始まらなかった恋

「イヅル。私ね、今度、結婚することになったの」
 久しぶりに会った彼女は、まるで世間話の延長のようにさらっとそんな事を言ったので驚いた。
「結婚? 君が?」
「そう。結婚。相手はね、うちの隊の五席。知ってるわよね」
「あぁ……知ってるけど」
 言われて思い出したのは、穏やかで女性隊員に人気のある男だった。彼女は彼女で、しとやかだが芯が強くて、誰からも好かれる人だから、並べて見れば似合いの二人だ。
「そうか……」
 止まっていた手を動かして、魚の切り身を口に運ぶ。
「驚いたな、君にそんな相手がいるなんて、聞いた事無かったから。おめでとう」
「ありがとう」
 そう言って彼女はにっこり、微笑む。相変わらず綺麗だ。
「イヅルはどうなの? 雛森さんとのこと」
「え」
「告白しないの? いつまでグズグズしてるのかしら」
「……う」
 そして相変わらず、ツッコミが厳しい。言葉に詰まるぼくに、彼女は少し困ったような顔で首を傾げる。
「黙って見ているだけでは、気持ちなんて伝わらないのよ」
 言い返せなくて、つい俯く。彼女は箸をはし置きに戻し、
「イヅル、それとね」
「うん?」
 卓越しにす、と白い手が伸ばされた。身を乗り出した彼女の顔が近づいた、と思った次の瞬間、頬に柔らかい感触が触れる。ふわりと甘い匂いが髪から漂い、離れ、彼女は席に腰を下ろす。
 ……え? 今、何が起きた?
 ぽかんとするぼくに、彼女はもう一度、穏やかに優しく微笑んだ。
「私は、ずっと、あなたが好きでした」
 イヅル、とぼくの名を呼んで、彼女は席を立つ。
「……え、な、何を言って」
 言葉が理解できず、椅子を蹴倒して立ち上がったぼくを真っ直ぐ見つめた後、長いまつげを伏せて目をそらした。

 さようなら。元気でね。

 桜色の唇に笑みをたたえたまま、その言葉だけ残して。  いつにもまして暗い顔の吉良に呼び出された酒席で、俺は一杯目を盛大に吹き出した。
「あっ、あいつに告白されただぁ!?」
「阿散井君、声が大きいよ」
 濡れた机の上をふきながら言う吉良は落ち着いて見える。だが、これが落ち着いていられる話か。俺は杯を置いて、お前冗談抜かせ、と言葉を継ぐ。
「あいつがお前に惚れてるなんて話、聞いた事ねぇぞ」
「……そうか。阿散井君も、そう思うか。そうだよな……」
 吉良は陰気にため息をもらし、酒に口をつける。周りは仕事上がりで楽しく盛り上がってる奴らばかりだというのに、吉良だけまるで通夜みてぇな暗さだ。元々明るい性格と言えない奴だが、それにしたって今日は度が過ぎてる。
「そう深く考えんなよ。あいつにからかわれただけだろ?」
 重苦しい空気を押しのけるように、俺は明るく言い放つ。だが吉良は、そうじゃないんだ、と更に声を沈めた。
「ただの冗談なら、こんなに落ち込まないさ」
「なんだそりゃ」
「彼女は、」
 そこでぶつん、と言葉が切れ、吉良は迷うように目を動かした。青白い顔に珍しく、すうっと血の気がのぼる。何だ、照れてるみてぇな顔しやがって。からかってやろうとしたら、
「……んだ」
「あん?」
「だから、その、彼女に、……されたんだ」
「何だよ、聞こえねぇよ」
 もごもご口の中で言ってるので、肝心なところが聞こえない。身を乗り出して耳を傾けようとしたら、だから、と吉良が苛立って声を荒げた。
「彼女にキスされたんだ!」
「うおっ!?」

 耳を大声に貫かれ、思わずのけぞった。そのまま椅子ごとこけそうになって、慌てて体勢を立て直す。そうして改めて言葉を反芻して、俺は間の抜けた声を上げてしまった。
「き、キスだぁ?」
「だから君は声が大きいよ!」
 今や耳まで真っ赤になって吉良が注意してくるが、周りの客がこっちに注目してんのは、お前がデケェ声出したせいだと思うぞ。俺はぼりぼりと頭をかいた。
「まぁ……そういう事なら、確かにマジっぽいな」
 相手が乱菊さんとかならまだしも、あいつはそういう冗談はしねぇ奴だ。しかし、あいつが吉良に惚れてるなんて、素振りも見たことねぇ。
「僕には分からないんだ、阿散井君」
 顔色が元に戻った吉良は、猪口を両手で包み込んで呟く。
「彼女は、結婚すると言っていた。それなのにどうしてあんな事をしたのか、全く分からないんだよ」
「ンな事言ったって、話しているうちにそういう流れになったんだろ?」
「いや……雛森君の事を少し話しただけだよ」
 ……雛森か、なるほど。その名前が出てきて、俺は合点がいった。
 真央霊術院にいた頃からずっと、こいつは雛森に惚れてる。端から見りゃバレバレなんだが、何故か雛森だけはそれに気づかず、吉良も自分から告白するような真似をしないので、随分長い事、片思いをしてるわけだ。
 それがじれってぇ、と俺やあいつが時々ハッパをかけてやってたんだが、もしあいつが吉良を好きになったとしても、それじゃあ告白なんて出来なかったのかもしれねぇ。
「阿散井君、君はどう思う?」
 心底困った顔で尋ねてくる吉良の鈍感さに、俺は思わずため息をつきそうになった。が、これまで気づかなかったのは俺も同じだ。吉良が鈍いというより、あいつの嘘が上手かったって事なんだろう。
 俺は飲み損ねた酒をくいっと煽った。
「あいつが何考えてんのかなんて、俺に分かるかよ」
「それはそうだけど」
「知りたけりゃ、直接聞きゃいい」
「でっ、出来るわけないだろう、そんな事!」
「何でだ?」
「何でって、彼女はこれから結婚するんだ。邪魔になる事はしたくない」
「だが、あいつはお前に告白したんだろ?」
 切り返すと、吉良はぐっと唇を噛んで黙り込んだ。困惑の表情で俯く吉良に、俺は苦笑する。
「あいつの気持ちをどう受け止めるかは、てめぇ次第だ。じっくり考えな」
 こいつに惚れて、あいつもさぞ気苦労しただろうな、と思いながら。  私は見ていた。
 あなたを見ていた。
 ずっと見ていた。
 ……ただ、それだけだった。

「おめでとう」
「結婚おめでとう」
「すごくきれいだったわよ、おめでとう」
 祝いの言葉が次々、雨となって降ってくる。声をかけられる度に私と彼は、にこやかにお礼の言葉を返して回っていた。
 座敷を借り切っての宴は、いつ果てることなく続いている。皆の酒杯が進んで好きに盛り上がりはじめたので、私たち主賓の役目もそろそろ終わりにさしかかっていた。
「疲れてないか? 何か飲み物、持ってこようか」
 ひそかについたはずのため息に気づいて、彼がそっと尋ねてきた。本当に良く気のつく人。その優しさが嬉しくて、私はありがとう、と微笑んだ。
「じゃあ、お願いしてもいいかしら」
「分かった。そこに座って待っててくれ」
 そういって彼はすぐ卓に向かったけれど、浮かれ騒ぐ同僚たちにたちまち捕まって、立ち往生してしまった。困惑しつつ、喜びつつと複雑な顔をする彼にくすりと笑いながら、私は畳の上に腰を下ろした。と、不意に陰のような気配を感じる。
「……今、いいかな」
「イヅル」
 後ろから音もなく現れたのはイヅルだった。体中を緊張させ、意を決して声をかけた、という雰囲気の彼を見て、私はどきりとした。
 あれ以来、イヅルと話をしていない。
 今日、何度となく目が合って、そのたびにイヅルは物問いたげな表情を見せていたから、いずれこの時が来ると思ってはいたけれど。
「えぇ、どうぞ」
 動揺を押し隠して隣を指し示すと、イヅルはためらいがちに座った。
 笑い声や怒声が飛び交う宴席を、私たちはしばらく黙って見つめる。
 私はかける言葉を持っていなかったし、イヅルは何から問えば良いのか迷っていたから、かもしれない。落ちつきなく手中の杯を回していたイヅルは、やがて思い切ったように口火を切った。
「君に、聞きたい事があるんだ」
 来た。心臓の跳ねる思いをしつつ、私は応える。
「えぇ」
「この間の事、なんだが」
「えぇ」
「その、どういったら良いか」
 そこで口ごもるイヅル。青白い顔に赤みが差して、目が泳ぐ。
「……どうして、あんな事を?」
 ぼそぼそ、口の中で、小さな声でイヅルは問いかけてくる。
 そうね。どう考えればいいか、なんて分からないわね。友達と思っていた相手に、あんな事をされては、戸惑うわよね。
 私は、少し笑った。膝の上で手を組み、目を伏せ、ゆるゆる、囁く。
「あなたが、好きだったのよ」
「!」
「ずっと、あなたが好きだった」
 そう、私はあなたが好きだった。何時の頃からか、覚えてもいないほど、ずうっと前から。
 もしかしたら、初めて出会ったあの時。あなたが既に雛森さんを想っていた、あの時から、ずっと。
「でもそれを言ってしまったら、きっと私たち、友達でいられなくなる」
 だから言えなかったの、と呟いたのは、半分本当で、半分嘘だった。
 イヅルは雛森さんが好き。だから私がもし告白なんてしたら、イヅルはきっと、とても困るだろう。それからも友達づきあいなんて、出来ないだろう。そう考えていたのは本当。
 だけど、もう半分の本当は、私がただ臆病者だった、というだけだ。
 私の想いを拒まれる。
 イヅルを想い続けられなくなる。
 イヅルとの繋がりを断たれてしまう。それが、
「怖かったの。……ただ、怖かった」
 周りの騒ぎが遠くなり、イヅルが小さく息を飲む音だけ、妙に大きく聞こえる。組んだ手に力を込めて、私は顔を上げた。す、と顔をイヅルに向けると、イヅルは途方に暮れた表情で私を見ている。
「……僕は」
 唇を開いて、それでも何を言うべきか分からず、目線が泳ぐ。私の前で良く見せた、困った顔。イヅルのそんな表情も、大好きだった。
 私は微笑み、視線を前方へ戻した。浮かれ騒ぐ酒席の中、あの人が皆に囲まれて嬉しそうに笑っている。
「これが最後、と思ったの」
「え?」
 あの人に結婚を申し込まれて、それを承諾したあの日。
 久しぶりにイヅルを飲みに誘ったあの日。
「最後。だから、一度だけ」
 何時までも口に出せない想いを抱えるのは、これで最後にしようと。
「一度だけでいいから、あなたに私を想ってもらいたかったの」

 私の想いを、ただ一度だけ、あなたに知っていてもらいたかったの。

 ざわめきが不意に蘇り、私はイヅルと二人だけの世界から戻ってきた。歌い踊る死神達の宴を共に見つめ、お互いは沈黙の中に沈む。
 イヅルは落ち着かない様子で身じろぎし、息を漏らし、頭をかき、やがて小さく呟いた。
「ごめん」
「……あなたが謝る事なんて、」
「ありがとう」
 私の声を遮る、強い言葉。
 どきりとして振り返ると、イヅルは私をじっと見つめていた。頬を赤く染め、まだ困惑の色を残しながら、それでも緩やかに微笑みを浮かべて、
「……結婚、おめでとう」
 静かに、そして優しく囁いた。

* * *

 それからの私の日常は変わりない。結婚してあの人と共に暮らすようになったから、勿論環境の変化はあったけれど、死神として仕事をする日々に変わりはない。朝起きて、隊舎に向かい、書類仕事をこなし、見回りに出、時に刀を振るって虚と戦う日々。
 ただ一つ、変わった事といえば、不思議なほど心が落ち着いている事だ。

 私は見ていた。
 あなたを見ていた。
 ずっと見ていた。
 ただ、それだけだった。
 決して口に出来ないその想いが重くて辛くて、泣き出してしまいそうだったのに。

 早番に出るため、朝焼けに染まる廊下を歩いていたら、前からイヅルがやってくるのが見えた。白く輝く髪に目を細め、私は微笑む。
「おはよう、イヅル」
 こんな風にまた、あなたと言葉を交わせる事に、喜びを感じる。
「……あぁ、おはよう」
 私を見て笑いかけてくれるあなたの優しさを、感じる。

 私とあなたの恋は、始まらなかった。
 だけど今、あなたの友でいられる事を、何よりも嬉しく、幸せに思う。
 イヅル。
 あなたは私の、大切な人。