を交わしているように見えるから、アラガキは一人ではない。
 そのはずなのに……どうしてこんなに、寂しそうに見えるのだろう。
(……あいに、いきたい)
 そう思うたび、
(できない。わたし、アラガキを置いていってしまった)
 ぎゅっと拳を握って、思い直す。
 自分で願ったことではない。本当ならまた、アラガキのところへ行きたかった。
 けれどそうすれば彼に迷惑がかかってしまうと分かっていたし、あの時は日中の外出を禁じられてしまったから、どうしようもなかった。
 いやそれ以上に、もし無理をして会いに行ったら、アラガキの前で店主と鉢合わせるかもしれない事が怖かったのだ。
(アラガキには、商売してる女って、みられたくなかった。何もない、何もできない人間、それだけでありたかった)
 世界中でたった一人だけでもいい。
 自分を娼婦ではなく、ただ一人の人として扱ってくれる存在がいてほしい。
 アラガキは出会った時から、自分が売春婦と知っていたけれど、蔑まず、哀れむことなく、ただ存在を許容してくれた。
 それが、ファルにとっては何よりの救いだった。
 だからこそ、アラガキに自分の醜さを改めて見られたくなかったのだ――体で慰めるような事をした後では、なおさら。
(こわくて、あいにいけなかった)
 自分はもう娼婦ではない。会いに行こうと思えば行ける。
 だが、あの日々からすでに時が経ち、アラガキも自分も違う道を歩き始めている。今更、どんな顔で出向けると言うのか。
 試合を見に会場へ行こうかと何度も思ったが、万が一見つかってしまったらと思うとそれも出来なかった。
 ファルはアラガキの試合をテレビや新聞越しに見続け、彼のランクが十七位にまで達した頃……その日はやって来た。

(……試合のあとのアラガキ、とてもいい顔してた。いまと、おなじ顔)
 足が痺れてきたのでいい加減立ち上がり、カウンターを拭きながらファルは思い返す。
 最下位から這い上がってきたギアレス・ジョーとの試合。あの時のアラガキは、それまでとはどこか違って見えた。
 堅実に積み重ねてきた技術や経験は、新人のボクサーとは比べ物にならない。事前のスポーツニュースではアラガキの勝利を断言していた。
 だがいざ蓋を開けてみれば、そんな下馬評はひっくり返ってしまった。
 確かにアラガキの方が、力量は上だったのだろう。
 一度は見事なまでのダウンを奪い、カウントはナインまで進んで勝利が確定したかに見えた。
 だが、ギアレス・ジョーは立ち上がった。
 彼は打たれ、打たれ、何度打たれても、今度は倒れず、耐え忍び、そして――何かを叫んで激高したアラガキを、逆にダウンさせてしまった。
(アラガキっ……)
 テレビで観戦していたファルの背中がひやっと冷たくなり、膝の上で拳を握りしめた。マットの上で動かないアラガキの姿に怯えて、体中に震えが走った。
 幸い、気絶から立ち直ったアラガキは再度ジョーに向き直り……そして、あの激しい殴り合いが始まった。
(いたい)
 見ていて息が出来なくなるほどに、拳の応酬が続いた。アラガキにジョーの拳がめり込むたびに身がすくんだし、逆も怖いと感じた。それでも、
(アラガキ……楽しそう)
 相反する感情がこみあげてきて、ファルは戸惑った。
 なぜだろう。
 あんなに殴り合って、血が飛び散り、痣まみれになって、どちらもふらふらなのに――なぜあれほど、彼らは楽しそうに笑っているのだろう。
 理解出来ないまま、いつしかぶつかり合う男たちの姿に引き込まれ――彼らの互いの顔にグローブが吸い込まれる直前、ブザーが鳴った。
 そして、そこでアラガキの試合は終わりを告げた。
『アラガキ選手の棄権により! 四ラウンド終了TKO! 勝者、ギアレス・ジョー!』
(……アラガキが負けたの。あのとき、はじめてみた)
 かちゃん、とグラスを重ねて思う。
 ファルが見始めてから、アラガキはいつも一ラウンドKO勝ちしていて、ダウンもめったに取られなかった。
 それなのに、ギアレス・ジョーの試合の時は、四ラウンドまで戦い続け、気絶するほどのダウンを取られ、最後はテクニカルKO。
 解説によれば、おそらくスタミナの限界によるもので、義足が長丁場に耐えられなかったのだろうという事だったから、殴打以外の苦痛がアラガキを苦しめていたのかもしれない。
(でも、ほんとうに……あの時のアラガキは、それまでとちがってみえた)
 つきものが落ちたような、というのは、ああいう顔の事を言うのだろうか。
 試合で負けてしまったのに、アラガキはどこかすっきりした、穏やかな表情をしていた。
 何か、肩の荷が下りたような……それまでの、何かに急き立てられているような切羽詰まった雰囲気は霧散していて、とても優しい顔をしていた。
(だから、すごく、ほっとした)
 ほどなくアラガキの引退が報じられたのは少し驚いたが、あの時の表情を思えば、きっと彼は全てをやり切ったのだろうと察せられた。よかった、と思った。
(アラガキ。もう、いたくないよね)
 引退会見の記事に掲載されたアラガキの澄んだ瞳を見下ろして、息を漏らしたのを覚えてる。
 よかった。これであの人はもう、苦しまずに済む。
 メガロボクスを諦めなければならないのはきっと辛いだろうけど、自分で決めた事なら、自分で新しい道を選ぶことも出来るだろう――今の自分のように。
(……アラガキ)
 相変わらず、彼に会いに行く勇気はなかった。
 だが、アラガキを見守る傍ら始めた店も、年月を経てようやく馴染んできて、ファル自身余裕も出てきた。
 そうやって穏やかに流れる日々の中、あの場所へふらりと足を運んだのは、もう動揺はしないだろうと思ったからだった。
 あの場所。
 月もない夜、道に立っていたら男たちに引きずり込まれ、乱暴された路地裏。
 昼間訪れても、そこは影が差して、人目につかないところだった。
 こんな場所であれば、暴力や殺人が起きても不思議はない。よくアラガキが自分を見つけ出したものだと思った。
 この場所で、運命が変わった。あの時アラガキに会わなければ、今の自分は居なかった。
 路地の入口にぼんやり立ち尽くして、しみじみとその幸運を思い返していた時――

『……ファル?』
「ファル」

 ぎっ、と重い音と共に扉が開き、記憶の中の呼びかけと、現在の声が重なって、びくっとした。はっと顔を上げれば――店の入り口、扉を押し開けたところに、アラガキが立っている。
「あ……」
 ばち、と目が合って、思わず絶句した。回想に気を取られて、彼の来訪に心の準備が出来ていなかった。声が出なくてつい固まっていると、
「……いいか? 看板は出てないが」
 アラガキが遠慮がちに尋ねてくる。そういえば出し忘れていた、と失態に気づき、ファルは急いで頷いた。
「ど、どうぞ。……いらっしゃいませ」
 何とか定型句を紡ぐ。アラガキはすっと店内に入り、いつもの場所、奥のスツールに腰を下ろした。
(ど……どう、しよう)
 アラガキが昨日の今日でやってきたのは、きっと答えを聞きに来たからだろう。ぼんやりこれまでの事を考えていたから、まだ何も言えそうにない。
(と、とりあえず……)
 場を持たせようと、アラガキがいつも頼む酒を手早く作った。目も合わせられないまま、さっとグラスを出すと、
「ファル。……その、まだ頼んでないが」
 戸惑う声が返ってきたから、はっとした。そうだった。同じものを毎回頼むにしても、今日は違うかもしれないから、普段なら注文を確認するのに。
「ご、ごめんなさいっ」
 カーッと顔が熱くなる。慌てて引っ込めようとしたが、
「いや、大丈夫だ。何にしてもこれを頼むつもりだった」
 アラガキの方が気を遣ってくれたので、いっそう居たたまれなくなった。
 店を始めてそれなりの時間が経ち、マスターとしてそれなりに経験を積んで、こんなミスはしなくなったのに。
 今日は失敗だらけだ、店を開けない方が良かったかもしれない。そんな事を思うと、身がすくんでしまう。
(アラガキに、へんにおもわれそう)
 明らかに様子のおかしい自分を見て、彼がどう思うのか、想像するのすら怖い。
 消え入りたい気分で、ファルは右手で左腕の肘をぎゅっと握り、言葉もなく俯いた。
 店内はいつも通り、静かだ。
 音量を絞り、空気を乱さない程度の控えめさで流れるジャズと、アラガキがグラスを傾けた時の氷の音だけが、沈黙を埋めていく。
(いつもはこれで、落ちつくのに)
 アラガキと一緒にいる時、ファルはあまり話さない。
 元々語りは得意でないし、アラガキもお喋りではないから、店に二人でいる時はいつも静寂に満たされている。
 それが普段は心地いいのに、今日はどうしても落ち着かない。
 沈黙が、わずかな音が、重たく肩にのしかかってくるようにも思える。
(にげたい)
 とまで思うのは、この店が狭く、互いの存在をどうしようもなく近くに感じられてしまうからだ。
 今日はどうあってもアラガキへ顔を向けられないと思うのに、彼の気配や息遣いを強く意識してしまう。
 相手の目に自分がどう映っているのかと思うと、本当に逃げ出したくなる。
 いっそ、奥のキッチンへ駈け込んでしまおうか、とまで思った時、
「……ファル」
「!」
 不意に名を呼ばれて、肩が震えた。ファル、ともう一度呼んで、アラガキは続ける。
「今日、来るべきかどうか、ずいぶん迷ったんだが。曖昧なままにしておくのは、良くないと思ってな。
 仕事中に聞くことではないんだろうが……つまり、昨日の事を、はっきりさせたい」
「……」
「迷惑な事は分かってる。よりによって、一晩に二人から言い寄られれば、嫌な気分にもなるだろう。ただ、俺は」
「めっ、……い、わくなんて、思ってない、よ」
 とんでもない思い違いをされてると気づいたら、つい言葉が口から飛び出した。勢い余ってぱっと顔を上げれば、アラガキは驚いたように目を丸くしてこちらを見ている。視線が交わると、その表情がふっと和らぎ、優しい眼差しを向けてきたので、体温がまた上がる思いがした。
 ファル、と三度呼びかけられる。
「――ただ俺は、お前に伝えたかったんだ。
 俺はずっと、お前を探していた。
 あの時、みっともなく足掻く俺の傍にいて、……好きだと言ってくれて、抱きしめてくれた事に、ずっと感謝していた」
「アラガキ……」
「実のところ、お前の事をどう思っているのか、俺自身分かっていなかった。
 こうして傍にいられればいい、美味い酒を飲んで、静かな時間を楽しめればそれでいいと思っていた。
 だが、昨日……あの男に迫られているのを見たら、感情が抑えられなくなった。
 勢い任せだったかもしれないが……お前を、好きだと。そう自覚したのは、確かだ」
「…………」
「無理強いするつもりはない。伝えたかっただけだ。
 ……だが、お前は考えさせてほしいと言ってくれた。
 昨日の男に対してと俺に対してじゃ、反応も違う。今だって、普段とは全然違う。……少しは、希望を持っていいのかと、思ってしまうんだ」
 声にならない。顔が、体が熱くなって、恥ずかしい。どうしたらいいのか分からなくて、また俯いてしまうファルに、アラガキは優しく続ける。
「ファル。気を遣わなくていい。ただ、お前の素直な気持ちを聞かせてくれ。
 ……今、お前は、俺をどう思ってる?」
 ――どう、と問われれば。答えは決まっている。
(すき)
 共に過ごした時間はほんのわずかだ。出会ってから今まで、離れていた期間の方が長い。忘れてしまってもおかしくないくらい、長い。
(でも、ずっとおもってた)
 あの薄汚れた宿で、男たちに抱かれていた時も。老人に連れ出されて、勉強して少しずつ世の中を知っていった時も。いよいよ店を任されて、働き始めてからも。
 ずっと、ずっと、アラガキを思い、支えにしてきた。すきに、決まっている。
(だけど)
 それ以上は、求めていない。
 自分は、テレビや新聞越しにアラガキが生きている事を確認できれば。
 店に来てくれて、穏やかな時間を過ごしてくれれば、それでよかった。
 それ以上を考えたら、
「……こわい」
 ぽつり、と言葉が漏れた。アラガキが身じろぎする気配を感じながら、とつとつと呟いた。
「わたし、わからない。男の人、すきになったことなかったから。……だから、こわい」
「…………ファル」
「すきだよ、アラガキ。ずっと、すき。でも、どうしたらいいのか、わからないの」
 ジャズを纏った沈黙が落ちる。
 ファルは自分の足元に視線を落としたまま、小さくなる。こんな曖昧な返事を聞かされて、アラガキも困惑しているだろう。普通の女性なら、もっとはっきり答えられるに違いない。
 好きな人から、好きだと言われて、こんなに嬉しいのに。
(ふつうが、分からない)
 それが酷くみじめで、悲しくなる。
 今度こそ、本当に逃げ出したくなって拳を握りしめた時、がたん、と大きな音がした。
 はっとした時には、アラガキがカウンター越しの正面に立って、こちらを見つめている。
「ファル」
 名前を噛みしめるように呼んで、アラガキは目を細めた。カウンターに手をついて身を乗り出し、俺も分からないさ、と笑う。
「自分で自分が分からなくなるのは、俺も同じだ。どうしたらいいかなんて分からない。
 だが、それなら……俺もお前も分からないまま、それでも一緒に居たいと思うのなら。二人で努力していけばいいんじゃないか?」
「……ふたりで?」
「ああ」
「…………ほんとうに? アラガキ、わたしでいいの?」
 つい、確認してしまう。
 こんな女でいいのか。春を売っていた、見苦しい過去を持つ、何もない女でも。
 するとアラガキは、すっと手を伸ばしてきた。ぽんと肩に手を置き、
「お前がいいんだ。……ファル。俺と、付き合ってくれ」
 真っすぐな目で、真摯に告白の言葉を告げた。
「……っ」
 頬が、熱くなる。咄嗟に視線をそらしたが、肩の重みや熱を感じて、体中の血が騒ぐような、今にも泣き出してしまいそうな、感情の荒波に襲われて苦しくなる。
(すき。……あなたが、すき)
 この思いをどうしたらいいのか、まだ分からない。けれど今、告げるべき言葉は一つしかないのだと悟り、
「……は………い」
 辛うじて呟き、頷いた。すると、ぐっと肩の手に力が入り――不意にアラガキが頭を垂れて、はーーーっと深いため息を吐き出した。
「ああ…………緊張した」
「……きんちょう、してたの?」
 そんな風には見えなかったと目を丸くすると、顔を上げたアラガキが苦笑いする。
「そりゃそうだろう。店に入るまで、三十分扉の前でうじうじしていたくらいだ。振られたらもうここには来られないと思ったら、緊張もするさ」
 そう答えるアラガキの色黒の頬には、今まで見た事がないほど血の気がさしている。
(……こわいの、わたしだけじゃなかった?)
 アラガキも、思いを告げるのは怖かったのか。
 そう思ったら急におかしくなって、ファルはふ、と笑ってしまった。それを見たアラガキもまた頬を緩め、二人して笑いだしてしまう。
(ああ、本当に――わたしたちはまだ、何もしらないんだ)
 不安と混乱と、嬉しさと喜び。
 相反する感情に翻弄されながら、それでも。アラガキの笑顔を見ていたら、未知への恐怖は少しずつ薄らいでいくようで――何だかとても、胸が暖かくなるファルだった。