季節は春。
街中であれば桜が花開き、あたたかな春風の中、人々は重たい冬服を脱いで楽しく笑いさざめいているだろう。
だがここは――海辺は、まだ少し肌寒い。
打ち寄せては引く波、海上を吹き抜ける風は、暦の季節より少し前の冷たさを伴っている。だが、真冬に比べればずいぶんとぬくもりを感じられるようにはなった。そう思って目を細める、その視界に動く人影が映る。
視線を向ければ、悲鳴、いや歓声が上がった。気まぐれのようにひときわ強く吹いた風で、勢いよく打ち寄せた波に足を取られた子どもが、転んで頭からびしょぬれになってしまったのだ。それを、他の子どもたちがきゃあきゃあと騒ぎながら囲み、助け起こす。
「あーあ、風邪ひいちゃうよ」
「ほら、こっちおいで。拭いてあげる」
髪からぼたぼたとしずくを垂らして、情けない顔をした子どもを出迎えたのは、恰幅のいい少年と、髪を短く切った活発な印象の少女だ。
用意していたバスタオルにすっぽり覆って世話をするその周りを、灰色の犬がふんふんと鼻を鳴らしてまとわりつく。昔なら子どもたちと一緒に戯れて走り回っていた犬も、年を経てずいぶんおとなしくなったな、などと思う。
ともあれ子どもたちは心配なさそうだ。見るとはなしに目を向けていた光景から、手元へ視線を戻した俺は、ふ、と口元を緩めた。
手中に収まっているのは、真っ赤なトマト。その下には野菜を詰め込んだかごが置かれている。
いつか見たもの。だが、違うもの。
トマトは、記憶にあるそれよりも小さく硬かった。野菜の目利きなど得手ではないがそれでも、これが生育不十分なのはわかる。
「まだまだのようだな」
正直な感想を告げると、横手から鼻を鳴らす音がした。悪かったな、と砂浜に直接腰を下ろした男――ジョーが呻く。
「畑が一回水で全部洗われちまったからな、土の質とやらが変わったらしい。一からやり直しで、うまいこといかなかったんだ」
「最初の収穫としては十分だろう」
「畑仕事なんか知らねぇってのに、覚える事がありすぎて、頭がパンクしそうだよ。おっさんはよくこんな事やってたもんだ」
屈託なく故人の事を話せるようになったのは、この男が帰ってきてから十分時間が過ぎたのだと実感する。そうだなと呟いて、車いすに背中を預ける。
「俺はお前たちほど親しく付き合ったわけではないが、あの野菜の出来を見ればわかる。……きっと、人生を楽しんでいたのだろうな」
「……」
返ってきたのは沈黙。それを埋めるように、波音と子ども達の歓声がひっきりなしに響き渡る。
青い海、そしてその上に広がる雲一つない空。ここにいると、自分というものがいかに小さな存在か、思い知らされる。時にそれは心強く、時にそれは心細く、時にそれは――どこまでも限りなく広がる世界の大きさを感じさせてくれる。
「……サチオが、帰ってくるそうだな」
遠い空の下へ旅立っていったという少年、いや青年のことを思い出して問いかける。目を細めて子ども達を見つめていたジョーが、ああ、とやわらかく答えて頬をほころばせた。
「連休もらったから羽を伸ばしにくるってよ。まだまだの出来だが、手作りの野菜でせいぜいもてなしてやるさ」
「手土産持参で、邪魔をしてもいいか」
思い立って提案したら、ジョーが驚いたように目を瞠った。それからはは、と肩を揺らす。
「いつでも好きな時に来いよ。サチオも歓迎するに決まってる。あんたの犬はあいつらに大人気だしな」
子ども達にまとわりつかれ、老年を忘れたように駆け出す犬。
それを追いかける小さな集団が微笑ましくうつり、俺もまた笑う。ああ、あの少年もあんなふうに駆けていたな、そんな事を思い出しながら。
ヒャクニチソウ「不在の友を想う」「幸福」