baby word

 何の気なしに、新聞読んでやるよと言ったのが、間違いだった。

「……の……活躍で、メガロボクスのトーナメントは……いち……いち……」
「一段と盛り上がりを見せて、だよ、ジョー。ほら、ここと同じ字だろ?」
「お、おう……」
 サチオに指摘されて、ジョーは顔をしかめた。確かに、さっき読んだ段落に同じ文字がある。一度読めたのにすぐ忘れてしまうのが歯がゆくて、
「くっそ、まだ一個も読み終わらねぇ。おっさん、やっぱりサチオに読んでもらった方がいいんじゃねぇか」
 とうとう音を上げたが、テーブル越しに朗読を聞いている南部は、サングラスの視線を向けてきた。
「いいからそのまま続けろ、ジョー。俺に読み上げしたいって言いだしたのはてめぇだろ? 男が一度言った事を簡単に撤回するもんじゃねぇ」
「そりゃそうだけどよ……この調子じゃ、夜までかかっちまうぜ」
 自分は読み書きが不得手だ。
 生活に必要な最低限の知識はあっても、本やなんやらとは縁のない人生だった。
 日銭は殴り合いで稼いでいたし、それで困る事もなかったのだが……全盲になった南部のサポートが日課になった今、今まで経験してこなかった事をあれこれやる機会が増えて、毎度手探りだ。
 そして今日の手探りはこれ――新聞の朗読だ。
(サチオがすらすらやってるから、少しは俺もやれるかとおもったんだけどな)
 まず字の詰まった紙面を見ただけで、くらっと眩暈がした。
 なにくそ、とのけぞりかけた頭を戻して取り組み始めるも、分からない単語が多すぎて、ちっとも先に進めない。
 サチオの支援を受けて何とか読んではいるけれど、まだ一面の半分すら終わらない。
 しかもこれがまだ十数ページあるのを思えば、やっぱり眩暈がしてきて、放り出したくなる。
「気にすんな。最初はなっからスラスラ行くとは思ってねぇ。
 メガロボクスと同じで、読み書きも根気がいるんだ。こいつもスパーリングみたいなもんだと思って、辛抱強くかかれ。
 そら、続きはどうした」
 だが、当の南部は頓着していないようだ。先を読めと急かすものだから、仕方なくジョーは紙面に再度視線を落とした。

 ……そうして結局、その日はようやく一面を読み下すだけで終わった。
(下手な事言うもんじゃねぇな。やっぱ俺には向いてねぇや)
 次の日の朝。届いた朝刊を回収し、あくび混じりにテーブルへ向かう。
 サチオがぱたぱたと配膳する中、
「おっさん、新聞ここに置いておくぜ」
 席についている南部の前にぽん、と置く。すると、
「昨日のか」
 手探りでそれを触った南部が妙な事を聞いてきたから、ジョーは眉根を寄せてしまった。
「いや、今日のだ。昨日のが読みてぇんなら、後でサチオに……」
 言いかけたが、南部が手を上げてそれを遮る。
「昨日の分の読み上げがまだ終わってねぇだろう。一度やると言ったことを中途半端に放り出すもんじゃねぇ。
 ジョー、昨日の新聞持って来い」
「おい、おっさん……」
「ぐだぐだ言うんじゃねぇ、良いから持って来い!」
 ……そうして結局、その日も昨日の新聞を朗読することになり、やはり読了はならず。
 なのに南部は、
「そいつが終わるまで、次の新聞は読まなくていい。時間がかかっても構わねぇ、全部読むんだ」
 と譲らないから、これはまずいとジョーはサチオと顔を見合わせてしまった。
「ジョー……おっちゃん本気だぜ。これ読み終わらないと、新しいの読まないつもりだ」
「つったってお前、この調子じゃどんだけかかるか……。新聞なんて毎日来てるじゃねぇか。どんどんたまっていくのにどうすんだよ」
「どうするって言ったって。……一日も早く、ジョーがこれを読み終わるしかないんじゃないか?」
「俺が? もうサチオが読むんでいいじゃねぇか! その方が断然早いだろ」
 思わず声を荒げてしまったが、サチオは首を振って、真剣な目でジョーを見上げてくる。
「多分おっちゃんは、ジョーにちゃんと読み書きできるようになってもらいたいんだよ。ジョーが自分から苦手な事やり始めたから、最後までやり遂げてほしいんじゃないかな」
「……それは」
 そこまで気合を入れて臨んだわけでもないのに。とは思ったが、一方で、南部がああまで頑固に朗読を続けさせようとする思いも分かる気がして、何となく胸の辺りが落ち着かない。
(……腐っても南部贋作、か。いつまでもトレーナーなんだな。あんたは)
 自分がリングを降りても、師は師のままのようだ。
 それではその思いに応えなければ、男がすたるというものだろう。ジョーは気合を入れるように腕をぐるりと回すと、
「サチオ。おっさんが寝てる間に、こいつの読み書き、手伝ってくれ」
 せめて少しでもスピードアップを図ろうと協力を申し出ると、
「ああ! 最後まで頑張ろうぜ、ジョー!」
 チーム番外地のブレーンは、嬉しそうに顔を綻ばせて、大きくうなずいてくれたのだった。

 ――そんなこんなで、一週間。
「……これからのボクシング業界に新しい未来はあるのか。我々に突きつけられた課題は重く、だがそれ以上にやりがいのあるものとなるだろう。……これで終わりだ、おっさん」
 ようやく最後のコラムを読み終えて、ジョーは顔を上げた。
 テーブルの向かいで茶をすすっていた南部が、おう、と頷く。
「新聞一部で一週間か。ずいぶんかかったもんだな」
「……仕方ねぇだろ。慣れてねぇんだから」
 自分でも時間をかけすぎなのは分かっていたから、ぶすっとして答える。だが、南部が不意に手を伸ばしてきて、紙面に触れた。
 その指が、ぼろぼろになった端や、ジョーとサチオがあちこちに書きこんだメモの跡を探っていく。そして、
「……満点とはいえねぇが、上出来だぜ。ジョー」
 南部はニッと笑うと、ジョーの手をぽんぽんと叩いた。
「こいつぁお前が頑張った証拠の品だ。大事にとっておくんだな。……よくやった」
 そういって、杖を片手に椅子を立つ。
「おっさん」
「俺ぁ畑を見てくる。サチオ、新聞たまってんだろ。野菜包むから持って来い」
「え? でもこれ、まだ読んでない奴だよ」
「いいんだよ、それで。ほら寄越せって」
 言われるまま、サチオがこの一週間に届いた新聞の束を差し出すと、南部は上機嫌の証にワルツを歌いながら、ゆっくり外へ出ていく。
「…………」
 その背中を見送った後、ジョーは自分の手元を見下ろした。
 一週間前の新聞。何度も何度も読みこんだせいでぼろぼろのくしゃくしゃになっているし、サチオやジョーの汚い字がぐちゃぐちゃと書かれていて、もはや判別もつかない有様、どう見ても古新聞のゴミだ。
 だが、この一週間の悪戦苦闘を思い、これだけの量を自分で読み上げる事が出来たのだと思うと、なぜか少しずつ、胸が熱くなってくる。
(……次は、もっと早く読めるようにならねぇと。おっさんが時代遅れになっちまう)
 終わったら捨ててやるとまで思っていたそれを、静かに閉じて、ジョーは笑う。
 なんだか分からないが、爽やかな気持ちに満たされて、無性に体を動かしたい気分だ。

以下掌編のジョー視点のお話でした~。

baby word

「……の……活躍で、メガロボクスのトーナメントは……いち……いち……」
「一段と盛り上がりを見せて、だよ、ジョー。ほら、ここと同じ字だろ?」
「お、おう……くっそ、まだ一個も読み終わらねぇ。おっさん、やっぱりサチオに読んでもらった方がいいんじゃねぇか」
 新聞を握って眉間にしわを寄せたジョーが、テーブル向こうの南部に声をかける。相手はひびわれたマグカップで茶をすすりながら、
「いいからそのまま続けろ、ジョー。俺に読み上げしたいって言いだしたのはてめぇだろ? 男が一度言った事を簡単に撤回するもんじゃねぇ」
「そりゃそうだけどよ……この調子じゃ、夜までかかっちまうぜ」
「気にすんな。最初っからスラスラ行くとは思ってねぇ。メガロボクスと同じで、読み書きも根気がいるんだ。こいつもスパーリングみたいなもんだと思って、辛抱強くかかれ。そら、続きはどうした」
「……分かったよ。えっと……盛り上がりを見せてはいるが……チャンピオン、不在の……」
 たどたどしい朗読はいつ果てることなく続き、一面読み上げるだけで一日かかってしまいそうだ。だが南部は、
(気長に育てるさ。こいつには明日があるんだからよ)
 心の中だけでそう呟いて、すっかり冷めた茶を口に運ぶのだった。