かつてシルバーサンと呼ばれたその繁華街は、名前を変え、立ち並ぶ店も何もかも様変わりしながら、今もって享楽に浸る人々をひきつけてやまない。
カジノの上階に位置していたバーは見る影もなく崩壊したのが嘘のように、種族を問わず大勢の客で賑わっている。
(ああ、今日もいるわ)
その中に紛れ込みながら、ある種の期待を込めてカウンターへ視線を送った。
最近になって近所に引っ越してきた彼女は、何気なく足を運んだこのバーの雰囲気が気に入っている。
オメガのアフターサンほど騒がしすぎず、猥雑すぎず、ある程度安全に楽しめるのがいい――それに、気になる男性もいる。
彼女が顔を出すようになって一か月ほど、そのトゥーリアンは毎晩のようにそこにいた。
種族独特のすらりとしたプロポーションは、人間の自分にはうっとりするほど美しく映る。
そして軍隊の規律を旨とするトゥーリアンの特徴を裏付けるように、顔には激しい攻撃を受けたと思われる大きな傷跡。酔漢が乱暴に絡んだら、あっという間に叩きのめしてしまったのも目にした。
(人を寄せ付けない空気。……だけど素敵だわ)
あれは誰かと居合わせた人に聞いても、名前を知っている者はいなかった。
『奴はいつ来ても誰とも語らず、ただ飲んで帰るのさ。戦争帰りなんだろう。家で一人、孤独に過ごすのがつらいんじゃないか』
そんな当て推量でくすくす笑う連中に、話を合わせる気にはなれなかった。
自分は民間人で、軍隊に属したことも、軍人と付き合ったこともない。そんな自分とは正反対の世界に生きている男のように思えるから、かえってひかれるのかもしれない。
(話しかけてもいいかしら。どうせ適当にあしらわれてしまうだろうけど)
いつもはこっそり眺めているだけで満足していたが、今日はそれだけでは物足りない。
薄いとはいえリンコル割を口にしてしまったせいか、大胆な気分だ。軽く誘うくらいなら、酔っ払いのように殴られる事もないだろう。そんな楽観をもとに、意を決してカウンターへ足を向けた。
「……ねぇ、ここに座ってもいい?」
ドキドキしながら声をかけると、グラスを漫然と眺めていた彼は顔を上げた。肩越しにこちらへ視線を向け……一瞬、止まる。
「?」
一瞬、ではない。三呼吸ほど時が止まった。
なんだろう、変な事言ったかしら。それとも、そんなにおかしな恰好をしているだろうか。焦って自分の服を見返してみたが、その間に彼が動きを取り戻した。
「……好きにすればいい。私の店じゃない」
「あ、ありがとう」
そっけないが、許可はもらえた、よかった。ほっとしてスツールに腰を下ろし、バーテンへカクテルを頼む。
ちらりと横目に見ると、相手はこちらに興味を示す様子もなかった。正面を向いたまま、けだるげな雰囲気で酒を口に運んでいる。
(負けない。今日はこの人に話しかけるって決めたんだから)
一度挑んでしまったのだから逃げるわけにはいかない。腹にわだかまるリンコルの熱が無謀を掻き立てるのか、そんな思いで口を開く。
「私はつい最近引っ越してきたの。今まで片田舎の星にいたから、ここみたいなところがにぎやかで楽しいわ。あなたは長いの?」
「……。ああ」
「そう。…………」
「…………」
気まぐれに始まった会話は、気まぐれに終わってしまった。
自分を追い払う気配はないが、話を続けるでもなく彼は口を閉ざしてしまう。やはり誰とも交わる気はないのだろうか。
でも、そんなところも素敵だ。硬派で格好いい。
そう思いながら、酒の力を借りてさらに言い募った。
「ここにきて初めてトゥーリアンの友達ができたのよ。トゥーリアンって本当に、軍人さんみたいで皆きりっとしてるのね。あなたも軍隊の人?」
「……いいや」
「今は違う、ってことかしら。警察にしても、雰囲気がそれっぽくないというか……ワイルドよね。その顔の傷も」
「……昔、軍にいたことはある」
「やっぱり! そうじゃないかって噂聞いたわ。ここにいる人たち、あなたがどんな人なのか気にしてるのよ。私がここに来るようになってからも、毎日いるでしょう」
「………」
彼はすっと背筋を伸ばして、グラスを煽った。からん、と氷を鳴らし、溜息とともに言葉を吐き出す。
「人を待っている。悪いが、構わないでくれるか」
まぁ、見え見えで、ありきたりな断り文句だわ。
自分が知ってるだけでも、彼は一か月ずっとここにいるのに、知り合いと話しているところなんて見たことない。
むっとして、
「そんなに待ってるのに? 誰か知らないけど、来る気がないんじゃない? 待つ必要なんて」
ないでしょう。そう言い切ろうとした瞬間、
ガンッ!
突然、トゥーリアンがグラスをカウンターにたたきつけた。その音にびくっとして、
「――――」
さらに突き刺すような鋭いまなざしで睨みつけられて、のどが干上がった。
蛇に睨まれたカエルとはこのことか。怒りに満ちたトゥーリアンの目は、その体から立ち上る明確な敵意は、標本を壁に突き刺すピンのように彼女の動きを封じる。
「ぁ……」
辛うじて絞り出た声はかすれて自分にも聞き取れない。どうしよう、このまま殴られでもしたら、きっと私死んでしまう。そんなことまで考えたが、
「…………一人にしてくれ」
ふ、と視線を前方に戻した相手のそっけない言葉で、呪縛はとけた。
心臓がでたらめに飛び跳ね、さっきまで酒で火照っていた体が指先まで冷えているのを感じながら、
「ご、ごめんなさい、失礼するわ」
しどろもどろに謝罪して退散する。
ああ、なんだか知らないけど彼の地雷を踏んでしまったみたい。もう明日からここには来れない、恥ずかしいことしちゃった……。
『あーあ、可哀そうな事するなぁ。勇気を出して不愛想なトゥーリアンに話しかけた、健気なかわいこちゃんだったのに』
不意に飛び込んできた声は、昔と変わらぬ陽気さを帯びている。聞きなれたそれにわずかな安堵と煩わしさを感じながら、彼はバイザーに手を当てた。
「私は静かに飲みたいだけだ」
『それだけ飲めば、トゥーリアンも肝臓悪くしたりするのか? いやそもそも、肝臓あるのか?
なんにしても、毎晩酒浸りの自堕落を囲ってる旧友を放置するのは、俺の友情に反するね』
「面白がっているだけだろう……いいから、自分の仕事に専念してろ」
会話の合間に視線を巡らせれば、店の外に立つ猫背の男と視線が合い、手を振られる。
ああ、とため息を漏らした。本当に、誰も自分を見ないでほしいのに。
「私にかまわないでくれ。一人にしてくれ」
『じゃあ、いつまでもそうやって、帰ってこない人を待つのか? ずっと?
時には諦めて前を向くことだって必要だろう。最初のノルマンディーを失った時、俺はそうした。
そしてそれは――少佐に諦めろって言われたからだぞ』
「……」
『さっき相手したのも、人間の女だったからだろ。少佐に似てたからなんていうなよ、ギャレス。あの人はそんな風に腐ってるお前を見たくないだろうよ』
「……勝手にシェパードを語るのは、やめろ」
ジョーカーの言わんとすることを理解しながら、ギャレスは小さくうめいてバイザーを外した。
もうこれ以上、話をしたくない。誰とも。あの人以外とは。
『バーで待っています。一杯おごりますよ』
空のグラスをバーテンに押し出しながら思い起こすのはあの時、彼女と交わした会話。
優しく口づけながら、自分にだけは、戻らない時のことを語った愛しい人の笑顔。
「……約束は、約束だ」
この時間がどれだけ無為なのか心のどこかで理解しながら、それでも待たずにいられない。
タンゴを踊ったあの夜のように、このバーでまた彼女に会えたら――
そんなことを思いながら、彼は今夜もまた、帰らぬ誰かを待っている。