教会の打ち合わせや諸々の手続きを終え、家に帰る前にと街中を散策していると、時折後ろからカツ、カツ、と硬質で忙しない音が聞こえてくる。何度となく響くそれに、とうとう勇利は背後を振り返って、
「……爪がそんなに気になるのか? シャル」
問いかけてしまった。車椅子を押していたシャルは、うっ、という顔をした後、
「だって……仕方ないじゃないか。こんなの今までした事ないんだから」
自分の手を見て、眉間に皺を刻んだ。
その小さな指先は今、色とりどりの装飾を施された上、自前よりも細く長くのばされていて、ことあるごとに何かにぶつかって音を立てる。
本人はそれが気になって仕方ないらしい。
「これにも少しは慣れた方がいいって押し切られたけど、式当日だけでいいのに」
ぶつぶつ言うのは、花嫁のコーディネイトを全て任せているコンシェルジュが、是非やって下さいと強く勧めて、シャルをネイルサロンに放り込んだからだ。
普段からアクセサリーひとつ付けない彼女にしてみれば、しっくりこないのも無理はないし、勇利にもその良さはいまいち実感できない。
だが、プロが勧めるのなら、やっておいて損はないのだろうと思う。
ふ、と笑った勇利は、前方へ顔を戻した。
「一生に一度くらい、経験してみるのもいいだろう。
こんな機会でもなければ、お前はやらないだろうしな」
「そうだけど……落ち着かないなぁ。
何かの拍子に、剥がれたりしないのかな……」
彼女の不満げな物言いに、先に慣れておいた方がいいという助言は的確だったな、と勇利が口にしかけた時、
「……キャーーーーっ!!」
穏やかな雑踏の中、不意に絹を裂くような女の悲鳴が響き渡った。反射的に声のかたへ振り返ると、
「誰か、どろぼうよ! 捕まえて!!」
ガードレールの向こう側、歩行者天国になっている道の真ん中で叫ぶ女と、バッグを抱えて必死の形相で駆けていく男の姿が目に入った。
ひったくりらしい、と認識した瞬間、
「勇利、ちょっと待ってて」
その言葉をこちらに投げ渡して、シャルが飛び出した。
ぎょっとする間こそあれ、彼女はワンピースの裾がめくれるのも構わずガードレールを飛び越え、
「シャル!」
こちらの呼びかけに立ち止まることなく、真っすぐに男を追いかけていく。咄嗟に止めようとした勇利だが、
「!」
だが、体が思うように動かない。彼女のように走っていきたいのに、上体は前に出るのに足がびくともしない。
(くそっ!)
身動きできない事実に歯軋りして、勇利はシャルの姿を視線で追う。
今もってトレーニングを欠かさない彼女なので、ひったくりに追いつくのは造作もない。
手を伸ばして男の腕をつかみ、しかしすぐさま振り払われる。
自分ほどではないにしろ、相手は大柄な男だ。
力で敵うはずもなく、突き飛ばされて終わり――ではない。
払われた勢いに逆らわず、いったん後ろへ跳び、シャルはすぐさま男の懐に踏み込んだ。
握った拳がドッと相手の腹に命中し、不意を突かれた男が体を二つ折りにしたところへ、吸い込まれるような一撃が鼻にめり込む。
(――シャル)
ガードレールを迂回しながら、勇利はつい見とれそうになった。
彼女のファイトを目にするのは、本当に久しぶりだ。
離れているのに男のうめき声が聞こえてくるようなボディへの攻撃も見事だし、シャルは現役時代さながらのヒットアンドアウェイの動きを見せている。
元メガロボクサーらしく、機敏にジャブを繰り出しながら、肩まで伸ばした髪をなびかせ、スカートの裾をふわりと翻す。
その姿が、はっと息を飲むほど印象的で、胸を突くほど鮮やかに映り――スローモーションで映像が再現されるように、勇利の瞳に焼き付いた。
……だがそんな感慨も、鼻血を流してよろめく男が、ナイフを取り出したのを見て彼方に吹っ飛ぶ。
「シャル!!」
周囲に集まりだした野次馬が悲鳴をあげる中、もう一度、今度は逃げてくれと言外に叫ぶ。
その声が届かなかったはずもないのに、彼女は男と対峙して怯むそぶりさえ見せない。ガードを固め、冷静に相手の動きを見据えている。
「この、くそアマァッ!!」
男が罵声を上げてかかってくる。
その切っ先を軽やかなウェービングでかわし、突き出された腕の下をかいくぐって、小柄な体が一瞬沈む。相手を見失って硬直した男の顎に、
「……ふっ!」
ゴッ! と重たい音を立てて、全身のばねを使ったアッパーが突き刺さった。
「ぐ……っ」
空中に血が飛び散る。くぐもった呻きを漏らしてのけぞった男は――そのまま、どさりと重たい音を立てて、地面に崩れ落ちた。
「…………はっ……は、ったくこの野郎、人騒がせな」
男が起き上がるか、しばらく見守っていたシャルは、毒づいて構えを解いた。
ぷらぷらと手を振りながら、地面に落ちた鞄を拾い、男の襟をつかむ。
気絶した犯人をずるずる引きずって歩きつつ、
「えーと……ああ、お姉さん。このバッグ、あんたのだよね?」
ひったくりに遭った女に声をかけて、鞄を差し出す。途中まで追いかけてきていたらしい彼女は、目を丸くして立ち尽くしていたが、
「……あ……は、は、はいっ! あの、あ、ありがとうございます……!!」
声をかけられて我に返った。
受け取ってぺこぺこと頭を下げるのを、シャルは少し困ったような顔で、
「あー、悪いけど警察呼んでくれないかな。こいつ引き渡さないと。ちょっと今、手がバカになってて、電話できそうにない」
あくまで事務的に対応しようとする。だが、
「……すげぇなおい、姉ちゃん、やるなぁ!」
「かっこいいじゃーん、ヒーローみたい!」
「ちっちゃいのにおねえちゃん、すっごいつよいー!」
周囲で見ていた野次馬達が、口笛交じりの歓声をあげ始めたので、より一層困惑の表情になった。
「え、あ、あー……はぁ、どうも……」
英雄的な行動をしようと意識したわけではないからか。
賞賛の声にシャルは首をかしげていたのだが、その視線がふっとこちらに向けられた時、
「! 勇利、どうした!?」
観衆も男を放り出し、彼女が脱兎のごとく駆け寄ってきた。血相を変えて覗き込んできたので、
「……何がだ」
止めていた息を吐き出しながら呟く。彼女はこちらの顔を両手で包んで、
「何がじゃない、真っ青になってるじゃないか。気分悪いのか? どこかで休む?」
心底、心配している様子で問いかけてくるが――俺の事は、どうでもいい。
勇利は細い手を握った。
彼女を見ていたら何かがこみ上げてきそうで、目を伏せて、小さく囁く。
「……シャル。俺よりも、お前は、怪我をしていないか」
「え? ……あ、うん。何ともないよ」
シャルは意表を突かれたような声で応える。
その調子からして彼女はまた、身を投げ出す事に何の躊躇いもなかったと察せられて、胸が痛いほど苦しくなった。
シャル、と名を呼んで、勇利は手に力を込めた。
「頼むから、後さき考えずに危険の中へ首を突っ込むのは、やめてくれ」
「勇利?」
「…………今の俺には、お前を守れない。
お前が危ない目に遭っても、何も出来ない。
……出来ないんだ」
自分の言葉がナイフのように胸を切り刻んでいく。
心臓が不規則に脈打ち、息が苦しくなって、体が勝手に震え始めてしまう。
――半身不随になった事を、悔いてはいない。
約一年前、もはや体の一部となっていたギアを外して、十三ラウンドにも及ぶ試合に臨み、その結果、生死の境をさまよった。
人によっては、自分の下した決断が、愚かに過ぎると批判するだろう。
実際、メガロニア終了後にはメディアやインターネットのファンサイトで相当議論を呼んだらしい、というのは看護師たちの噂話で聞き知っていた。
だが、あの時の自分には、他に選択肢がなかった。
チーム白都のキング・オブ・キングスではなく、ただ一人の
ゆき子に非難されようと、樹生に忠告されようと、身を
地下で初めてジャンクドッグとやり合った時、彼は「死んでも構わない。こんな面白い事、途中でやめられるか」と嘯いていた。
決勝時の勇利は、まさにその心境だった。
メガロボクスに打ち込んできて、頂点まで上り詰めた自分がそんな風に感じたのは、もう思い出せないくらい昔の事だ。
リングの上でジョーと向き合い、お互い限界ぎりぎりまで命を削って、魂の奥底を分かり合えたあの一瞬。
あの時こそ、勇利は今まで生きてきた中で、最高の瞬間を生きていると実感したのだ。
その充足感は、リングに膝をついて敗北を知ったあの時も、朦朧としながら搬送された時も、長い手術の後、ようやく意識を取り戻した時も……今もなお、ずっと続いている。
入院生活もリハビリも相当に過酷ではあったが、自分自身が選んだ結末を悔やんだ事は、これまで一度として無かった。
だが、今日――暴漢に一人で立ち向かうシャルを目の前にして、駆け寄れもしない自分の体を、初めて情けなく思った。
以前彼女が襲われた時は、何の苦も無く悪漢たちを退けたというのに。
今の自分には、なすすべもなく見ている事しか出来ないのだ。
『俺は今、お前を失う事が、一番怖い』
急な別れの理由を問い質した時に吐露した思いを、さらに強く実感する。
(何も出来ないまま、失うのが怖い。
……怖いんだ、シャル)
それを口にしてしまえば、声さえ震えてしまいそうで、きつく目を閉じる。と、
「……ごめん、勇利」
ふっと動く気配がして、沈んだ声が響く。
恐れるようにそっと瞼を上げれば、自分の前にしゃがみこんだシャルが、申し訳なさそうに眉を八の字にして、じっとこちらを見つめている。
「無茶しないって約束したのに、破ってごめん。
……本当にもう二度としない。しないから……ごめん」
彼女もまた、以前の会話を思い出したのだろう。
自分を映し出す目は、後悔と罪悪感の色を浮かべて、揺れている。
吸い込まれるようにつぶらな瞳を見つめて、勇利が口を開きかけた時、
「……えーっと、お取込み中すみません」
不意に脇から声がかかった。
振り返ると、いつの間にやってきたのか。
制服姿の警官がどうしたものか、と半端な笑いを浮かべてこちらを窺っている。目が合うと頬をかいて、
「あの、このひったくりを捕まえたの、あなただと聞いたんですが。状況を確認したいので、少しお話いいですか」
もう一人の警官に、手錠をかけられている男を指し示す。シャルに言われた通り、女が通報したのだろう。
どうやらこちらの事情聴取を行うため、様子を見ていたらしい。
「それは……そんなのは、後で」
シャルが眉根を寄せて断ろうとする。今は自分との話し合いが重要だと考えたのだろうが、
「……いや、シャル。行ってこい」
勇利は彼女の肘へ持って立ち上がらせ、軽く押し出す。
一歩踏み出したシャルが「でも、勇利」物問いたげに、迷いを帯びた視線を向けてきたが、強いて微笑んだ。
「犯人逮捕に協力したんだ、ちゃんと話をしてこい。
俺は、ここで待っているから」
「……分かった。すぐ終わらせる」
不承不承という様子で、シャルは警官と共に男のもとへ向かう。
今なお周囲を囲む野次馬の、好奇心に満ちた視線を感じながら、
(……俺は、何も出来ないんだな)
勇利は空虚な思いを抱いて、手をきつく握りしめた。
かつては最強の男と謳われながら、今は何よりも愛しい存在さえ守れないこの身の無力さが――耐えがたいほどに辛く、空しく、ただただ、息苦しかった。