――血に染まった袖が、腕にまとわりつく。
ぬめる感覚に不快を覚えるが、それよりも、痛みのせいで車椅子の車輪を上手く回せない事に苛立ちが募る。アラガキは切れる息の合間に舌打ちし、動きを止めた。
(……くそっ)
背もたれに寄り掛かって仰いだ夜空は雲に覆われ、月も星も見えない。
これ以上遅くなると、退役軍人会の皆が心配するだろう。それは分かっていたが、電話をする気力が湧かなかった。
今迎えにきたらきっと彼らは、腕を血塗れにしている彼に驚き、何があったのか問いかけてくるだろう。
(何もなかった)
包帯に覆われたのと反対の目を閉じると、真の闇に包まれる。暗中で、アラガキは喉の奥からうなりを漏らした。
(何もなかったんだ。……あの人は、待っていてくれなかった)
アラガキにとってのよりどころ――メガロボクスの師、南部贋作は姿を消した。
何度手紙を送っても、電話をしても、何の音さたもなかった。
だから、ようやく外出許可を取って、南部メガロボクスクラブを訪れたのに。彼を待っていたのは、借金督促の張り紙に埋め尽くされた、無人の建物だけだった。
入口は固く閉ざされ、人影一つない。
窓越しに見るだけでも、長く放置されているのは見て取れた。
(……いつでも待っていると、言ってくれたのに)
自分でも、予想しなくはなかった。
あの人がもし自分からの手紙を見たら、返事をしないわけがない。電話をかけないわけがない。
そうしないのは、あの人がもう居ないからかもしれないと、考える時もあった。
それでも、もしかしたらタイミングが悪かっただけかもしれない、出来ない事情があるのかもと、わずかな希望にすがった。
その結果が……これだ。アラガキは血で汚れた右腕を、一方の腕で掴んだ。
『お前が帰ってくる場所はここだからな。いつでも待ってるぜ』
無人のジムを前にして、南部の声が耳に蘇った瞬間、突き上げるような激情に我を忘れた。
ガラスに拳を叩きつけた上、勢い余って体ごと室内へ飛び込み、激しく頭を打ち付けた。割れた破片で腕は流血、他にもあちこち切り傷が出来、打った頭も体も何もかも痛んで、這うような呻きが漏れた。
だが、立ち上がれない。自分は足を失い、倒れた時手を差し伸べてくれる、恩師も失ってしまった。
(南部さん)
塵の積もった床で、絶望とともに横たわる。視界に映るのは使うものもなく打ち捨てられたサンドバッグや、くすんだ白い布に覆われたリング。
慣れ親しんだジムのはずなのに、ここは酷く寒々しくよそよそしい。そして鼻につく濃い血の臭いが、前線の記憶をフラッシュバックさせた。
脳裏をよぎる荒涼とした戦場の風景が、今目の前の景色と重なって、どうしようもなく胸の奥が締め付けられる。
「……南部、さんっ……」
アラガキは助けを請うように名を呼び、床で蠢いた。
……そうして、アラガキはジムを去った。
だらだらと血を流す腕に、反対側の袖を破き、巻きつけて止血する。地面を這って外に出て車椅子によじ登り、何とか帰路を辿っているが、歩みは遅々として進まない。
腕が痛んで車椅子を上手く動かせないのもあり、また、今帰らなければならない場所が、本来自分が望んでいたそれと異なる現実が、いっそう帰宅を億劫にさせていた。
のろのろ進んでは休み、進んでは休みを繰り返して、ようやく半分まで来たというところで、再度車輪を止める。
空を仰いで、飽きもせず絶望に沈んでいると、
「……ったく、大人しくしてりゃ、痛い目見ずに済んだのによ」
「次からは素直になれよ、馬鹿女が」
不意にとげとげしい罵声が聞こえてきて、目を開けた。
声の方に顔を向ければ、離れた路地裏から、人相の悪い男が二人出てくるところだ。アラガキには気づかないまま去っていくのを見送り、
「…………」
特に何か気になったという訳でもなかったのだが……アラガキはそちらへ向けて、車椅子を動かした。短い距離も苦労しながら、何とか路地にたどりつき、覗きこんで――息を飲む。
「……っ……」
薄暗がりの中、女が一人うずくまっていた。
うつ伏せなので人相は分からないが、おそらく若い女だ。呻き、体を小さく縮こまらせている。
「おい、大丈夫か」
咄嗟に声をかけると、細い肩がびくっと跳ね、女が勢いよく振り返った。
乱れた長い髪が顔にかかってやはり表情はよく見えない。だが、大きく見開かれた青い目と視線が合った時、
(……怯えている)
戦場でもよく見た恐怖の色を見出だし、アラガキは女の状況を理解した。靴が脱げおち、服が引き裂かれているのであれば、あの男たちに乱暴されたのだろうと察せられる。
「……大丈夫だ。俺は、何もしない。……いや、何も出来ない、というべきか」
落ち着かせようと口にした言葉が、自嘲に冷えた。
自分に足はないし、腕も怪我をしている。この状態で女をどうこう出来るわけがない。その冷たさを敏感に察したのか、
「…………」
無言ながら女が体を起こし、こちらの様子を窺っている。
ずたずたに布を裂かれたせいで肌もあらわだ。せめて手で隠そうとしているのが不憫で、アラガキは目を背けた。自分の服を貸そうかと思ったが、血だらけになっているのを貰っても困るだろう。
「救急車を呼ぶか?」
とりあえず尋ねると、視界の隅で女が激しく首を横に振った。
その反応で、もしかしたら正規IDを持っていないのだろうかと思った。女は一見して裕福には見えず、未認可地区の住人のようだ。正規IDを持たない人間は珍しくもなく、無保険での治療は高くつく。
しばし思案したあげく、アラガキはポケットに入れていた財布を取り出した。そのままぽん、と女と自分の間に放り投げ、
「少ないが、足しにしてくれ。……じゃあな」
相手の返事も待たず、車椅子の向きを変えて、路地裏から出て行った。女が気がかりではあったが、これ以上アラガキに出来る事はなさそうだし、
(……他人を気にしている場合か)
今は自分の事で精一杯のはずなのに、何をしているのだろう。
有り金を全部やって、善行を施したつもりか。
あるいは、自分より不幸な人間を見つけて、傷心が癒されでもしたか。自分を嘲笑った後、アラガキは歯を食いしばった。帰路はまだ、遠い。
それからしばしの時を経て、後。
――これは夢だと、分かっている。
暗視スコープの圧迫感で高ぶる緊張に耐えきれず、ぐいと引き下ろした。
広がる視界に映るのは暗鬱な光景。明かりのない廃墟の中、瓦礫と死体だけが転がるただの戦場跡だが、スコープ越しに見るよりは広く見えて、張り詰めた神経が少し緩んだ。
――これは夢だと、分かっている。
その時視界の隅に光がよぎった。はっとして銃口を向けたが、人影はない。彼の目が捉えたのは、薄暗がりの中でも自ら発光して輝く、一匹の蝶だった。
(蝶? なぜこんなところに)
花ひとつないこの場所でどうやって生きているのか。つい目で追えば、蝶は舞い降りて止まり、羽を休めた――倒れた人間の指の先で。
――夢だと、分かっているのに。
はっと息を飲んだのは、倒れ付した女が、身を呈して守るように小さな包みを抱き締めていたからだ。
(赤ん坊か?)
死んでいるだろう。だが確かめずにはいられない。咄嗟に走り寄って跪き、
「おい、生きてるか!」
肩を掴んで引き起こした瞬間――アラガキは、死神の目をまともに覗きこんだ。
「――――!!!!」
凄まじい絶叫に驚いて飛び起きた。固いベッドの上で身を起こしたアラガキは、肩を揺らして激しく息をつく。
(……今のは、俺の声か)
額から滴る汗をぬぐい、痛む喉を押さえる。そして一人で嗤った。
毎日こうだ。眠りたくない、夢を見たくないと睡魔に抗いながら浅い眠りに落ち、繰返し同じ悪夢にうなされ、悲鳴をあげて目覚める。
あれは夢だ、自分はもう戦場にいないと自覚できるのに、恐怖は毎日、変わることなく彼を脅かし続ける。
「……くそっ」
無い脚が、ずきずき痛み始めた錯覚を覚えて、乱暴にさする。毒づいた時、るる、と電話が鳴った。
「……」
一瞬無視したくなったが、骨の髄まで染み付いた兵士根性が、律儀に受話器を取らせる。はい、とかすれた声で応答すると、
『起きてるか、アラガキ。お前に客が来てる』
電話の向こうで落ち着いたミヤギの声が響いた。客、と聞いて心臓が跳ねた。
(まさか、南部さん?)
期待に一瞬、憂鬱な気持ちが吹き飛びかける。だがミヤギはそれと察したのか、否定を口にした。
「違う。……若い女だ。お前に助けられた礼を言いたいそうだが、覚えはあるか」
女、しかも自分が助けた。そういわれてもぴんと来なかったが、車椅子でロビーに向かうとぽつんと女が立っていた。所在なさげにキョロキョロしていたが、アラガキに気がつくと、
「あ……あの。こんにち、は。おぼえて、ますか」
ぺこっと頭を下げてから、おそるおそる尋ねてくる。
背中の中ほどまで伸びた髪はぼさぼさ、体は栄養を十分に取れていない風情で細い。顔を少し傾けると、髪の下のこめかみに大きな絆創膏がかいまみえて、痛々しく映る女だ。
アラガキは目をすがめた。やはり見覚えがない。普段から男だらけの生活で、女遊びもしないから、接する機会もほとんどなかった。
「悪いが……記憶にない。誰かと間違えてないか?」
すがるような瞳に罪悪感を覚えたが、そういわざるを得ない。申し訳ないと思いながら答えると、女は服を探って、
「……これ」
おずおずと何かを差し出した。
(俺の財布?)
それを目にしてはっとした。改めてみれば、不安そうな青い目が記憶を呼び起こす。そうだ、南部を訪ねた帰り、乱暴されて弱っていたあの女だ。
(夜だったし、よく見えなかった。見覚えがないはずだ)
「ありがとう。よくここが分かったな」
名前も名乗らずに別れたのに、と思いながら財布を受けとると、女はそれを指差し、
「……中にここのじゅうしょ、あったから」
言葉少なに答える。そういえば恩給課に住所変更申請をして、そのまま入れっぱなしにしていたなと思い出して苦笑した。
「わざわざ返しにきてくれたのか。律儀だな」
「……ちょっとつかったけど、あとで足したから。……あの、ありがとう」
ぼそぼそ呟き、ぺこりと頭を下げる。その怯えた様子に、アラガキはつい眉根を潜めた。派兵先で民間人を保護した際、こういう娘をよく目にしたと思い出したからだ。
(…………あんな暴力は、どこにでもある)
か弱い女子供は世界中、どこでも犠牲になっている。戦場でないだけ日本はまだましだが、それでも皆無ではない。
ありふれた不幸なのだ。女が乱暴されるのも、自分のように、心身をずたずたに引き裂かれる事も。
「……あの……じゃあ……」
じっと見つめられて居心地が悪くなったのか、女が帰るそぶりを見せたので、
「待て。……朝飯は、済んだのか?」
考えるより早く、アラガキの口から言葉がこぼれ落ちた。
女は、ファルと名乗った。
年は自分でもわからないようだが、見た目には二十代前半に思える。
食事をしながら話を聞けば、物心ついた時から親もなく、今はたちの悪い女衒に捕まって、売春を強いられているらしい。
本当は嫌だが他に生活の手だてが見つからず、仕方なく毎夜道端に立って、通りすがりの男の袖を引いているという。
(……俺に何かしてやれればいいんだが)
話を聞いて同情を禁じえなかったが、アラガキにしてやれることは少ない。
自分とて、国の恩給にすがってなんとか生きている、ごくつぶしだ。
今してやれる事といえばせいぜい、食事をさせて、話を聞いてやるくらいしかない。
そんな自分の無力さと偽善にほとほと嫌気が差したが、ファルのほうはそれでも気がまぎれるのか 、やがてアラガキのもとへ通うようになった。
仕事を終えた朝にふらりとやってきて、食事をし、後はアラガキの部屋で、何をするでもなく時を共に過ごす。
アラガキもそうだが、ファルは趣味もやりたい事も特にないらしい。
部屋にあげた後、彼がリハビリに行って帰ってきても、朝と同じ格好で窓の外をぼんやり眺めていたり、一人で黙々とあやとりをしていたりで、アラガキの目にはなおさら不憫に見えた。
だが一方で、静かな客人の存在はアラガキに奇妙な落ち着きをもたらした。
これまで病院と自室を行き来するだけで、虚脱感と焦燥感に駆られてむやみにいらいらしていたのが、彼女がいるときは風の無い湖面のように、心が凪いでいく。
(お互い傷だらけで、励ましも叱咤もしないからか)
医師も仲間たちも、アラガキを支えて応援してくれる。その気持ちは理解出来るし、感謝もしている。
だが今のアラガキには、前向きな励ましの言葉も、しっかりしろと叱咤する言葉も重く、受け止めがたかった。
八つ当たりと分かっていても、自分が世界一不幸な人間のように思えて、お前たちに何が分かるんだとむやみやたらに噛みつきたくなってしまう。
だが、ファルは何も言わない。
彼女がぽつりぽつりと自身の事情を語るから、つられてアラガキも少しずつ話をしたが、黙って頷いているだけだ。
時折、幻肢痛に悩まされる彼の背を心配そうに撫でてくれるが、それ以上踏み込んでは来ない。
(きっとそれが、この子の生き方なんだろう)
人の顔色を伺い、不用意に立ち入らず、ただ相手を受け入れるだけ。
彼女はそうやって世間の逆風を受け流して生きてきたのだろうと思えば、なおさら哀れだ。その一方でありがたくもあり、いつしかアラガキは彼女の来訪を待ち望むようになっていた。
だが――穏やかな日々はいつも、突然終わる。
青く発光する蝶が、目の前を通り過ぎる。
は、と息を吐いた時にはもう居ない。自分の前にいるのは、倒れ伏した人間だけ。何人も、何人も、何人も。うつ伏せになった人々の顔は見えず、ただその誰もが、腕の中に布の塊を庇うように抱きしめている。
――あ、あぁ……。
目の前が白黒に明滅する。突然の爆発は熱を感じたのも一瞬だった。体を吹き飛ばされ、意識も暗転し、次に目を覚ました時は地獄の苦しみが待っていた。
――ああ……足……俺の、足が……!
何人もの仲間たちを見送ってきた。彼らがベッドの上で、国に帰りたい、せめて家族のもとで死にたいと泣きわめくのを必死で励ましてきた。
だが、あんなものは何の気休めにもなっていなかった。
――痛い、熱い、痛い、痛いんだ、足が痛いんだ……!
喉を枯らして叫んでも、与えられるのは鎮痛剤による強制的な眠りだけだった。目の前で爆弾が爆発したのだから、生きているだけでも幸運だと言われても、こんな苦しみを味わうくらいなら死んでしまった方が楽だと思った。激痛にあえぎながらアラガキは叫ぶ、
――嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ、ここは嫌だ、帰りたい、帰りたいんだ、南部さん……
「……南部さん!!」
「きゃっ!」
がっ、と掴んだ腕は異様に細く、折れてしまいそうだった。は、と我に返ったアラガキが眼を瞬くと、ぶれた視界に映ったのは自室のベッド、それに自分の顔を覗き込んでいたファルの顔だった。
「……ファル? 来て、たのか」
まだ早い時間ではないかと時計を見たが、短針はすでに十を指している。どうやら寝坊したのは自分らしい。うん、と彼女はぎこちなく頷く。
「…………かぎ、あいてて。アラガキの、声がしたから。かってに、入って、ごめんなさい……」
「……いや。謝らなくていい。俺こそ、驚かせて悪かった」
どうやら、かなり大きな声でうなされていたらしい。普段ファルと会う時は眠る事がないから、初めて耳にしてずいぶん不安にさせたのかもしれない。
掴んだままだった手を離して謝ると、ファルは赤くなった手首をさすった。首を左右に振って彼の謝罪を受け入れた後、
「…………アラガキ。いたい?」
不意に尋ねてくる。足の事を聞いているのかと思い、少しでも安心させようと微笑む。
「いや、今は大丈夫だ」
だが、彼女はまたかぶりを振った。ふ、と手が伸びたかと思うと、
「ここ。いたい?」
とん、とアラガキの胸に掌があてがわれた。どきりとしたのは、彼女が自分から触れてくるのが初めてだったからだ。春を売る仕事をさせられているせいか、人とは距離を置きたがるのに、珍しい。どぎまぎしながら、
「そこは……痛くはない。怪我はもう治ってる」
そう答えたが、彼女はじっとアラガキを見つめてきた。
青い、青い目だ。まるでビー玉か何かのようだな、と初めて気づき、これまでファルが自分と視線をほとんど合わせてこなかった事実にも思い至る。
ファルはいつも怯えていて、俯いて長い髪の間に顔を隠してしまうから、アラガキですら視線を合わせたのは数えるほどだった。
(綺麗な目だ)
これほど過酷な境遇にあり、いつも恐れて縮こまっていても、ファルの目は美しいと思えた。きらきらと輝くつぶらで、真っすぐで、ごまかしのない瞳。なかばそれに見入っていたら、
「アラガキ」
す、と瞳が近づき……気づいた時には、唇に柔らかいものが触れていた。
(――――)
それがファルの唇と気づくまでに、数秒間があいた。気づいた瞬間、
「!?」
ぎょっとしてアラガキは後ろにのけぞった。なっ、と口に拳を当てた時にはもう顔が熱を放っていて、みっともないほど赤面しているのが自覚できる。
「なっ、何をしてるんだ、ファル!!!!」
あまりにも突然の接触に頭が回らず、なかば叱責するようなきつい口調で問いを投げる。対してファルは少し肩をすくめたが、
「……いたいときは、ねるといいんだよ。ちょっとだけ、わすれられる」
腰が引けて逃げるアラガキの距離を埋めるように、ずいっと近づいてくる。ば、馬鹿をいうな、とアラガキは彼女の腕を掴んでその場にとどめた。
「そんな事で、自分の身を安売りするな。そもそもお前は身売りが嫌いだと言ってただろう」
「そうだけど。……でも、これは、おしごとじゃ、ないから」
ファルは、アラガキの手に自分のそれを重ねた。青い青い、海のような、空のような、深い青の目でじっとアラガキを見据え、
「アラガキ、つらそうだから。ちょっとでも、わすれると、楽だから。だから、いいの」
か細く頼りない声で、それでもゆるぎない決意を込めて、宣言する。
その儚い強さに、アラガキは言葉に詰まった。心中で、何を馬鹿な、と繰り返してしまう。
(俺はそんなつもりで、お前に親切にしたんじゃない。同じくらい傷ついた人間同士で、傷をなめ合いたかっただけだ)
暴力に屈した彼女に声をかけたのも、金を渡したのも、食事をさせるのも、アラガキの部屋に居場所を作ってやったのも――彼女の為ではない、自分の為だ。
哀れな娼婦を慰みの道具にして、自分はまだましだと再確認していたようなものだ。そんな己を心底軽蔑しているのに、どうしてこの上……本当に彼女を慰めに使えると言うのか。いやそもそも、
「む、無理だ、ファル。そんな事は出来ない」
視線に耐えかね、顔を背けて呻く。
「俺は……見ての通りの男だ。普通じゃない」
「どこが、ふつうじゃない?」
ファルが呟くのが聞こえて、カッと顔が更に熱くなる。それは羞恥の為ではない。どちらかといえば――屈辱だ。半ばやけっぱちな気分で、
「見れば分かるだろう、俺には足がない。障がい者だ。国から金をもらって何とかその日ぐらしが出来ているような、みっともない奴だ。いくら飯を食わせてるからといって、そんな奴に体を差し出す必要は無い。俺は本当に……ろくでもない、どうしようもない男なんだ」
むしろ、よりみじめな気持ちになるからやめてくれ、とは言えなかった。
こんなに痩せてか弱い女にまで、可哀そうにと同情されて慰められるなんて、ごめんだ。なけなしのプライドさえ傷ついて、出ていけ、もう二度と顔を見せるなという罵声まで飛び出しそうになって、必死に飲みこむ。
だが、葛藤するアラガキの耳に届いたのは、鈴を振るような笑い声だった。
(ファルが、笑った?)
その事に驚いてつい、顔を戻す。いつも怯え、暗い表情をしている彼女が、今は仄かに笑みを浮かべていた。普段笑わないせいでそれはぎこちない笑顔に見えたが、
「……わかってないんだね」
彼女は膝立ちになって腕を広げ、アラガキの首にぎゅっとしがみついてきた。硬直する彼の耳元で優しく囁く。
「アラガキは、いい人だよ。すごく、いい人。だから……すき」
「ファ……」
「だから、いいの。……いまだけ、わすれていいんだよ、アラガキ」
柔らかい声音は催眠術かあるいは、子守歌のようだ。久しぶりに触れる人肌の温もりと柔らかさに戸惑うアラガキを導くように、ファルはまた優しく口づけを落とし――
――そして、アラガキは久しぶりに、夢を見ないまま目を覚ました。
(…………夜……か?)
室内は真っ暗だ。カーテンの隙間から覗く窓の外も闇に沈んでいる。
眠りに落ちたのがいつかは判然としないが、だいぶ長い事寝ていたらしい。時計の短針は十を指している――ただし夜の、だ。食事もせず、部屋にこもったまま、何と不健全な事を。生来の生真面目さでそんな考えがよぎりはしたが、
(夢を、見なかった)
その事に驚き、横たわったまま、太く息を吐き出す。眠りに落ちるたびに訪れる悪夢は、欠片も見なかった。ただただ疲れに疲れて、意識を失うように寝てしまったから、悪夢が付け入る隙さえなかったのかもしれない。
(最初は冗談を言うなと思ったが)
ファルの言う通りの結果になって、情けないやら、充足感を覚えてしまうやら、気持ちの処理が出来ない。
(こんなつもりではなかったのに)
これでは彼女を買う男たちと同じ、いや彼女の好意に付け込んでいる分だけ、自分の方がたちが悪い。罪悪感に見舞われながらも、アラガキは腕で自身の隣を探り……はっとして、身を起こした。
二人が横になって寝乱れたシーツの上、アラガキの服が散乱するそこに、ファルの姿は無かった。
「ファル?」
声に出して呼んでも、彼女の気配は狭い部屋の中には全く感じられなかった。人の形に凹んだシーツの上に手を当てれば、ほんの少し温もりが残っていたから、出て行って間もないのかもしれない。
(……仕事に、行ったのか?)
そうかもしれない。ファルにしてみれば、一銭の価値もない男よりも、明日の食い扶持を差し出す男との共寝のほうが重要だろう。たとえそれを嫌っていたとしても、そうしなければ彼女は生きていけないのだから。
「……ファル」
彼女の形を残したベッドに手を当てたまま、アラガキは彼女の名を呟く。ほんの一瞬でもあの悪夢を蹴散らしてくれた感謝を、こんな自分を好きだと言ってくれた限りない優しさへの答えを、次会った時に必ず伝えようと心に決めて。
それから後、アラガキは彼女に再会していない。
出会った場所や、歓楽街に足を運んで探してみたが、ファルはどこにも見つからなかった。
霞か何かのように消えてしまったのは、自分に愛想をつかしたのだろうか。そうならまだいい。仕事で危険な目にあって、死んでしまっていたらと思うと、いてもたってもいられなくなる。
彼女の事は心配でならなかったが、一方でアラガキは悪夢を見る回数が格段に減り、少しずつ心が平衡を取り戻していった。
医師も仲間もそれを喜び、やがてミヤギが彼にメガロボクスを再開しないかと提案してきた時、アラガキは迷いながらも最終的にはカムバックを決断した。
義足をつけてのリハビリは過酷を極めた。血反吐を吐くような思いでトレーニングを積み、死ぬ気で鍛え上げて公式試合に臨んだ。
勝ちが欲しい。今の自分を肯定できるような、誰もが認めるような、そんな絶対的な勝ちが欲しい。
利己的な願いを抱え、相手を再起不能に追い詰めるような鬼気迫る試合をしながら、アラガキは心の奥底でこうも思う。
(南部さんが。ファルが。今の俺を見て、気づいてくれればいい)
一度は死んだと思われた愛弟子が。
己の不遇にかこつけて、うじうじと悩んでいた男が。
今は自分の足で立ち、リングの上で立派に闘っているのだと、気づいてくれればいい。
(俺はもう、悪夢に負けない)
夢は変わらず見る。だが、もう心はさほど擦り減らなくなってきたのは、きっとそれに勝る思いが胸に宿っているからだ。
(俺は、一人じゃない)
彼を励まし、支えてくれる退役軍人会の仲間がいる。
南部贋作と明日の為に積み重ねた日々がある。
何も言わずに彼に寄り添い、優しい眠りを与えてくれたファルとの思い出がある。
(だから俺は勝つ。勝って、メガロニアに出る。俺の力を証明してみせる)
故にアラガキは拳を振るい、闘い続ける――たとえ無い足が痛みを訴え、悪夢が心を苛み、失ったものを惜しみ泣き叫びたくなっても、闘う事だけはやめてはいけないと、己を叱咤し続けながら。