未認可地区、その内の一角にある建物の前に立つ。
見上げた看板には、古ぼけた文字が描かれている―『Jimmy’s MEGALOBOX CLUB 機械拳闘門』
「…………」
その名前を目の当たりにして、思わずごく、と唾をのみ込んだ。こちらの気配が伝わったのか、車椅子の勇利が振り返って苦笑する。
「そんなに緊張する必要はないぞ、シャル。ジミーさんは気さくな人だ」
「……そうは言うけど、さぁ……だって、勇利の恩人なんだろ? そんな人に挨拶とか、無理、緊張する」
言葉にしたら余計、体が硬くなる気がする。
今日のために散々覚悟を決めたはずなのに、いざ目の前にしたら逃げたくなってしまう。勇利はふ、と小さく笑った。
「お前は変なところで気が小さいな。……行くぞ」
「あっ、ちょ、勇利!」
ぐずぐずしているこちらをよそに、彼は自分で車椅子を動かし、ジムのドアを開く。
ぎぃぃっと大きな音が響き渡って、追いついたシャルは思わず肩をすくめてしまった。
開けた視界に映ったのは、リングを中心に据えた、こじんまりとしたジム。
白都のそれに慣れてしまった目から見れば、外観同様、だいぶ古びていて、時代遅れにさえ見える設備だ。
(……ここ、まだやってるのか?)
薄暗く人気のない様子に、ついきょろきょろと見回してしまう。長い年月、使い込まれた感のあるグローブがいくつもおさまった壁の棚へ目を走らせるうちに、
「ジミーさん、勇利です」
勇利は慣れた様子で中へ進んでいく。と、いくらもいかない内に、
「ああいらっしゃい、勇利さん。
すみません、出迎えもせずに」
奥から現れた人が、ゆっくりと歩み出てきた。
アジア系、背は低くずんぐりむっくりとして、目の細い中年男。
勇利に見せてもらった写真は十年も前のものだったが、少し老いたくらいでほとんど変わりない。この人だ、シャルはどきりとした。
「いえ、お時間を頂いてありがとうございます。どうしても、ジミーさんに紹介したい人がいて」
「こちらこそ、話を聞いて楽しみにしていましたよ。
……では、そちらが?」
旧知の仲、といった様子で人と語り合う勇利はあまり見ないから、珍しい。
そう思っていたら、急に会話の矛先がこちらへ向いたので、焦って背筋がガチッと伸びる。
「はい。……婚約者の、シャーロットです」
勇利の穏やかな紹介に続いての挨拶は考えておいたはずなのに、とっさに言葉が出てこなくて、
「あっ、あのっ、は、初めましてっ。しゃ、シャーロット・ティシキャットですっ」
噛みまくって、頭を勢いよく下げるので精いっぱいだった。
(ば、馬鹿かっ、なんでもっと丁寧に、おしとやかに言えないんだ!)
勇利の婚約者なんて、どこぞの綺麗な礼儀正しいお嬢様が来ると思われているだろうから、せめて少しでも印象良く見られたかったのに。
あがるあまり頭がくらくらして、まともに思考できそうにない。
(うう、第一印象が大事だって思ったのに)
失敗した、恥ずかしい、と顔が熱くなってくるのを感じていたら、
「ええ、初めまして。私はジミー・ウォン・ハウです。
……失礼ですが、以前トーナメントに出てらした、野良猫さん、ですよね?」
柔らかい声音で語り掛けられて、へっと顔を上げた。
「し、知って……ご存じ、なんですか? じぶ……私の事」
言葉遣いを改めて問いかけると、勇利の恩師、ジミーはさっきと変わらない笑顔のまま、もちろん、と続ける。
「いやあ、女性がメガロボクスをするというので、あの時は大変驚きましたが。
まさかあの人が、勇利さんの婚約者になるとは、思いませんでした」
「はぁ……それは自分もです。まさかキングが野良猫と付き合うなんてって」
「シャル」
つい本音を口にしたら、勇利が苦笑交じりにたしなめた。
自分を貶めるような事を言うとチェックが入るので、あっごめんと謝罪を口にすると、
「……俺も、結婚したいと思うような女性と出会うとは、考えもしませんでした。
ジョーといい、去年の俺は得難い出会いに恵まれて、本当についていたと思います」
「うっ……」
さらりとそう言うので、また赤面してしまった。
(勇利から改めて、結婚したい女性なんて言われると……は、恥ずかしいな……)
つい顔を背けて黙り込んでしまうと、ふふっとジミーが笑う。
「こんなところで立ち話もなんです。大したおもてなしも出来ませんが、奥でゆっくりと――」
だがその言葉は、再び響いたドアの音で遮られた。ばたん、と乱暴に開かれると同時に、
「おい、おっさん生きてるか。今日も来てやったぞ」
派手な黄色と赤で髪を染めた、いかにも不良然とした年若い少年が入ってきた。
「今日こそギアつけさせろよな。うまいこと言って、雑用ばっかさせや……がっ……」
ジミーへ毒づこうとして、その隣にいる勇利を目にした途端、肩に担いでいたバッグをどさっと落とし、
「……なっ……え、な、なん、えっ勇利? 何でキングがこんなとこにいんだよ!?」
素っ頓狂な声を上げてドアまで後ずさった。きょとん、とする勇利に、
「ああ、驚かせてすみません。あの子は先日入ったばかりで、あなたの大ファンなんですよ」
ジミーがにこやかに説明する。と、
「ばっ、おっさん、テキトーなコト言ってんじゃねぇよ! オレは別にファ、ファンなんかじゃねぇし!!」
顔を真っ赤にした少年がまくしたてる。おやそうですか、とジミーは首をかしげた。
「あなた、最初に通りかかった時、勇利さんのガウンに釘づけになっていたじゃないですか。昔の試合のことも、本当に良く調べていて「わー!! やめろ、本人の前で言うんじゃねー!!」
すっ飛んできたかと思えば、ジミーの口を手でふさぐ少年。
……どう見ても照れ隠しだ。
「分かりやすい……」
思わず呟くと、何だてめぇと彼が睨みつけてきたが、耳まで赤くなっているので迫力に欠ける。
その様子が、勇利の大ファンだった自分と重なって、シャルはつい笑ってしまった。
「――勇利。せっかくだから、ファンと交流してみたら」
そう促すと、彼は軽く瞬きする。
「良いのか。今日はお前の紹介をしにきたのに」
「こんな熱烈な子には答えてあげた方がいいよ。何か他人事とは思えないし」
「……それはそうだな。
――君。よかったら、少し話さないか」
小さく笑いあった後、勇利が車椅子を動かして、少年に声をかける。
「な、は、えっ!? 話、勇利とオレがっ!?」
相手はしばらく百面相をしておおいに動揺していたが、やがて二人はぎこちなくも何とか話し始めた。
「……すみません、お邪魔をしてしまったようで」
少年から解放されたジミーが頭を下げたので、シャルは手を振る。
「とんでもない。自分も勇利に憧れて、メガロボクスにのめり込みましたから。あの子が舞い上がる気持ち、分かります」
「……そうですか。あなたも」
ジミーは細い目を更に細め、感慨深げにつぶやく。その様子から、彼もまた勇利に並々ならぬ思い入れがあるのは、見て取れた。
(勇利がメガロボクスを始めるきっかけになった人、か)
シャルは、白都に入ってからの勇利しか知らない。
データや録画から、その前からメガロボクスをしていたのは知っていたが、その詳細は聞いてはいなかった。
(お互い、昔の事をほじくり返す気なかったしな)
自分はろくな過去が無いし、勇利は寡黙だから、あえて話題になる事も無かった。
ジミーという恩師の存在も、婚約を報告したい人がいる、という流れで初めて知ったくらいだ。
(……昔の勇利を知ってる人、なんだよな)
身内が居ないのはそれとなく察していたものの、勇利が未認可地区の出と知った時は驚いた。
あまりにもさらりと告白するものだから、それ以上尋ねるタイミングを逃してしまったのだが……
「……あの、ジミーさん。ひとつお願いがあるんですけど、良いですか」
熱心に話し込む少年と勇利を満足げに見つめている彼に、声をかける。
はい、何でしょう、と礼儀正しい返事に勇気づけられて、
「よかったら……昔の勇利のこと、教えてくれませんか」
おそるおそるお願いすると、ジミーは軽く目を瞠った。
「勇利さんのこと、ですか?
もちろん構いませんが、私よりも本人に聞いた方がいいのではありませんか」
「そうですけど、勇利は自分の話を面白くないと思ってるみたいで、あんまり教えてくれなくて。
……もっと、知りたいのに」
つい、ぽろっと呟いてしまう。
そう、知りたい。キング・オブ・キングスではない、勇利という人が、どんな人なのか。
どんな風に生きて、どんな風に感じて、どんな風に人と接していたのか――出来るものなら、全部、知りたい。
(……わがまま、かもな。勇利はこっちの事を根掘り葉掘りしないのに)
敢えてそっとしておいてくれてるのに、こっそり恩師に教えてもらおうなんて、ズルかもしれない。
そう思いつつ……それでも、自分の知らない勇利を知りたいと願う気持ちが湧いてきてしまう。
(……好きなんだなぁ、勇利の事)
そんな実感が急に湧いてきて、顔がまた熱くなる。
どうでもいい相手なら興味なんて、欠片も持たない。
こんなに執着するのは、勇利が好きで、全部欲しいと思ってしまうからだ。全部自分のものにしてしまいたいなんて、わがままを抱えているからだ。
(重たい奴って思われそうだな、これ)
恋愛で相手の男の事でいっぱいになってる女をバカにしてきたのに、いま自分がそうなってるのがどうにも気まずい。居たたまれなくなって顔を手で隠した時、
「いいですよ。私の知っている事でよければ」
風が滑り込むようなさりげなさで、その言葉が返ってきた。
はっと顔を上げれば、ジミーが柔らかく微笑を浮かべている。目が合うと、彼はふふっと小さく笑った。
「ただし、勇利さんには秘密にしておきましょう。
私が昔の事を色々話したと知ったら、恥ずかしがるかもしれませんからね」
「! はいっ!」
「おっと、しーっ、ですよ」
思わず嬉々と返事をしたら、口に人差し指を当てて戒められた。気づかれたかと慌てて振り返るが、勇利は壁にかけられた写真を前に、ファンの子と盛り上がっているようだ。
その柔らかな表情は、どこか少年めいた幼さを宿しているようにも見えて、
(……勇利、ここが好きなんだなぁ)
初めて見る横顔に、胸が暖かくなるのを感じたのだった。
礼服を着る機会などそうそう無いので、どうにも落ち着かない。
まして燕尾服なんて、初めて袖を通したものだから、肩がこる。シャツが首にこすれるのも気になってしまうが、
(まぁ、私の恰好なんて、どうでも。今日の主役は彼女ですから)
自分は転びさえしなければいいだろう。そう思って隣を見たら、
「………………帰りたい…………」
小さく震える声で、シャーリーが呟いていた――白いベールを透かしても分かるほど、蒼白の顔色で。
「落ち着いてください。ここまで来て逃げ出すわけにはいかないでしょう」
緊張のピークに達しているらしいのを見て取り、腕を組んだ白手袋の手をぽんぽんと叩く。でも、と彼女は泣きそうな顔でこちらへ顔を向けた。
「でもジミーさん、やっぱり無理だって。こんな格好、絶対絶対転ぶし、皆の前に出るの、恥ずかしい……」
「恥ずかしがる事はありませんよ、シャーリーさん。とっても綺麗です」
ジミーは彼女を頭からつま先まで見やり、心から告げた。
普段男っぽい立ち居振る舞いをしている分、余計に際立つのか。
その真っ白なドレス――すなわち、ウェディングドレスに身を包んだシャーリーは、世辞ではなく本当に愛らしかった。
髪を丁寧に結い上げた頭はベールに、つま先は柔らかく広がる波打つ裾に覆われている。
しなやかな線を描く首から肩のラインはむきだしで、その細さが何とも繊細に映るし、小柄な体を包み込むドレスは繊細な刺繍を施され、ふわりと空気を含んで広がる様は、妖精のようだ。
無骨な自分から見ても、十二分、可愛らしいと思うのだから、
「早く勇利さんにも見せてあげないと。
きっとこの扉の向こうで、今か今かと待ちかねていますよ」
そう言って視線を向けたのは、白いドア。
時間が来たら開け放たれるそれはまだ閉じられたまま、微かに人々のざわめきが聞こえる。まだゲストが入場している頃合いなのだろう。
少しでも緊張を和らげようと、勇利を引き合いに出すと、
「っ、それは……そうかなぁ……」
シャーリーの青かった肌色が一転、赤みを帯びる。何とも素直な反応に、思わず微笑んでしまった。
(勇利さんは、素敵な人を見つけたんですね)
白都へ旅立ってから十年。
彼の活躍はもちろん、余すところなく見続けていた。
だが、チャンプとして名を馳せるほど、かつて目を輝かせてメガロボクスに打ち込んでいた少年の面影が、勇利の顔から消えていく事を、ジミーはずっと気にかけていた。
『同じ時代に、絶対に勝ちたいと思える相手がいる事は、幸せな事です』
勇利を送り出す時に告げた言葉。
もしかしたらそれが、彼を縛る枷になっているのかもしれない。
その相手を求め続けて、かえって心を凍らせてしまったのかもしれない。そんな心配すらした。
(十年は長い。私もジムを畳んでしまおうと諦めてしまうくらいには、長かった)
自分も、そして勇利も、追い続けた夢を見失ってしまうのか。そんな絶望を抱いていたというのに――今は、どうだ。
(勇利さんはジョーさんと最高の試合をして、こんな可愛らしい娘さんと結ばれた。
そんな姿を、目にできるなんて)
「……私なんかで、良かったんですかねぇ」
嬉しさ半面、ふと弱気が口をついて出る。
え? とベールを揺らして彼女がこちらを見たので、いやぁと頭をかいた。
「こんな晴れの舞台で、私なんかが花嫁の付き添いを務めていいのかと、改めて思ってしまいました。
私も緊張しているんですかね」
結婚式をするので来てほしい、と招待されるまでは単純に喜んだのだが、両親不在のシャーリーを、勇利のもとへ案内する父親役まで打診されたのは驚きだった。
そんな大役は出来ない。
何度か断ったにも関わらず、勇利がどうしてもと譲らないものだから、最後には折れたが――ここにきて、急に不安になってしまった。
「何しろ勇利さんとも十年ぶりですし、あなたの事も良く知りません。
ほとんど部外者のような私に、父親の代わりなんて、とてもとても……」
こんな場で言うべきではないと思いつつ、こぼしてしまう。と、
「何言ってるんですか、
こんなこと、ジミーさん以外にお願いできませんよ!!」
不意にぎゅっと腕を掴まれ、思いがけないほど強い口調で断言された。驚いて顔を向けると、シャーリーはまっすぐこちらを見据え、
「勇利はあなたの事、メガロボクスを教えてくれて、自分が生きる為の道を示してくれた人だって言ってました。
十年会ってなくたって、きっとその間ずっと、心の支えにしてたはずです。
そりゃ、自分はジミーさんとは知り合って、間もないですけど……勇利がそんなに大事に思ってる人なら、自分にとっても大事な人です。
だから一緒に式に参加してほしいって、二人で決めたんです、そんなこと言わないでください!」
「シャーリーさん……」
言葉一つ一つ、念を押すように強く告げてくるものだから、目を瞬いてしまった。言い切った後、花嫁は背筋を伸ばして扉に向き直る。
「勇利はジミーさんが来るのを待ってます。だから大丈夫、一緒に行きましょう」
「……はい。そうですね」
さっきまで卒倒しそうなほど青くなっていたのに、今は凛として立っている。
不思議な人だ、とジミーは目を細めた。不意に湧いた弱気の虫が吹き飛んだのを感じて、ふふ、と笑う。
(ああ、いい人を選んだんですね、あなた達は)
勇利がシャーリーを選んだ理由。
シャーリーが勇利を選んだ理由。
それを、再会して間もない自分でも、理解出来た気がしたので、
「……では行きましょうか、シャーリーさん。二人で、勇利さんのところへ」
「はい!」
互いを鼓舞して微笑み合った時、きい、と扉がきしんで開いた。
それまで静かだったのが、前方から風と明るい日の光が一気に押し寄せてくる。
わぁ、と歓声が沸き起こる中、眩しさに慣れた視界には、真っ赤なカーペットを中心に、着飾った人々が喜びにわいてこちらを見守っているのが映った。
そしてその先にいるのは――白いタキシードを身に着け、祭壇の前で花嫁を待つ、車椅子の花婿。
勇利、と小さく呟く声が聞こえたので盗み見れば、ベールの向こうでシャーリーはすっかり、彼に目を奪われているようだ。
(本当に、何ともお熱い事で)
当てられてしまうなと微笑みながら、ジミーはゆっくりと足を踏み出す。
その胸中にあった不安はもはや影も形もなく、ただただ、輝かしい喜びに満ち溢れていた。