peace, temporary

 濃い血の匂いは薄れ、途切れかけた呼吸も安定した。もういいだろう、自分を気に掛ける時間を作っても。
 時間も忘れて手当てに勤しんだ後、キムはようやく休息を得るために、手近の椅子を引き寄せた。どさり、と投げだすように座り込み、天井を仰ぐ――いや、仰ごうとしたが、視界がぐるりと回りかけたので、すぐに頭を下げた。Shitと悪態が漏れる。
(命を拾ったにしても、これはいただけないな……よくやり遂げられたものだ)
 めまいから気をそらしたくて、懐から煙草を取り出した。
 疲れ切った重たい手で火をつける。吸い込むと、有害な煙は深々と肺に吸い込まれ、血管を通って体中をめぐり始め……ふいに頭痛が増したように思えたが、あえて無視した。時には痛みのほうがましなこともある。
 こめかみをもみつつ、背もたれによりかかって、この数時間の成果を眺めることにする。
 初めて足を踏み入れた時は見る影もなく破壊されていた部屋は、彼が懸命の救命措置を行っている間に綺麗に片付けられていた。
 汚れとしわでめちゃくちゃになっていたリネンは真っ新なものに敷きなおされたものの、また汚れにまみれている……血によって。
 その上に横たわる男ときたら、まるでずた袋の様相だ。かすかに上下する腹はいやおうなく存在を主張して揺れ動き、まとわりつく服もしわくちゃで泥とも吐しゃ物とも判別つかないまでに汚れている。そしてそれらはいま、真っ赤なペイントで上書きされている……血によって。
(まったく、なんて事件だ。マルティネーズにきてまだ数日だぞ)
 眉間がきゅうっと圧迫されるような違和感を覚えて、こめかみから指を移動した。外した眼鏡を煙草と一緒に持ち直し、眉間を揉むと、頭痛もめまいも少しだけ退いたように思う。
 体調不良は、銃把で頭を殴られて脳震盪になった為だけではない。睡眠不足もおおいに影響している。
 いや、不眠不休の事件にあたったことは何度もあるが、今回は並外れてストレスが高い。
 何しろリンチで殺された男は一週間も裏庭につるされて悪童の石の的にされているし、その死を引き起こすにいたった組合とワイルド・パインズの対立は彼が現着した時点ですでに緊迫がピークへ上り調子。
 おまけに相棒となるRCM四十一分署の担当者ときたら……彼自身が台風か嵐のように暴れまわった痕跡を一緒にたどるだけで、何度驚きに出くわしたことか。
 そのうえここ、今。支離滅裂に脱線を繰り返しながら、猛烈な勢いで事件解決に走り回っていた男は、苛烈な銃撃戦で二発撃たれ、ベッドの上で虫の息だ。
(命を取り留めた。何とか動けるだろう。だが、捜査は続けられるだろうか)
 頭痛に顔をしかめつつ、白煙越しに彼を見やる。
 血を流して倒れていたあの時と違い、彼の呼吸は安定している。消え入りそうでいて、リズムが荒いのはもとから。彼は初めて出会った時から死にそうな呼吸をしていた。ハーブとアルコールとたばこを過剰摂取したおかげで顔は青ざめ、赤らみ、むくんでひどいありさまだ。
(それでも、生きている)
 そのことに、自分でも戸惑うほど安堵を覚えた。脳震盪をこらえながら手当をした甲斐あって、どうにか命をつなぎとめられたことを、心底安堵している。
 ひとつに、もう相棒が死ぬのはごめんだから。
 ひとつに、彼があれほど執着していた事件はいまだ解決に至っていないから。
 ひとつに――この奇妙に破滅的で、もろくて、子どものような面を見せながら、あらゆる人々に正面からぶつかっていく“人間缶切り”に、自分はまごうかたなき好意と敬意を抱いているから。
(あの分署からどんな人間が来るのかと思っていたが……こんなとは思わなかったな)
 肺を毒で満たして少し笑った時、彼が身じろぎした。もつれた髭の奥で、唇が動いて何事かを呻く。痛みに対する呪詛、Shit、わけのわからない言葉の羅列……そして最後には哀願。
「ぃ……ないで、くれ……、ドロレス……」
 眉をあげるが、息はひそめた。
 彼はきっと悪夢を見ているのだろう。
 ワーリング・イン・ラグズの隣室に腰を落ち着けた数日、彼が夢にうなされて叫び、暴れる物音を耳にしている。それがどんな内容か聞く野暮はしないが、あれだけ泣きわめく夢に出てくるイノセンスが良いものであるはずはない。彼のドロレスは、きっともう戻ってこない。
「…………」
 黙って煙草をみ続けていると、彼はまた昏々と眠りに落ちていく。
 その疲れ切った表情をまじまじと見ていたら、ふいに体が重くなった気がして、ため息を漏らした。
(二百を超える事件を解決してきた男が何を見てきたかなんて、想像もつかない。敏腕刑事の末路はこれか? 名誉や褒美はどこにある? そんなものはない……RCMの捜査に意味を求めること自体、きっと間違っている)
 仕事が生きがい、仕事だけが生きるよすがになってしまえば、ハーブフリークスとそう変わりないように思う。もしかしたら自分の未来の姿はこうなのかもしれない、という考えがよぎったが、そんな思索は捨ててしまえとばかりに、煙とともに吐き出す。
(ああ、僕も疲れているんだ。ひと眠りしよう。彼は、もう大丈夫)
 眠りから覚めれば、痛みと呻きとぼやきを大量にまき散らしながら、彼はベッドから立ち上がり、そこの扉を出て、階段を降り、カラオケのマイクをしり目に、街へと繰り出すだろう。
 どんな目にあっても決してあきらめることなく、彼の事件を最後まで見届けるために。
 そう結論付けて立ち上がり、煙をたなびかせて踵を返した。音を立てないようにそっとバスルームへ入り、隣室への扉を開ける。そして最後に半身だけ残して、もう一度振り返った。
 激しい銃撃戦があったとは思えないほど街は静まり返って何の音もせず、ファンが回らないためにまだ血の匂いがたゆたう室内は、一時の平穏に満たされている。
 目覚めればまたひどい苦痛に見舞われることだろう、せめて今しばらくは彼に安らかな眠りを。
 そう願いながら、キムはゆっくりと扉を閉め、自分にも休息の時間を許したのだった。