~片時も君が頭から離れない 君への思いが止められない 想像するんだ 君と幸せな結婚をする自分を~
先程から窓の外でギターとともに歌声が響いている。
メロウな曲調は湿っぽく、朝聞くには向かない歌だ。
南部はライムを浮かべたコップのビールで口を湿らせ、顔をしかめた。
「女々しい歌を歌いやがって、聞いちゃいられねぇな。女にぐだぐだとみっともねぇ」
独り言のつもりだったが、カウンター越しにそれを拾い上げたバーテンが笑い声を漏らす。
「男は皆ロマンチックな生き物なのさ、ガンサク。あんただってそうだろ? この国の血を引いてるんだからさ」
目を向けた先では、メスチーソの男がニコニコしている。
その口から発せられる訛りの強いスペイン語を南部は全て理解できないが、表情や身ぶりで何となくのニュアンスは汲み取れるので、さほど会話に不自由はない。は、と笑う。
「よせやい、俺ぁ日本生まれの日本育ちだ。
こっちの事なんざ何も知らねぇし、仕事じゃなきゃ来る気もなかった」
「おいおい、国をあげて歓迎されてるのに冷たいな。ここじゃあんたはヒーローなんだぜ。うまい思いもたくさんしただろ?」
そりゃな、と肯定はする。
長引いた戦争と経済制裁の煽りを受けて、この国は常に苦境を強いられている。
国民を支えるのは神への信仰とメガロボクスという真逆の二柱。
起死回生の一手と招致したメガロボクスの国際大会に我を忘れて熱狂し、死人が出る事態に発展しているほどだ。
そして南部贋作という、この国の血筋を引く上位ランカーの来訪は彼らを興奮のるつぼに突き落とした。
空港には人々が大挙して押し寄せるわ、首相やら大臣やらお偉いさんに引き合わされるわ……まさに下にも置かぬ扱いで、目を白黒させてしまった。
しかし、楽しくやらせてもらったのも事実。
元よりお祭り騒ぎは好むところなので、さらに人の奢りならばなおさら酒がうまくなるから、南部は滞在を大いに満喫した。
「アビーはまだ来ないのか? いくらねぼすけでも、あんたが帰る日くらい早起きするだろうに」
楽しくやった、その最たるものの名前を出されて、南部は肩をすくませた。ふん、と頬杖をつき、
「こねぇだろ。あいつには昨日ふられたよ」
「えっ、そうなのか? どうして、あんなに仲良かったのに」
「どうもこうもねぇさ。俺は好きだが、一緒に日本へ来る気はないんだと」
するとバーテンは訳知り顔で頷いた。
「ああ、そりゃ仕方ないな。アビーはここから出ていくなんて考えたこともないだろうから。俺もだが」
そしてニヤッと笑い、自分の胸元を指差して、
「残念だったな、ガンサク。揃いのタトゥーまで入れたのに」
こちらの入れ墨を示してきたから、うるせっ、と瓶に残ったビールをコップに注いだ。
ぐびぐび飲むその脳裏には、昨夜の光景が浮かびあがる。
『あらごめんなさい、ガンサク。それは出来ないわ』
この国最後の夜に熱く抱き合ったというのに、彼女は南部のプロポーズをあっさり断った。
『何だと? 俺を愛してるんじゃないのか』
まさか断られると思わなかったので、思わずきつい口調で問いかけると、褐色の肌にアーモンド形のつぶらな目をしたエキゾチックな美女はニッコリ笑い、
『ええ、愛してるわ。でもあたし、ここが好きなの。よそには行かないわ。
どうしても結婚したいなら、あなたがここに残ってくれなきゃダメよ』
(そんな事はできねぇ)
咄嗟にそう思ったら、言葉がでなかった。
彼女は結婚したいと思うほど好きだが、この国に骨を埋めるつもりはない。ここは彼の故郷ではないから。
『ほらね、出来ないでしょう?』
黙り込む彼にアビーは弾けたように笑った。そして顔を覗き見て、
『でもガンサク、そんな顔しないで? 遠く離れていても、あたしはあなたを愛してるわ。試合は全部見るから、あなたはあたしの為に闘って、勝利をささげてくれるわよね?』
(……勝手を言う女だ)
思い出しても苦笑が漏れる。
炎が一気に燃え上がるような恋は、あっさり終わった。旅先での思い出ということなら、きれいな形で幕を引いてよかったのだろう。
バーテンが、窓の外を親指で示して、笑う。
「何ならあんたも歌えばよかったのに。俺はバンド連れて窓の下で歌ったから、かみさんのハートを射止めたんだぜ」
「んな事出来るかよ、俺ぁ日本人だ。……っと、そろそろ時間だな」
大会は終わり、騒ぎにも疲れ、人目を避けて裏寂れた酒場へ入り浸っていたが、そろそろフライトの時間だ。コップを干し、代金にチップを添えて立ち上がると、
「じゃあな、ガンサク。あんたと話せて楽しかったよ。俺は死ぬまでここにいるから、また来てくれよな」
握りこぶしをつき出してきたので、
「ああ、気が向いたらな」
自分の拳をごつんとぶつけて、別れの挨拶をする。
そしてきしむ扉を押し開けて外に出た。
途端、突き刺すような太陽の光が降り注ぎ、目を瞬かせてしまった。
(よく晴れてやがる)
視線を落とせば、バーへ入る前に激しく降り注いだスコールの跡はほとんど乾いていて、痕跡すら消えかけている。
(やれやれ、女みてぇに気まぐれな国だな)
肌を焼く陽光にくらくらさせられたかと思えば、バケツの底が抜けたようなどしゃ降りが降り注ぎ、またからりと晴れるのだから、女の変わりやすい心そのもので、振り回されて仕方ない。
だが、軒先で雨宿りをしていた男が気まぐれにギターを取り出し、切々と愛の歌を奏でるのを通りすがりに聞き流すのも、なかなかおつなものだ。
(お天道さんも雨も女心もいつ変わるかわかりゃしねぇ。だから今この時をめいっぱい楽しむ。
……なるほどな、そういうところは悪くねぇ)
刹那的な生き方を全力で楽しむ空気は心地よい。
あるいはそう思うことこそ、確かにこの国の血が自分の体に流れている証拠かもしれない。
そんな事を思いながら、南部は一人でワルツの鼻唄を歌い、帰路へとつくのだった。