「……藤巻さん。あんた、藤巻さんか」
声をかけられる前に、自分の背後から近付く気配を察していたのは、自分が特別敏いからではない。かちゃっ、かちゃっという微かな、しかし聞き逃すには目立つ、義足の音を耳が拾い上げたからだ。
「……」
煙草に火をつけた藤巻は、それを一吸いした。
未認可地区の路地、部下が建物の影で取り立てにいそしむような場所では、無警戒な仕草かもしれない。
だが、後ろから襲ってくる奴の殺気くらいは分かるし、義足は二所作必要な位置で止まっている。その程度の距離があれば、十分対応できる。
なので、つけたての煙草の味を深々吸い込んでから、藤巻は背後に振り返った。
視界に映ったのは、一人の男だった。アーミージャケットを羽織った、三十がらみの男。
顔に大きな傷跡があり、下はズボンで覆われているが、体躯に比して、明らかに中身が薄い。義足故だろうと見て取り、藤巻は煙を吐き出した。
「……引退したメガロボクサーが何の用だ。金に困ってるのなら、融資の相談に乗ってやるが」
男を藤巻は知っている。
彼の主な領分は地下試合だが、公式戦のめぼしい選手には目をつけていたから、男の正体は容易に知れた。
尤も本人は隠す気がなさそうだし、隠せもしないだろう。戦場の爪跡を、こうも目に見える形で刻まれていては。
義足の男――アラガキは、首を振った。
害意のなさを示すように、空の両手を見せながら、
「金には困ってない。あんたと話がしたいだけだ」
率直に言ってきた。
ほう、と藤巻は向き直る。
今のところ敵意は感じないが、この男は戦場を生き抜いた経験を持っている。いつなんどき、狂気が牙をむくか知れたものではない、とこめかみを緊張させながら、何の話だ、と先を促す。
「金の話でないとしたら、何だ。もっといい義足をつける病院でも、紹介してほしいのか」
「南部さんの事だ」
ぴり、と目元が引きつる。そして思い出した。そういえばこの男は、かつてあの男の愛弟子だった。
「……それこそ今更、何の話だ。あの男との商売はすでに終わっている。今はもう、何も関わりがない」
「そうは思えないな」
淡々と告げた男が、ポケットに手を入れた。取り出した何かを投げ捨てる。
それを目で追った藤巻は、かすかに眉を上げた。
地面に落ちたのは、ところどころに赤が飛び散った金の鎖だ。見覚えのあるアクセサリーは、彼の部下が揃いで身に着けているのとそっくり――いや、そのものだろう。
「あんたの手下が、目の見えない南部さんに襲い掛かろうとしたから、俺が警察に引き渡した。もっとも、金を積んですぐ出てくるんだろうがな」
「そんな指示はしていない」
地面から視線を上げ、きっぱり言い放つ。
南部贋作との取引は、メガロニアのバロウズ戦をもって終了している。
藤巻はもうあの男に近寄るつもりはないし、部下にもそのように命じていたのだが――どうやら物の分からない連中が逸ったらしい。
「これは俺の手落ちのようだな。部下のしつけがなっちゃいなかった。同じことが起こらないよう、十分言い聞かせておく。悪かった」
「…………」
アラガキが目を眇めた。
裏社会にどっぷり浸かった男の言葉がどれだけ当てになるのかと疑う眼差しに、藤巻は微笑する。
(当然の反応だな。脇の甘いあいつらとは違うようだ)
地下試合で八百長に手を染め、借金を返し切れば自由になれるのだと無邪気に信じていた男と若者。あの時の彼らであれば、藤巻の言葉をすんなり飲みこんだだろう――多少の警戒心と、それを上回る恐怖に飲まれて、ありもしない希望を夢見たことだろう。
だが、目の前の男は違う。
路地裏から聞こえる乱闘やうめき声に眉一つ動かさず、藤巻を前にして怖じることなく、手下を警察に叩きこんだと正々堂々言い放つ度胸。
その目は影を纏いながらも澄んでいて、ああこれは使いやすい男だなと感じる。
(恐怖を知り、怯え、乗り越え、純真であり続ける狂気。……惜しいな、地下に落ちてくればいいものを)
未認可地区の闇よりもっと直接的に、命のやり取りを目の当たりにしてきただろう、戦場帰りの男。
ちょっとやそっとの脅し文句や暴力では怯まないだろうが、その分精神的な揺さぶりに弱そうだ。
南部をキーに地下へ転落させる事が出来そうだし、そうなったら面白い見世物になるだろう。
だが、藤巻は煙草を捨てた。
火のついたそれを踏みにじり、ふいと背中を向ける。
「藤巻さん。話は終わっちゃいない」
警戒心もあらわなアラガキの声に、軽く手を振ってこたえる。
「終わりだ。あの腑抜けに用はない、関わるつもりもない。俺は金貸しだ。金が入用になったらまた来るんだな、アラガキさん」
取り立てを終えた部下たちがばらばらと後ろについてくる気配を感じながら、藤巻は悠然と黒塗りの車へ向かった。
開かれたドアから乗り込むとき、ちらりと視線を向けると、義足の男はまだこちらを見据え、立ち尽くしている。
(あんたの周りには番犬が多いな、南部さんよ)
くっ、と笑う彼に部下が怪訝な顔をしたが、藤巻は構わず、革のシートに腰を落ち着けた。
シガーケースから新しい煙草を取り出して口にくわえるが、火をつけない。
まるで指をしゃぶって安心する子どものように、藤巻はフィルターを軽く噛みしめて、目を閉じたのだった。