グラスプ・フォーチュン

 どっ、と勢いよくベンチに倒れ込んだのは、脇腹の激痛に耐えきれなかったせいだ。
(……いってぇ……く、そっ……)
 切れる息の下で毒づき、手で押さえると、呼吸が止まるほどの鋭い痛みが走る。服の上から殴られたので状態は見えないが、骨にひびが入っているのかもしれない。
 遠慮なくやりやがってと歯を食いしばり、背もたれを握りしめる。
(はっ……やっぱ、ルペールのそば、通るんじゃ、なかった)
 後で悔いても遅い。
 日雇いの配達仕事でどうしても避けられず、あの店近くの道へ足を踏み入れたら、運悪く藤巻の手下に見つかってしまった。
 あそこから逃げ出して結構時間が経つのに、連中はまだこちらを覚えていたらしい――あの時、店の売り上げをかっぱらったせいかもしれないが――屈強な男二人に捕まったあげく、殴る蹴るされて散々だ。
 隙を見て何とか逃げ出したものの、全身が痛みで悲鳴を上げている。
(くそが……好き放題、やりやがって)
 追っ手を振り切るために駆けこんだ国立公園は、早朝のせいか、人影もまばらだ。
 連中を撒いたと確認してから倒れ込んだベンチに、体を斜めにしてもたれていると、だんだん怒りが込み上げてきた。
(ふざけんな、畜生。いつまで付きまといやがる)
 せっかく藤巻から逃げられて、何とか自力で生きていこうとしているのに、過去の因縁はまだ足を引っ張っている。いつになったら真っ当な、人間らしい暮らしが出来るようになるのだろう。
 それとも、
(一生このまま、どん底か)
 そう思った瞬間、目の前がふっと暗くなったようで、力が抜けそうになる。
(嫌だ。こんなのは嫌だ。負けたく、ねぇ)
 誰かに虐げられて生きるのはうんざりだ。
 今の暮らしは豊かではないが、それでもやっと、日の光の下で生きていく足がかりをつかんだのに。
 ……暴力に見舞われれば、こんな簡単に屈してしまう。
(こんなのに、負けたくねぇんだ)
 息を荒げるまま、脇に当てていた手を持ち上げて、仰ぎ見る。
 小さく、細く、頼りない手。力を込めて拳を作ったところで、男一人打ち負かす事も出来ない。
 くそっと唸ると、ベンチに手をついて、よろりと立ち上がった。
(強く、なりてぇな……ここに、ギアがあれば、いいのに)
 そう思って、小さく笑う。
 子どもの頃からかじりついて見ていた、メガロボクス。
 ギアを身に着けてリングに上がれば、どんなろくでなしでも、いっぱしのボクサーになれる。血沸き肉躍る激しい殴り合いに、自分もあんな風にやれたらと、何度夢見た事か。
(メガロボクサーになれば、嫌な奴も全部ぶっ飛ばせる。強くなれる。うまくすれば、メガロニアだって……いけるかもしれねぇ)
 ふと頭をよぎったのは、路上テレビで流れていた、メガロニアトーナメント開催のニュースだった。
 認可地区の大企業をバックに、専用スタジアム建設までしている大規模な世界大会。そこで優勝できれば、人生が一変するような金と名誉が手に入るという。
 夢のような話に息巻く連中を見て、自分がもしメガロニアへいけたら、と考えずにはいられなかった。
(そんなもん、出来るわけねぇって笑われても……酒かっくらって、クダまいてるバカな奴らより、自分の方がましだ)
 メガロボクサーを志してからは自己流だが、走り込みや筋トレをしている。何より、自分には誰にも負けたくない、という強い気持ちがある。そこいらの男よりはよほど根性あると思う。
 だが、現実は非情だ。
 手下連中に痛めつけられて体中がきしみ、今にも吐きそうだが、必死で守った配達の手紙をこれから届けに行かなければならない。
 叶いもしないような夢どころではなく、自分は今日を生きるだけで精いっぱいだ。
(……メガロボクスをやりたい)
 生きるよすがは、もはやそれだけ。
(いつか……いつか、メガロボクサーに、なりたい)
 幻と知りながら、それでもすがっていなければ、立っている事すら出来ない。
 そんな身を切られるような思いを抱えつつ、ベンチを手で押し返すようにして身を起こした。よろめきながら歩き出す。
 はぁ、はぁ、と息を切らして歩を進めるも、がつっと石にけつまずいて、
「!」
 その場に思い切り倒れてしまった。
 転んだ拍子に全身を打ち付け、声にならない悲鳴を上げて縮こまる。
(い、て、ぇ)
 地面に撒かれた砂が目に入り、痛みで視界が歪んだ。
 いやだ、泣きたくない。今泣いてしまったら、もう二度と立てなくなる。
 こらえようときつくまぶたを閉じたが、涙がこみあげてきて、目じりから溢れてしまう。
(ちくしょう……ちくしょうっ)
 痛くて、悔しくて、辛い。
 情けない自分に怒りで震え、罵りながらすすり泣きそうになった時――

「……おい、大丈夫か」
 不意に、声がした。

 ざり、と砂を踏む音が、頭の上の方から聞こえる。
 誰かが自分に呼びかけている。だが、応える気力もない。
 どうにでもなれ、と身じろぎせずにいたら、しゃがみこむ気配と共に、
「おい、しっかりしろ。意識はあるか」
 肩が大きな手に覆われ、軽く揺さぶられる。
(……あったかい)
 その温もりにふと、救われたような気がした。
 こんな風に優しく触れられたのが、思い出せないくらい久しぶりだったからか。
 応じるのも億劫だが、案ずる声に引き起こされるように頭をもたげて――そこで、息が止まる。
 滲んだ視界に映ったのは、トレーニングウェアを身にまとい、パーカーのフードをかぶった男。
 すらりと伸びる長い腕。がっちりと厚い肩、服の上からでも分かるほど逞しい上半身。フードの影から覗くのは白銀の髪と、眼光鋭い端正な顔立ち。
 ただそこにいるだけで人目をひくようなその姿かたちを、自分は知っている――これまで幾度となく、リングに立つ彼を、ブラウン管越しに見てきたから。
(ゆ――)
 メガロボクスの体現者。
 無敗のチャンピオン。
 キング・オブ・キングス。
 その称号を何度耳にし、どれほど憧れた事か。

 勇利。全てのメガロボクサーの頂点に君臨する、最強の男。それが今、自分の目の前にいる。

 夢か。
 幻か。
 茫然として呼吸も出来なくなった自分を見下ろし、
「……怪我をしているのか。立てないようなら、救急車を……」
 呼ぶか、と続く言葉は聞かなかった。
 夢でも幻でも良い、体中の痛みさえ忘れて思わずその腕にすがりつき、気づいた時には叫んでいた――

「メガロニアに出たいんだ!」

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