斜めに崩れた看板の酒場は、廃墟のようでいて、一応はまだ営業の灯りをともしている。
古い木戸を押せば、油の切れた蝶番が大きなきしみを立てて、無遠慮に来訪者の存在を知らしめた。
それを押しのけて一歩足を踏み入れると、アルコールと煙草とすえた臭いがむっと押し寄せてきて、思わず鼻の頭にしわが寄る。
ついで、眉をひそめた。
以前訪れた時、裏さびれたこのバーでは酔いどれ連中がくだを巻いていて、いかにも場末といった雰囲気だった。
だが、今日は無人だ。
――いや、無人ではない。正確には、三人の客がいる。
そのうちの二人は、ドアの左右に待機するこわもての男達で、店内に入ったこちらを威嚇するように見下ろしている。
それから視線を外すと、カウンターに一人、座っている男が見えた。
もっとも、仕立てのいいスーツに包まれた広い背中を見れば、顔を見なくても誰かは分かる。
(……貸し切りかよ)
夜も更けて宴もたけなわな時分、こんなにすいている訳がない。ますます嫌な予感が強くなる。
このまま回れ右して逃げ出したいと思ったが、ここまで来て、そんな事をしても無意味だ。
仕方なくカウンターへ歩を進め、
「…………」
声もかけずに隣に座る。
からん、と氷の崩れる音を立てて、男――藤巻が飲んでいたグラスを置いた。
「遅かったな。もう来ないかと思ってたところだ」
それが出来れば、どんなにいいか。
だが、この男の呼び出しを無視する方が、後々ひどい目に遭うだろう。ゆえに、
「……何の用だ」
キャットは身を守るように、自分の体に両手を回しながら、低く問いかけた。そう急くな、と藤巻は笑う。
「おごると言っただろう。かけつけ一杯、飲め」
「あんたの酒なんか、いらねぇよ」
いらない、と言ったのに、隅で縮こまっているバーテンが作った酒をこっちの前に置いて、またそそくさと逃げて行った。
……余計な真似を。誰が手をつけるか、と無視していたら、藤巻は再びグラスに口をつけた。
「そう警戒するな。取って食うような真似はしない」
「……用件を言え」
強く言い放つ。相手は太いため息を漏らした。
「相変わらず愛想のない奴だな。一杯くらい付き合う気はねぇのか」
「……」
「……まあ良いだろう。それで? 向うの暮らしはどうだ」
「……」
「その様子じゃ、まっとうな生活が出来てるみたいだな。
薄汚い野良猫が立派に成長して、嬉しい限りだ、育てた甲斐がある」
「……まっとうな親みたいなたわごと、口走ってんじゃねぇよ。何が言いたいんだ」
「今や立派な社会人だな、と言ってるんだ。携帯まで持たされて、すっかり白都に首っぴきだ」
白都の名前が出てきて、ぴくっと肩を揺らしてしまう。そこが狙いか。
キャットは視線をきつくして睨みつける。
「……自分はただのトレーナーだ。あんたが欲しがるようなものに近づいたりは出来ねぇよ」
酒を飲みながら横目にこちらを見て、藤巻は鼻で笑った。
「無謀な賭けは嫌いでな。
はなからそんな期待、しちゃいないさ」
「うわべの会話は嫌いだ。
言いたい事があるならはっきり言えよ」
切りつけると、藤巻はかすかに顎を引いた。
そのモスグリーンの瞳が、バーの明かりを小さく映し出し、
嘲りを含んだ低い声が、致命的な意味を持って、ナイフのように鋭く、こちらの胸に差し込まれた。
……言葉が耳に届いた瞬間、指先まで冷たくなって、気が遠くなった。
ぐら、と眩暈がして一瞬後ろにのけぞりかけたが、すんでのところで堪える。
(駄目だ。弱みを見せるな)
ここに来るまでしっかり覚悟を決めたはずなのに、たった一言で打ちのめされてどうする。
喉がからからに干上がっていくのを感じながら、
「……何言ってんだ。チャンプってのは勇利の事か? 自分と勇利が出来てるって? そいつぁ笑えるな。
まさかあんた、キング・オブ・キングスが野良猫を相手にすると思ってんのかよ」
強いて冷静さを装って答えたが、藤巻は空になったグラスを脇に避けて嗤う。
「相変わらず、お前は嘘が下手だな。そんな青い顔して、ごまかせると思ってるのか」
それに、と足を組んで続ける。
「俺が何の確証もなく、こんな事を口にすると思うか。
バレたくなかったのなら、仲良く未認可地区に足を踏み入れるべきじゃなかったな。
どこで誰が見ているか、知れたものじゃない」
「っ……」
ではやはり、地下闘技場を訪れた時、目をつけられていたのだ。
注意が足りなかった己に歯噛みするキャットへ、藤巻はさらに言葉のナイフで切りつけてくる。
「用件を早く聞きたいのなら、教えてやる。
……メガロニア決勝まであと少しだ。
おかげさまで商売繁盛、どこもかしこも準備に追われて、
まさか、とキャットの顔が引きつる。
メガロニアは世界大会、賭けの規模も桁違いに大きい。
一番人気はもちろん、キング・オブ・キングスだろう。
絶対王者は未だ無敗。今回も皆が優勝を期待して、金を賭けるのは目に見えている。
だからこそ、万が一彼が敗北すれば、胴元の懐にはかなりの見返りがあるはずだ。
「……勇利に負けろと言えってのか? チャンプがそんな事するわけねぇだろ」
地下お得意の、八百長を仕掛けろと言う事か。
吐き捨てるように言い放つと、藤巻はすっと手を動かし、グラスの中の氷をつまみ出す。
そしてそれをカウンターの上で転がしながら、
「だろうな。あれは相当な堅物だ。
ふ、と笑い、眼光鋭くこちらを見やった。
「――だが、自分の女に出された飯は大人しく口にする、そうだろう? トレーナー見習いさんよ」
(……!!)
一瞬目の前が明滅するほどの怒りがこみあげた。キャットはがたんと立ち上がって、
「勇利に一服盛れっていってんのか、ふざけんな藤巻!! そんな事、誰がするか!!」
店内いっぱいに響き渡るほどの怒声を、腹の底から吐き出した。
怒りのあまり震えがとまらず、ガンッと拳をカウンターにたたきつけると、氷が跳ねて水滴を飛び散らせた。
「『さん』はどうした、キャット。白都のマナー教室で勉強してきたんじゃなかったのか?」
だが、相手はこちらの怒りなど柳に風と受け流し、取り出したハンカチで濡れた指先を拭く。
藤巻、とかみつぶすように唸るキャットに、
「何をどうするかはお前が決める事だ。俺は口出しはしない。
――だが、考えてもみろ。
無敗のチャンピオン、本物のメガロボクスの体現者、キング・オブ・キングスが、メガロニアという大舞台で敗北を喫するとなれば、大番狂わせもいいところだ。
面白いと思わねぇか」
「面白いわけあるか!! そんなの死んでもやらねぇからな!」
歯をむき出しにして叫ぶ。と、不意に周囲の気温が下がったような錯覚を覚えた。
反射的にびくっと体が縮こまったのは、目の前にいる男の纏う空気が一変したからだ。
藤巻は目を細めて、こちらを見ている。
ただそれだけなのに、その身から吹き出す殺気じみた気配に、首筋がひりひりと緊張する。
「……っ」
思わず身を引きかけると、はっきりと嘲りの笑みを浮かべて男は言う。
「それならチャンプに、てめぇの女がどういう素性か、洗いざらいバラすだけだ」
「!!」
息が塊になって喉に詰まった。言葉を失ったこちらへ、藤巻はさらに畳みかける。
「チャンプ――勇利は、どう思うだろうな。
小さな可愛い自分の恋人が、未認可地区でガキの時分から、何をどうやって生き抜いてきたのかを知ったら」
「……、……っ」
息が出来なくなって、苦しくて、とっさにカウンターのグラスを掴み、煽った。
灼けつくように熱い液体が口から喉を犯し、腹の底へと落ちていき、
「げほ、げほげほっ!!」
一気に飲み干したせいで盛大にせき込んでしまった。あまりの痛みに目の端に涙すら浮かぶ。
おいおい、と藤巻は足を組みなおして笑った。
「勿体ない事をする奴だな。俺が持ち込んだ、いい酒だったんだが」
「ぐっ……げほっ、は、はぁっ……」
激しい喘鳴の後、何とか息を整えて涙をぬぐう。目元がひくつくのを感じて、一度きつく、まぶたを閉じた。
腹にわだかまる酒は吐き気を催すほどに熱い。体中から汗が噴き出して、背中を伝い落ちるのが分かる。
「…………時間を」
ようやく口を利けるようになって、キャットは掠れた声で囁く。
「時間を、くれ。……そんな話、簡単に決められない」
「明日だ」
だが返事はすげない。
な、と顔を上げると、藤巻は新しい酒を口に運んでいるところだ。もはやこちらに視線を向けもせず、
「明日の夜、返事をきかせろ。
今日みたいに遅刻はしてくるなよ。一分でも遅れれば、それがお前の答えだと受け取る」
「……っ、わ、かった」
選択肢はこちらにない。キャットは呻いて、よろめきながら椅子を離れた。
ボディーガード達の視線を受けながら、逃げるように、バーから飛び出し――
バイクをやみくもに走らせた先は、川が海へと流れ込む河口だった。
無人の土手に停車し、メットをシートの上に置いて、息をつく。
心臓はまだ早鐘を打ち、落ち着く気配がない。
手は震え、背中に寒気がかけ上り、腹は気持ち悪く、頭がガンガンと痛みを訴えている。
「……く、っそ」
腰を折り、メットに額を打ち付けて呻く。
何てドジを踏んだのだろう。やはりあの時、藤巻に頼るべきではなかった。
(うぬぼれてたんだ)
あの男の元から逃げ出し、自分の力でまともな暮らしが出来るくらい大人になれた。
今対峙しても負けはしない、むしろ出し抜いてやる――そんなうぬぼれが、危地を招いたのだ。自業自得にもほどがある。
(どうする。どうする。どうする。
時間がない。明日の夜だなんて、何が出来る。どうすればいい)
ぐるぐると言葉が空しく頭を巡り、混乱だけをどんどん大きくしていく。
は、と息を吐いて、キャットは身を起こした。
目の前に広がるのは、認可地区の夜景。
スパンコールをぶちまけたような、煌びやかなネオンが街を彩り、自分の恐れなどまるで知らぬ顔で輝いて、こんな時でさえ美しく見える。
その手前、海に流れ込む水路は光の反射と夜を映して、闇色の布を広げているかのようだ。
「…………」
光と影。相反する二つのものを同時に見つめながら、キャットはハンドルをぎゅっと握った。
掌が擦り切れるほど強く握りしめれば、自分がいま確かにここにいるのだと実感できて、今にも崩れ落ちそうな体でも、踏ん張れる。
「……勇利」
名を呼んでも、答えはない。いや、あってはならない。
自分はもう、何をすべきか分かっているのだから、その名を口にしてはいけない。
「…………」
はぁ、と息の塊を喉の奥から吐き捨てる。
そして緊張に強張った手を動かし、ポケットから携帯電話を取り出した。
アドレス帳の番号を選び、ボタンを押して、耳に当てる。複数回コール音が鳴った後、向こうが出た。
耳に響くその声を聴きながら、キャットは深く息を吸い、話し始める――