ゴー・バック・トゥ

 廊下の遠く、スタジアムではまだ、熱狂さめやらぬ観客のざわめきが響いている。
 かすかに届くそれを聞きながら、キャットは控え室の扉をごんごん、と叩いた。
 少し間があって、ぱたぱたと小さな足音がしたかと思うと、きしんで開き、
「あっ、野良猫ストレイキャットじゃないか。試合、見に来てくれたのか?」
 ひょいと顔を出したのは、オレンジの帽子をかぶったサチオだった。つい苦笑して、
「それはリングネームだから、呼ぶならキャットにしてくれ。
 ……ジョーは? 死んでないか?」
 問いかけると、あったりまえだろ! と少年も笑う。
 押し開けられた扉から誘われるまま、部屋へ足を踏み入れると、長椅子に横たわったジョーの姿が目に入った。
(……ボロボロだな)
 汗だくで血だらけの痣だらけ。
 試合後のメガロボクサーが無傷でいるなんて、ほとんどないが、それにしても酷い有様だ。もっとも、あれだけ激しくやり合えば、当然の結果だが。
 キャットは彼の頭近くに椅子を寄せて座り、よぉ、と声をかける。
「まだ生きてるって? ギアレス・ジョー。ずいぶんタフだな」
「……こんな所でくたばってられるかよ」
 顔の上に置いたタオルをよけて、ジョーが笑った。痣の浮かんだ目でちらり、とこちらを見上げ、
「何しに来たんだよ、野良猫……いや、キャット、か?
 俺が勝ったのにびびって、今度こそ偵察に来たか」
 揶揄する口調でいうが、本気でそう思っていないのは明らかだ。
 あれだけ滅多打ちにされたのに、口のへらない奴だと思うが、そういうところがこの男の愛嬌なのだろう。
 くすっと笑ったキャットは、足を組んで頬杖をついた。
「偵察なら、自腹切ってチケット買うかよ。あんたが変に人気出たから、手に入れるの大変だったんだぞ。
 全く、メガロボクスでギアレスがもてはやされるなんて、世も末だ」
「それだけ皆、ジョーが闘ってるのを見たがってるってことだろ。
 生身でやるなんて、最初はオレも、正気の沙汰とは思えなかったけど」
 長椅子の空いたスペースに腰掛けたサチオの言葉に、キャットは肩をすくめた。
 メガロニアトーナメントを仕切る白都コンツェルンとしては、今日のアラガキ戦に勝ったギアレス・ジョーを、そろそろ無視できない存在と意識している事だろう。
 この辺りで潰しておきたいという動きも出てきそうだが、
「……確かにな。今日の試合、見てて鳥肌立ったよ。ちょっと感動もした」
 キャットは自分の素直な気持ちをすんなり口にしていた。
 へぇ? とジョーは意外そうに声を漏らしたが、そりゃそうだろうと腕を組む。
 試合内容だけ取ってみれば、あまり褒められたものではない。
 アラガキは技術こそ優れていたが、おそらくあの義足が長期戦に向かなかったのだろう。試合放棄のTKOという、何ともすっきりしない結果に終わった。
 ジョーの方はといえば、前半ほとんどいいところがなかった。
 後半盛り返したとはいえ、相手のパンチを避けるどころか、むしろ正面から受けてただひたすら、血をまき散らしながら互いを殴り合うだけの不恰好な闘いだった。
 あれではストリートファイトさながらだ。
 世界中から選りすぐられた選手たちが、競って頂点を目指すメガロニアトーナメントの晴れ舞台としては、あまりにも泥臭い。
 専門家たちが見ればきっと軒並み、渋い点をつけただろう。だが、
「あんな馬鹿みたいに真っすぐな、純粋な殴り合いを見せられたら、誰だって興奮するさ。
 あんたもアラガキも、めちゃくちゃかっこよかった。初めてボクシング見た時を思い出したくらい、面白かったよ」
 そう、あれはボクシングそのものだった。
 ただ純粋に、相手をぶちのめしてやるという思いだけでぶつかり合うような、むき出しの闘争心に、否応なく気持ちを揺さぶられた。
 最初は一方的だなと、ビールを飲みながら眺めていたのに、最後の方では身を乗り出し、拳を握りしめて見入ってしまうくらいには、魅了されてしまった。
 だから、ジョーに笑いかけて言う。
「ちゃんと見てみて、思ったよ。
 自分はあんたの試合、好きだな。
 今日は中途半端なところで終わっちゃったけど、もっとあんたを見ていたいと思った」
「そりゃどうも。お気に召したようで何よりだ」
「うん。だから、あんたがメガロニアに行って、勇利とあんな風にぶつかり合うのが楽しみだ」
 そう言うと、横で話を聞いていたサチオが、訝し気に眉根を寄せ、
「……あんた、何でそんなに、ジョーと勇利の試合を見たいんだ?」
 と問いかけてきた。
「勇利はさ、メガロボクスチャンピオンだろ。こう言うのも何だけど、ジョーより強い奴らと、いくらでもやってきたんじゃないか?」
 おい、と不満そうに声を上げるジョーの横で、キャットはまぁなと曖昧に頷いた。
 それはその通りだ。
 勇利の過去試合で、今のジョーより、技術も経験も上の選手たちはいくらでもいた。
 地下でいかさまをやっていたメガロボクサーにこだわらずとも、対戦相手に困らない。だが、
「……でも、勇利はつまらなさそうなんだ」
 ぽつり、と呟いてしまう。え? と目を瞬くサチオに、キャットは続ける。
「勇利は世界一強い。他の誰にも負けない。試合だっていつも、完勝してる。
 ……でも、だからかもしれないけど。今は楽しいように見えないんだ。
 昔の勇利は試合の時、いつも嬉しそうだったのに、最近は全然。
 勝つのが当たり前の機械みたいで、なんか……見てるこっちも、前ほど熱くなれない」
 それを寂しいと思うのは、自分のわがままだ。
 勇利は自分のなすべき事をしているだけで、周りがとやかく言う話ではない。けれど、
「……自分は、勇利がメガロボクスを楽しむところが見たい。
 自由に、何のしがらみもなく、心から打ち込める試合をしてほしい。
 本気の勇利を、この目で見てみたいんだ」
 それが偽らざる本音だ。キャットはジョーを見下ろし、
「初めて会った時、勇利は妙にあんたを気にしてた。
 オーナーに後で叱られるのだって分かってたはずなのに、地下の賭け試合にまで乗り込んで、あんたと闘りにいった。
 そんなふうに他の人間を気にかけるのなんて、初めて見たよ。
 まあ、本人は野良犬をしつけただけだ、なんて言ってたけどな」
「……あの野郎」
 むっとするジョーに少し笑って、言う。
「きっと勇利は、あんたみたいな奴を待ってた。
 あんたとやれば最初から最後まで、心からメガロボクスを楽しめる。
 ……今日の試合を見て、そう確信したよ。
 だから、ギアレス・ジョー」
 すっと手を伸ばして、固めた拳をジョーの肩に軽く当てた。相手の目を真っすぐに見据えて、
「あんたは絶対、メガロニアに来いよ。
 勇利が楽しむのも、あんたが全力でぶつかるのも、見てみたい。
 今日みたいな、今日よりももっと熱くなれる試合を、見せてくれよ」
「……そんなの、言われるまでもねぇって言ったろ」
 表情を和らげた後、ジョーは不敵に笑った。しゅっ、と天井に向けて拳を突き出し、
「俺は勇利と闘るために来たんだ。あいつとぶつかるまで負けねぇよ。あんたみたいな、にわかファンの応援もあるんじゃ、なおさらな」
「自分は別にあんたのファンになったわけじゃ、……いや、なってるのか……?」
 否定しようとして、しかしジョー自身を応援したいという気持ちも確かにあるので、口に手を当てて考え込みそうになった時、
「……キャットって、ほんとに勇利が好きなんだなぁ」
「!」
 サチオがほとほと感心したように呟いたので、ぎょっとしてしまった。
「な、何だよ急に」
 思わずどもってしまうと、彼は、へへっと歯を見せて笑い、
「だってあんたがジョーを応援するのは、勇利のためなんだろ? そこまですんのは、よっぽど惚れてんだなってさ」
「う……」
 相変わらず、色恋について突っ込まれるのは苦手だ。
 頬が熱くなるのを止められず、キャットは顔の下半分を手で隠して視線をそらす。だが、
「……まぁ、それは……勇利は……自分にとって、世界で一番、特別な人だし……」
 白都とは関係ない相手だからだろうか。
 本音をぽろりとこぼしてしまうと、ジョーがやめてくれよ、と手をぱたんと下ろした。
「こっちは試合で疲れてんだ。他人の惚気を聞く余裕はねぇよ」
「……う、ごめん」
「謝らなくていいけどな、そろそろ休ませてくれ。さすがにねみぃ」
 そういってジョーは再びタオルを目にかけた。あっという間に、すーっと寝息を立て始める。
 キャットはサチオと顔を見合わせ、
「……じゃあ、この辺でいくよ。邪魔して悪かったな」
 そっと声を潜めて言うと、
「ああ、来てくれてありがとうな、キャット。
 ジョーは絶対メガロニアに行くから、楽しみにしてなよ!」
 サチオはニカッと、無邪気な笑顔を見せたのだった。

 会場の熱気はまだ名残を残し、自分の心臓も速く動悸したままだ。
 控え室を去り、駐車場の愛車まで足を運んだキャットは、しかし去りがたい気持ちを扱いかねていた。スタジアムを見上げて身震いし、
「……ふっ!」
 しゅ、と空中に向けてジャブを繰り出す。
 一度始めてしまえば、止まらない。
 そのまま短く息を吐きながら、足を使って拳を突き出しては引き、無人の駐車場で街灯の下、目に見えぬ影――ギアレス・ジョーと闘う。
(勇利があんなに気にしてた理由、分かった気がする)
 胸がざわざわする。血湧き肉踊るとはこういう感覚だろうか。
 ジョーとアラガキの試合を見たら、体の奥から熱が吹き出し、全身を鼓舞してやまない。
(自分も、ジョーと闘りたい。あいつと心行くまで闘いたい)
 それが叶わぬ事と知っていても、熱は収まらない。
 収まらないのを持て余して、風を切って渾身の右ストレートを放った瞬間、
「!」
 不意にポケットの中に入れていた携帯が震えたので、動きを止めた。
 顎の汗をぬぐい、取り出した携帯を耳に当てて、
「はい、もしもし」
 勇利だろうかと思いながら出る。瞬間、
『――機嫌がいいみたいだな、キャット』
 耳に響いた、嘲りの色を帯びた低い声に、硬直した。
 な、と言葉に詰まった後、
「……何であんたがこの番号知ってんだ、藤巻!」
 噛みつくように叫ぶ。
 白都から支給されたこの携帯の番号は無論、藤巻には知らせていない。
 それどころか、何の連絡先も渡していない。なぜ、と疑問を発したのだが、
『用があるからかけた、それだけだ。
 ――これからあのバーに来い。一杯おごってやる』
 相手はこちらの話など聞きもせず、一方的に告げて切ってしまった。
 藤巻、と怒鳴りつけようとしても、電話は不通音を立てるだけだ。
(……あの野郎っ……)
 ぎり、と携帯を握りしめる。
 試合で高ぶった熱は急激に冷えて、体が勝手に震えだした――それは寒さの為だけではない。
 ひたひたとわき上がる恐怖心にあらがうように、キャットはぎしりと奥歯を噛みしめた。