メガロニアドームに響き渡る歓声が耳に刺さって、わんわんと頭に響く。
昨日は飲んでいないから、酒は抜けたはずだ。この頭痛は、一睡も出来なかったせいか。
(頭いてぇ……)
そう思いながら階段を下りていき、自分の席に座る。
周りの客は試合が始まる前から、昨日の居酒屋と同じように興奮しており、すでに声を枯らしているほどだ。
飛び交うのはグレン・バロウズとギアレス・ジョーの名前。しかもジョーの方がより注目されているようで、キャットは改めて舌を巻いてしまう。
(ちょっと見ない間にあいつ、めちゃくちゃ人気者じゃないか。どうりでチケットが取れない訳だ)
当日券を何とか買えたのはラッキーだった。
柱にやや視界を塞がれているとはいえ、場所はジョー側に近い。
この距離なら彼の声も聞こえるかもしれない、と思った時、
『グレン・バロウズ! リングをサバンナに変える、重量級モンスター!!
対するは、その危険な猛獣に、己の拳のみで挑む、丸腰のハンター! ギアレス・ジョー!!』
高らかな選手紹介とともにそれぞれのPVが流れ、会場のボルテージはいっそう高まっていく。
その内容も対照的で、カメラを意識して派手なポーズを見せるバロウズに対して、ジョーはあくまで己の生身のみで、気取りがない。
そんな所があいつらしい、と少し笑ってしまう。そして、
『――ウエストコーナー! IMAランキング四位! ギアレス・ネイキッドボーイ・ジョーッ!!』
バロウズに続いての選手入場で高らかに名乗りが上がる。キャットは久しぶりにジョーの姿を見て――がたっ、と椅子から立ち上がってしまった。
(なっ……ジョーが、ギアを付けてる!?)
――そのギアには見覚えがあった。
初めて彼を見たとき、まるでおもちゃのようだと思ったくらいおんぼろの、ほとんど生身と変わらないそれ。
それを自分は、
(――藤巻!!)
頭に血が逆流するような怒りに襲われて、目の前がチカチカする。
瞬間的にその名前を結び付けたのは、そもそもJDの情報を寄越したのがあの男で、ジョーが藤巻の縄張りでメガロボクスをやっていたからだ。
カッとなって、キャットは握りしめた拳を柱にたたきつけた。
(藤巻の野郎、メガロニアで八百長しようとしてんのか!?)
ジョーと藤巻の間に、どんな貸し借りがあるのかは知らない。
だが、あんなに生き生きとした目で勇利との再戦を誓い、生身でここまで駆け上がってきた奴が、今更ギアなどつけるはずもない。
そんな無体を強いたのは、きっとあの男だ。
(だからか。メガロニアではったりをかますなんて大一番があったから、あんなにあっさり勇利から手を引いたんだ)
キャットは歯ぎしりした。と、後ろから、
「おいあんた、立ってちゃこっちが見えねぇよ!」
男が不機嫌に怒鳴って、椅子の背を蹴ってきた。反射的に振り返ると、
「うっ……な、何だよ。俺ぁただ、座ってくれりゃあ……」
こちらがよほど険悪な顔をしていたのか、急に大人しくなってもぐもぐと呟く。
「……悪い」
言い分はもっともなので、キャットはとりあえず腰を下ろした。
だが、ささくれだった気持ちはおさまらず、いらいらと足を揺らしながらリングへ視線を向ける。
バロウズに怯えたと目されたジョーへ、会場からブーイングが降り注ぐ中、ブザーと共に試合が始まる。
バロウズとジョー、重量級と中量級。
ギアの導入により階級制を廃したメガロボクスでは、こんなマッチメイクも珍しくはない。
パワーの差をギアで埋められる点で言えば、中量級の選手の方が優勢と言われているが、バロウズの鍛え上げた体格から繰り出すパンチ力は侮れない。
(大振りが多いから、付け入るとすればそこだろうけど……)
試合に見入りながら、キャットは拳を握る。
パワーに押されながらも、ジョーもやり返してはいる。風が唸るようなジャブを避けて、下からボディーに一発、そこからアッパー……いや、
(外した!)
鋭い一撃は、バロウズの顎をぎりぎりかすめて空を切った。それをミスと見て取って、悲嘆の声が観客席から上がるが、
(……あれ、わざとじゃないか)
今の踏み込みの深さとタイミングからして、クリーンヒットするように見えたのに、当たらなかった。
(やっぱり、八百長やらされてるのか?)
疑念を持って見守る中でブザーが響き、選手たちはコーナーに戻る。
しかし、バロウズには何人もセコンドがついている一方、ジョーはたった一人。
サチオも、おっちゃんと言われていた人物も誰もいない。
(おっちゃん、は知らないけど……サチオがヤオなんてやりたがるとは思えないし、もめたのかもしれない)
ジョーの事情は分からないが、もし藤巻のせいならと思うと、はらわたが煮えくり返ると同時に、背中が冷える。
メガロニアの大舞台での八百長。こんなでかい勝負を、あの男がのんびり、テレビ観戦するはずもない。
(たぶん今日、あいつはここに来てる)
そこいらの客席ではなく、おそらくVIPルームかどこかで高みの見物をしているはずだ。それを思うと、
(……くそっ。死んでも構わないと思ったんじゃないのか)
体の奥底から怯えがこみあげてきて、舌打ちした。
自分の中には、藤巻への恐れが根強く残っている。
勇利の件で対峙した時は、死ぬ覚悟が出来ていたから恐怖も麻痺していた。
が、やり過ごした今となっては、あの男の前に自分の首を無防備に晒しているようで、震えが止まらない。
(白都のギアはもう返した。あいつに見つかったら、どうにもできない)
逃げたい。この場から逃げ出したい。
急速に膨れる恐れから目を背けようと、かたくなにリング上のジョーを見据える。
二ラウンドに入って、彼の動きはせわしなくなった。
体を大きく開いたパンチをバロウズに避けられ、ばたばたと焦るように動く。
しかも相手の攻撃を受け続けたせいで、ギアが少しずつ壊れ始めている。
ジョーが肩口でパンチをしのぎ、ブロックしながらサイドへ避け、顔へ連打を入れた時、破片が体からこぼれ落ちていくのが見えた。
(ギアがなくとも十分やれてる、とはいえ……ジョー、しんどそうだ)
アラガキの時より、技術が上がっているのは見て取れる。
だが、あの時のジョーは無我夢中で、全身で相手にぶつかっていって、心の赴くままに自由に闘っていた、そんな印象を受けた。
なのに今日は終始、歯を食いしばって耐えるような表情で、見ているこっちが息苦しくなる。
やはりあの男が進んで、八百長をやるとは思えない。
何か事情があってこうなっている……もし背後に藤巻がいるのなら、首根っこ掴まれてどうしようもないのだろう、が。
(……これでいいのかよ、ジョー)
昨夜、勇利に対して感じた疑問を投げつけたくなる。
(勇利と闘るために、ここまで来たんじゃなかったのか)
その言葉が嬉しくて、生身で闘うジョーが眩しくて、自分もあんな風になりふり構わず闘ってみたいと思えて。
だから、勇利と闘うまで応援したいと思っていたのに。
――試合は三ラウンドに入った。
様子見をしていた二ラウンドとは異なり、互いに激しく打ち合う。
そして段々、ジョーが押されてコーナーに追い詰められていく。
「ジョー……」
固いガードで猛攻をしのぐ、彼の表情は見えない。
「何だよ、これで終わりかよ。ギアレス・ジョーなんてとんだハッタリだったな」
「!」
後ろの客が吐き捨てるように言うのが耳に入り、キャットが思わず睨みつけそうになった瞬間、
「勝手に終わらせんなよ!!」
高い声が不意に、周囲の騒音を貫いて響き渡った。
何事と目を向ければ、リングの傍にいつの間にか、息を切らしたサチオが立っている。
「サチオ!?」
突然の登場に驚くこちらには気づかないまま、少年はリングのジョーに怒鳴りつける。
「自分の為に闘えよ、ジョー!
てっぺん取るんだろ、そのために闘ってきたんだろ!
ハッタリで終わらせんじゃねぇよ!」
「!!」
――瞬間、ぶわ、と鳥肌が立った。
気がそれたせいで、ジョーが強烈なパンチを喰らってダウンするのが視界の隅に見えたが、キャットはサチオから目が離せない。
(
これはおそらく八百長を強いられているジョーへの言葉だ。
ここまで一緒にメガロニアを目指してきたチームメイトへの声援だ。
それは分かっている、分かっているのに何故、こうも胸にとどろいて聞こえるのか。
サチオ、と呼びかけようとしてハッとする。
係員がばらばらと出てきて取り囲み、少年を捕まえるのを見て、
(待てよ!)
とっさに席を立って前へ出ようとして――しかし今度こそ本当に、心臓を打ちぬかれたような痛みに、意識を失いそうになった。
(ゆ、う、り)
嫌がって暴れるサチオを押さえようとした警備員たちが驚き、動きを止める。
影の中からその場へ現れたのは、勇利その人だった。
なぜ、ここへ。どうして、そこにいる。
思考も体も停止して、その場に縫いとめられる。
凍り付いたキャットの視界の中で、勇利は――勇利は、真っすぐにリングを見据えていた。
冷静沈着、めったに感情を見せない勇利が、警備員が怯むほどの怒気をあらわに、リングを、その上でダウンして立てずにいるジョーを、睨みつけている。
その口が、動く。
声が届くほど近くにいるわけではない。
サチオの高い声なら合間を縫って聞こえても、勇利の低い声は大歓声に紛れてしまう。
それなのに、聞こえた気がした。
――俺を失望させるな、ジョー!!
ライバルと認めた男を、ここで終わるなと叱咤する声が。
割れんばかりの歓声は聞こえなくなり、目には勇利しか映らず、体の細胞全てがざわついて、吐き気がするほどの灼熱が腹の底からこみ上げてくる。
(ゆうり)
ぐら、と視界が歪み、
「おっ、おいあんた大丈夫か!?」
その場で倒れそうになって、近くにいた観客が驚いて支えてくれた。
ふらつく頭を上げたキャットは、「真っ青じゃないか」「救護室いったほうが」と周囲からかけられる声も耳に入らない。
ぶるぶるっと頭を振って急ぎ身を起こすと、リングではギアをすっかり脱ぎ捨てたジョーが、いつの間にかバロウズを仕留めていた。
(勇利)
勇利は、まだそこにいた。
遅れて登場したゆき子と何か言葉を交わし、リングに背を向けて立ち去っていく。
キャットはとっさに足を踏み出しかけ、
(……いや、待てよ。追って、どうするつもりだ)
ぎ、とその場で動きを止めた。
自分から忘れてくれと離れた相手に追いすがって、いまさら何を言うつもりなのか。
(駄目だ、ここには藤巻がいる)
あの男は自分がいずれ勇利の元へ戻る、と断言していた。その思惑に乗ってしまえば、奴はまた自分を使って、勇利の勝利を汚そうとするだろう。
そんな事は出来ない。
自分は彼に会えない。そもそもあんな別れ方をして、どの面さげて会えるというのか。
「……っ」
周りの声も何もかも聞こえず、大観衆の中でたった一人で取り残されたような感覚に陥って、キャットは拳を握りしめる。
足はまだ、踏み出そうとしているかのように指先に力がこもり、固くこわばっていた。