make home

 自分は金の上手い使い方を知らない。
 元より欲しいものなど無い。必要最低限のものがあれば生活は事足りる。
 趣味もなく、強いて言うならメガロボクスがそれで、こちらは白都が十分すぎるほどサポートをしてくれるので、やはり使いどころが無い。
 故に、試合に勝つたびに金が入ってきて、その額が年を経るごとに大きくなっているのは把握していたが、扱い方を知らないからほとんど放置していた。
 そして、とうとうメガロボクスのチャンピオンを下し、自分がトップに立った時、ここぞとばかりに様々な方面から勧誘が押し寄せた。
 チャンプが自社の商品を使ってくれればいい宣伝になる、という打算は目に見えた。
 まだ若造の自分に、役員クラスの人間がぺこぺこと頭を下げる違和感。元々人あしらいも得意でないから、この時はだいぶ辟易した。
 あまりにも煩わしいものは会社がシャットダウンしてくれたが、白都のグループ企業からの声掛けはおさまる事を知らず、断りの文句も尽きて、ただいらない、と答えるようになった頃。
 銀行の人間と話をする機会があった時、ふと思い立つものがあった。
「お金というのは不動の価値を持つものではありません。景気や外的要因によって、その価値は変動するものです。
 このまま貯金をなさるのも一つの手ではありますが、思い切って運用をなさっては?
 株、FX、投資信託、不動産……これだけの額があれば、様々な投資先を考える事が……」
 資産運用を考えて、というわけではなかったが――不動産、という言葉が何か引っかかったのだ。
(不動産……家、か)
 今は白都の寮暮らし、その前は世話になっていたジムの部屋を借りていて、それ以前は野良犬暮らし。自分はいつもどこかの軒先を借りて、雨風をしのいでいる。
 その事に不満を感じてはいない。むしろ思いつきもしなかった――自分の家を買う、という発想など。
(……いいかもしれないな)
 寮暮らしは他人との共同だ。住居形式はマンションなので、始終顔を突き合わせるわけではないが、自分だけの家、という考えはなかなか興味深いものがあった。
(見るだけ、見てみるか)
 気に入らなければ、やめればいい。自分が興味を示した事を察知した銀行の係員は嬉々としているので少し申し訳ない気もしたが、その時はその時だ。

 白都グループの不動産屋は数え切れないほどの物件を持っているようで、何の気なしに訪ねた自分が予算とおおざっぱな希望を告げると、次から次へと候補を出してきた。
 認可地区の真ん中、メインストリートにほど近い高層マンションの最上階。
 あるいは、ベイエリアで海を一望できる高台にそびえたつ屋敷。
 あるいは、富裕層の豪邸が立ち並ぶ地区の瀟洒な邸宅。
 並べられる資料はどれも美しく豪勢で、故に自分とは肌が合わない、と感じた。
 予算を伝えて出てきたのがこれであれば、自分は立派に億万長者になっているのだろうと他人事のように思う……実感はない。
「そうですね……あとは郊外で交通の便は良くありませんが、こちらも人気のあるエリアですよ。
 自然が多くて、街の喧噪から離れているので、どちらかといえばお仕事を引退された方々がお住まいになっていますが」
 あまりにも手ごたえがないのに焦れたのか、店長が最後に見せてきたのは、先とは異なる美しさを持った風景写真だった。
 街中ではめったに見ないほど豊かな、いっそ森といっていいほどに自然で囲まれた地域。
 家はあるが、一軒一軒の敷地が広く、隣同士といってもかなりの距離がある。
 落ち着いた佇まいは確かに、世間から遠ざかった人々が余生を過ごすのにちょうど良さそうな雰囲気だ。
 興味を惹かれてそれらに目を通していると、並べられた資料の中に、一際異彩を放つ邸宅が紛れ込んでいた。
 手に取って見てみれば、それはシャープな直線で構成され、無機質な印象を与える家だった。
 それまで見せられた家々のように、最新鋭の設備や華麗な装飾など何もない。いっそ近寄りがたいほど、無駄を排除した作りに目を奪われた。
「そちらは海外の著名な建築家によるものです。
 少し前に持ち主の方が売りに出されて、何人かご興味をお持ちですが……御覧になりますか?」
「……そうだな」
 見ただけでは何も分からないが、初めて興味をひかれたのは事実だ。
 頷くとすぐにスケジュールの確認が行われ、見学の手はずが整えられた。

 その家は街から離れた郊外にある。
 長いアプローチに噴水を経て、ようやくたどり着いた玄関先に立つと、やはり無言の威圧感のようなものを感じる、独特な設計をしている。
「これはどういう建築家が作ったんだ」
 屋根の一部が三角形に尖った風変わりなレイアウトを見上げながら尋ねれば、資料をめくって不動産屋の営業が答える。
「こちらはですね、二十世紀のモダニズム建築を代表する建築家のお弟子さんが建てられたものです。
 より少ない事は豊かである、神は細部に宿る、といったコンセプトをもとに、無駄を極限までそぎ落とした美を追求した、とありますね」
(少ない事は豊か。……神は細部に宿る、か)
 その言葉は、目の前の邸宅を見れば十分に伝わってくる。心にも響く。
 中を見ますか、と声をかけられたが、この時点ですでに自分の心は固まりかけているのを感じる。
 ここがいい。ここでなければ駄目だ。
 そう思った時、
「うわっ!? な、何だこの犬、どっから入り込んできたんだ」
 玄関を開けようとカードキーを取り出した営業が、驚きの声をあげて後ずさる。
 何かと思えば、大理石の玄関口のところに一匹、犬が横たわっていた。しっしっ、と営業が追い払おうとすると、大儀そうに頭を持ち上げ、こちらを見る。
「…………」
 犬と、目が合う。大型犬だ。もし十分健康に育っていれば、威厳さえ感じさせそうな灰色の毛並みをした犬は、痩せ細って見る影もない。貧相とさえ言っていい。
 だが、その目。
 やせ衰えてなお、ぎらりとした輝きを宿す、青い瞳。それを見返して、思わず息を飲んだ。
「ほらっ、あっちいけ!」
「そこまでしなくていい」
 ばん、と叩いてまで追い払おうとする営業に眉をしかめ、見かねて制止しようとしたが、その前に犬が立ち上がった。
 営業の威嚇に怯えた風もなく、のっそりした足取りで、こちらを見もせずに歩み去っていく。
「ああよかった……。たまに、通りすがりに捨てていくけしからん奴がいるようなんですよ。あれもその類かもしれません。
 普段、この辺りで野良犬なんて、そう見ないんですけどね」
 胸をなでおろす営業の言葉は、右から左へ流れていく。
 自分はまだ、森の中へゆっくり姿を消した、犬の姿を追っていた。

 内見し、内部も外見と同じようにシンプルな作りになっているのを確認した後、その場で購入を告げた。
 あまりにもすんなりいったせいか、あるいは高額の買い物だからか、営業は嬉しさ半分、疑い半分といった様子で何度も確認してきたが、決意は揺るがない。
 店に戻って諸々の手続きを行い、その後も、試合やトレーニングの合間を縫って、打ち合わせや引っ越しの手はずを整える忙しい日々が続く。
 ついでに通勤手段として車を購入したが、こちらはつい拘りが生じて、街中では不要なほどパワーのある車種にしてしまった。
 車を初めて持つという事に浮かれたのかもしれないし、機械の類に胸を躍らせてしまう辺り、自分にもまだ子供じみた感情があったのかと思わず苦笑する。
 家と合わせて、一生でこれきりというほどの大金が出ていき、銀行の残高は大いに目減りしたが、悔いはない。
 むしろ清々しい思いで、その日のトレーニングを終えた夜、新車を駆って家路をたどった。
 ネオンが踊る街を抜け、街灯が点在する人気のない道をひたすら走らせれば、やがて黒々とした木々の影が周囲に増えてくる。
 高級住宅地と称されるエリアへ滑り込むように侵入し、スピードを落としてハンドルを回す。
 ランタンのような灯りをともした門をくぐって長いアプローチを抜けていくのは、自分の家というより、金持ちの屋敷を訪れるようで、何とも奇妙に思える。
 目の前に迫ってきた邸宅に目を細め、ブレーキで更に減速。駐車スペースへ上手く停めて、一つため息を漏らした。
(今日からこれが日課になるのか)
 毎日こうして、車を運転して家に帰ってくるのか、と思えば、何か胸が疼いた。
 まるで、普通の暮らしをする、普通の人間のようだ。元は何も持っていない野良犬だったというのに。
(……人生、何があるか分かったものじゃないな)
 そんな感慨にふけりながら車を降り、歩きながら家のキーを取り出す。動体センターが察知して、ぱっと玄関先の明かりがつき――そこで思わず目を見開いた。
「お前……」
 犬がいた。初めてこの家を訪れた時にいた、あの灰色の犬が。
 思わず声を漏らすと、犬はまた重たそうに頭を上げて、こちらを見つめる。
 怯えも何もない、穏やかな瞳。それと視線が合い――まるで自分を待っていたかのようだ、と感じて、また、息を飲んだ。
(犬……野良犬か)
 大きな体をしているのに痩せ細った貧相な見栄えで、そのくせまだ誇りを失っていない野良犬。
 その姿が、どこかかつての自分を思い起こさせて、胸の疼きが強くなるのを感じる。
「…………」
 ゆっくり、脅かさないように静かな足取りで近づき、玄関前の犬のところで止まる。
 見下ろしても犬は微動だにせず、こちらを見上げているだけだ。逃げもせず、怯えもせず、威嚇もせず、ただそこにある姿は、自分こそここの主人だと告げているかのように、堂々としている。
(俺よりお前のほうが、ここに似つかわしいのかもしれないな)
 そう思ったら苦笑が漏れた。しゃがみこんで、そっと手を伸ばすと、犬は存外人懐っこく頭をこすりつけてきて、くぅんと小さく鳴いた。
「……お前も来るか」
 人にするように問いかけると、わん! と明瞭な返事があった。ではそうするか、ともう一撫でして立ち上がり、鍵を開けて、犬と共に中へ足を踏み入れる。
 暗い室内にかつんと無機質な靴音が大きく響き渡ったが、それを上書きするように、犬の柔らかな足音が続いて、どこか気持ちがほぐれていく。
(今日からここが、俺の家だ)
 ようやくそんな実感が湧いてきて、勇利は静かに扉をしめ、わが家へ帰ってきたのだった。