broken something
――体は、悲鳴を上げている。
ボディを容赦なく殴られ、強烈なパンチを喰らったこめかみはまだズキズキと痛み、時に眩暈すら引き起こす。
重苦しい悲鳴がそこかしこで鳴っているのを、歯噛みして無視し、階段を駆け上がってドアをけ破るように開けた。
いつもの定位置、ぱちぱちと点滅する街灯の下へ足早に向かい……気づく。普段停めている愛車は今、影も形もない。
それも当然だ。何しろあいつは今、ぼろぼろになって修理中なのだから。
「……ちっ」
忘れていた事にいらだって、舌打ちしながら体の向きを変える。
このところ棲みついているぼろ家への道のりは遠い。歩いて帰るのもやぶさかではないが、深夜に未認可地区の闇をほっつき歩くような無謀はしたくない。
(どこか適当に宿を見つけるか)
そう思いながら、たった今出てきたばかりの店の前を通りすがると、蝶番をきしませて扉が開き、
「……おっ、相棒! おめぇ勝手に飛び出すんじゃねぇよ、怪我の手当ても終わってねぇのによ」
彼を相棒と呼ぶ男――南部贋作がひょっこり顔を出した。控室に連れ戻して手当を続けるつもりなのか、近づいてきて捕まえようとするので、
「いらねぇよ。俺ぁもう帰る、放っておいてくれ」
乱暴に振り払う。おいおい、と南部がため息をついた。
「そう拗ねるなよ、相棒。そりゃあお前、今日はちーっとばかし運が無かったけどよ、そうそういつも上手くいくってもんじゃ……」
「ふざけんなよ、おっさん。あんたがあそこで変な指示出したりしなきゃ、俺は負けなかった」
カッとなって南部に詰め寄る。
今日の試合の相手も、自分より弱かった。
パワーに任せてぶん回してくるタイプで、フットワークなど微塵も考えないような相手と見て取ったから、絶対に勝てると確信していた。
それなのに、ここぞというシーンで、イヤホンから届いた南部の指示で咄嗟に動いたのがまずかった。
テンプルに良い一発を喰らったのを皮切りに、コーナーに追い詰められ、なすすべもなく殴られまくって、ダウンしてしまった。
そこから取り返そうと立ち上がったものの、視界がぶれてまともに立っていられなくなって――結果、敗北。
とても満足できる内容ではなかったのだから、荒れるのも当然だろう。
だが、こちらの怒りを正面から受けても、赤ら顔の南部はへらへらと笑うばかりだ。
「落ち着けよ、相棒。俺だってたまには勝負を見誤る時もあるさ。
なぁに、次の試合相手はもう見つけてある。お前の実力は本物なんだから、次で名誉挽回すればいいじゃねぇか、な?」
「……何が名誉挽回だ」
その場限りのでまかせに、怒りと諦めの気持ちが同時にこみ上げてくる。
元トレーナーという南部贋作は指導の腕こそ一流だが、金に汚く、はったりで世を渡り、終始酒瓶を手放さないろくでもない男だ。
今のこの男は、一分たりとも信用ならない。
どうせあの指示も、地下の賭けをうまく盛り上げるためにわざと負けを仕込んだに違いない。
「……くそっ!」
「おっと!! おいおい、乱暴はよせよ、なぁ相棒、どこ行くんだよ!」
南部を突き飛ばし、背を向ける。声はしつこく追いすがってきたが、それを振り払うようにして、行く当てもなく足早に歩を進める。
(何が、本物だ)
まだ声が聞こえるのが、苛立たしい。愛車に乗っていれば、あっという間に置き去りにするのに。
(あんたにとっちゃ俺はただの商売道具。あいつみたいに壊れかけたメガロボクサーじゃねぇか)
そう思いながら、ポケットに突っ込んだ拳をきつく握りしめ、犬のように低く唸る。
――自分の足だけでは、遠くへ行くことも出来ない。早く、早くどこかへ行きたい。
――自分の手足のような愛車に乗って、全身に風を浴びるほど感じて、地平の先、どこまでも遠くへ駆けて、この苛立ちを投げ捨ててやりたい……。
hemicorpus
暗闇に沈んだ川べりの夜道をひたすら走らせれば、やがて前方にぽつりと、ほのかな光が見えてくる。
バイクのクラッチを切って減速していくと、闇の海に沈みかけているようなボロ船の輪郭が見えてきて、ふとジョーの口許に笑みが浮かんだ。
(汚ねぇ船なのに、帰ってくると妙にほっとするな)
そんな感慨を抱くのは、首尾よくファイナルワン決定戦のチケットを受け取ったからだろうか。
(簡単に勝てるとは思わねぇが、首の皮は繋がった)
後はリングの上で力を尽くすだけだ。そう思うと、体の奥が疼いて堪らなくなる。
速く、速く。
急く心とは逆にバイクは減速し、やがて船の前、いつもの定位置にタイヤを鳴らして停まった。
ふっとため息をついてゴーグルを外しーー気づく。
会場にバイクごと飛び込んだとき、派手に転がしたせいか。スピードメーターにひびが入っているし、フレームが軽く歪んでいる。
(また修理に出すか……いや、このくらいなら自分で直せねぇか?)
そう思ったが、ジョーはバイクのメンテナンス方法など知らない。いつも修理屋に任せきりだ。
(今度、虻八のおっさんに聞いてみるか)
大事に乗ってやれよ、と言われたことを思い出し、ひびを指で撫で、ハンドルに手を預ける。
……今日は自分に付き合わせて、無理をさせた。少しは労ってやらねぇとな。
そんな事を考えながら船に足を向けると、
「ジョー兄ぃ、お帰り!」
「やったじゃんジョー、白都樹生とリベンジマッチだ!」
ばんと扉が開いて、興奮した子供たちが飛び出してくる。テレビで一部始終を見ていたのかもしれない、なら今すぐ喜びを分かち合える。それがなんだか妙に嬉しくて、
「……ああ。次は負けねえよ。リングの上ならな」
ジョーは拳を握りしめ、不敵に笑い返したのだった。
my pal
これが出来たら一人前、と言われて、ついその気になったのがまずかった。
「……っそ、これで、どうだっ!」
ぎ、と車軸を締めたところで手の力が完全に尽きて、ぶるぶる震えてしまう。
工具を放り出したジョーは尻餅をついて、はぁっと大きく息を吐き出した。脇に置いた時計を見やって、顔をしかめる。
(前輪だけで、二時間もかかってるのかよ……手間かかりすぎだろ)
手際の悪さにげんなりしながら、苦心惨憺の結果――タイヤを交換したばかりの愛車を見渡す。
ジャッキで地面から浮いたバイクは、ジョーの悪戦苦闘の証拠にべたべたとオイルまみれになっている。
それも後で綺麗に拭かなければとげっそりしたが、少なくとも、空気の抜けたタイヤで萎れていた時よりは、だいぶましな格好になったようだ。
(タイヤ交換なんて出来るのかっておっさんにからかわれたけど、やりゃぁできるじゃねぇか)
時間はかかったが、新品のタイヤを全部自分の手で入れ替える事が出来て、疲労と共に達成感を覚える。
まずは満足してタンクの腹に、掌はまだオイルで汚れているから、指先だけで触れた時、
「……つき合い長いのにな」
ふと感慨が湧き、一人ごちる。
このバイクに乗るようになってからずいぶん経っているが、これまでずっと整備は人任せにしてきた。
動かし方を知っていても、自分でメンテをするようになってからは初めて知ることばかりで、まるで最初に手に入れた時のような興奮が蘇ってくるのを感じる。
(大事に乗ってやらないと不憫、か。確かにな)
なかば手足のように感じていたけれど、こいつの事を何も分かっていなかったのだと今更実感し、苦笑する。
これだけ複雑な作りで、整備に手がかかるものを、あれほど乱暴に乗り回していたのか。
そう思う一方で、バイクを大事に出来ないほど、昔の自分は追い詰められていたのかと顧みる事にもなって、なおさら苦い笑いが漏れた。
(悪いことをした。……これから手をかけてやらないとな)
ぽんぽん、と労るように叩いた後、ジョーは気合いをいれて腰をあげる。
タイヤ交換作業は、まだ終わっていない。
何しろ自分で初めて一から十まで作業したのだから、これできちんと走れるのかは、テスト走行をしてみなければ分からない。
(早く走りてぇ。……新品でめかしこんでるんだ、お前もそうだよな)
そう思うと、まるで子どものように胸が弾んで、ジョーは思わずにやっとした。
ヘッドライトを交換した時ですら、わくわくしながらスイッチをいれて、何度も具合を確かめたものだ。
タイヤなんて大物を自分の手で交換できたのだから、興奮するのもやむなしだろう。
乗る前にまずオイル跡をきれいにしようと、布を手繰り寄せれば、口笛の一つも吹きたい気分になってくる。
早くこいつに乗って、全身に浴びるほど風を感じたい。
自らの手足となって走る相棒と地平の先まで駆けていけば、それはきっと何よりも快いドライブになるだろう。